眩しい朝だけを数えたい
頬を撫ぜるぬくもりに促され、気怠い意識が覚醒する。燦爛と射し込む、闇夜に慣れた目には聊か強過ぎる曙光——
従者の一日は、主君の部屋を清掃することから始まる。開け放った窓から爽爽した朝の空気を取り込みながら、目に見える埃を取り除いていく——毎日欠かさずこなす習慣であるにもかかわらず、どうしてこうもすぐに積もってしまうのだろう。調度品を磨き上げ、掃き終えた床に敷物を敷き直し、草臥れた花瓶の花をみずみずしい生花へと取り替えて——言の葉一つも発することなく、粛々と執り行われる作業。身の回りの世話なぞ他の侍従に任せたら良いと、常日頃から小言を漏らしていたけれど——部屋を訪れる頃にはすでに身なりを整えているお嬢様の、油を塗り込んだ髪を痛まぬよう編み込んでいく時間も、一日の決まった時間に彼女が好む茶を入れ、湯気立つそれに舌鼓を打つ姿を見守る時間も——今でも鮮明に思い出せる——片時とも忘れてしまいたくは、なかった——想起される全てに対して、イサンは一度たりとも厭わしさを覚えたことはなかった。
お嬢様の部屋はさほど広くない。大観園の四大家門、
鴻園に住まう誰もが、もう何も奪われることなく、怯えることなく暮らせる治世。それは彼女によって——たとえ、どれほど途方もない時間をかけたとして——必ずや成し遂げてくださるはずだった。
しかし、彼女は戻られることのない遥かなる冒険へと旅立たれてしまわれた。
自身の肉体を、冷たい土の下に遺したまま。
——護衛である、自分を置いて。
込み上げそうになる熱いものを押し留め、大輪の白菊を抱えたイサンは屋敷を出る。もはや大観園の誰からも存在を忘れ去られた暖香塢は、唯一の住人となった
「…………」
ふいと、落としていた視線が一点に留まるや否や、イサンはそっと瞼を伏せる。石塚の傍らには、すでに手向けられた一輪の菊。自分以外の誰が用意したものなのか、改めて吃驚するようなことでもなければ、考察に頭を巡らす必要もない。よくもまあ飽きないものだ——人知れず吐息が零れる。初めて花が供えられたのは、まさにあの男が夜な夜な暖香塢を訪れるようになった時期と合致していたのだから。
そう、あの男。鴻園の現支配者であり、我等黒獣の主である、血に彩られた絶対的君主。
そして——妹君であるお嬢様を殺めた、者。
幼い時分はよく遊んでもらったのだと口にしていた主君は——努めて平静を保っていたとはいえ、一次審査を控えた夜の襲撃に甚く心を痛めていたほどには、自身の兄を慕っておられた。
「……——ホンル」
ゆえにこそ——救済の手段がこれしかなかったのだと、胸懐では理解していても——彼女を死に至らしめた彼の男を、易々と赦すことなど出来はしない。怨讐に等しい彼奴の心境なぞ——いまさら、亡き妹妹の死を悼む理由なぞ、慮る必要がどこにある。
刹那、ぞくぞくと背筋を冷たいものが這い上がる。朝凍みに体温を攫われたか、それとも——疼きを孕んだ胸の、逸る心音。こびりついて離れぬ昏い眼差しを振り払うように頭を振る。そうでなければならない——そうであるはずがない。自分に言い聞かせながら、花を献じ終えたイサンは足早に踵を返した。
そも、この冗談じみた悪夢の関係が始まったのは、いつからだったか。それは幾許か前に遡る。君主より直々に命ぜられし任を完遂し、大観園の地を踏む頃には日もとっぷりと暮れてしまっていた。おもむろに視線を上げる。こぢんまりとしながら、夜の帳が降りた今でも確固とした存在感をもって、目の前に聳え立つこの塔こそ
四大家門のことごとくが制圧され、一人の男が事実上の君主として君臨して以来、かつて栄華を極めた大観園は嘘のように静かだ。耳の痛くなる
君主の元へと向かう足取りは酷く重い。鼻孔を擽る花木の香だけが、暗澹に沈みゆく胸中を癒してくれる。一刻も早く暖香塢へ戻りたかった。
「イサンさん」
扉の前にさしかかった時のことだ。耳朶に触れたのは、鈴の鳴るような、玲瓏な声音。溜息一つ、声のする方を一瞥する。つい先刻まで人の息遣いさえ感じられなかった廊下の暗がり、夜闇に溶け込んでいた白皙の輪郭が炎の揺らめきに照らされ、じわりと浮かび上がった。金色の眼を耀わせながら音なく歩み寄るは、卯どもを束ねる者にして、君主の懐刀。
「……ファウスト嬢」
「先ずは任務からの帰還、お疲れ様です。素晴らしい戦果であったと、主君も喜んでおいででした」
落ち着き払った声色で、淡々と紡ぎ出される彼女の言にうわべだけの偽りは見られない。おそらく事実なのだろう——これといって、喜びは湧かないが。
「慰労は不要なり。——要件を伺わん」
さりとて目的もなく、それも馬の労をいたわるためだけに、わざわざ呼び止めてまで言葉を尽くすような女性でないことも、知っている。ゆえに問うたイサンを一対の双眸が見つめる。しばし続いた沈黙の後、精緻な睫毛が縁取る瞼を閉ざすと、ポーカーフェイスを崩さぬまま、彼女はその桜唇を開いた。
「……今宵は、誰とも会いたくないと仰せです」
彼女の言の葉は至って簡潔だったが——嗚呼、そういうことか——すぐに得心がいった。何も驚くことではない。黒黒とした人工の夜天が鴻園を覆い尽くす頃、宝玉を抉り出して久しくも、未だ
「鎮痛の
「すでに服されましたが、如何せん効果は薄いようで……顔色も優れず、今は自室で休まれています」
「……さりか」
短い言葉を吐き終えると共に、やおら扉を見遣る。特段、すすんで顔を合わせたいと望むような人物でもない。顔を合わせずに済ませられるならば、それに越したことはなかった。疾く、この言い知れぬ緊張から逃れてしまいたい。
さらば、夜が明けし折りにでも、午が挨拶に馳せ参じたと伝えたまえ——そう腹心に
「……イサンか?」
突として投げかけられた声に、動きかけた足が止まる。常であれば、聞く者の心の柔いところへ滲み入ってくるような、低く怖気の走る声色——しかし、かろうじて絞り出されたそれは呻吟にも似た弱々しさをもって、更なる言の葉を紡いだ。
「構わん。入れ——君主との謁見を許す」
一瞬、彼が何を口にしたのか、理解出来なかった。予期など出来るはずもあるまい。誰にも会いたくないと、腹心に人払いまで命じていた男が、どういう風の吹き回しだ。頭の中で反芻し、いくら推論に推論を重ねても手は空を掴むばかりで、探し求める答えは一向に見つからない。
「……イサンさん」
意識が現実に引き戻される。いかほどの間、思索に耽っていたのだろう。
「——今、向かわん」
飽くまで駒に過ぎぬ自分が下された勅命の、その言葉に込められた意図まで汲み取ろうとする必要は——理解すら、したいとも思わない——それにもかかわらず、考えることを止められない——ないだろうに。寸陰を惜しむかの如く自身の名を呼ぶ
外界と隔たれた重い門を開くと、まず鼻尖を掠めたのは、ほのかに甘い香の匂いだった。すでにほとんど風化してしまったが、かつて仕えていたいずれかの主君に連れられた際、嗅いだことがあるような——整頓された記憶を引き出す。確か、その主君はこれを「白檀」だと言っていた気がする。心に張り巡らせた緊張が解きほぐされるような——脳髄までもがどろりと蕩けるような——身体の芯に火が点され、手のひらに、背に、気付かぬうちに汗が滲んでいく。名状し難い忌避感を覚えながら、彷徨う視線が、僅かな光源を頼りに君主を探る。あえかな——しかし花木の香でも隠しきれぬ血の匂い。よもや何者かの死体が転がっているのではないかとあらぬ考えが脳裏を過ぎるが、幸いにも杞憂であったらしい。
「……君主」
安堵を吐息に秘して、未だ所在の知れぬ探し人に呼びかける——一拍を置いて、天蓋の奥でもぞりと身動いだ何かに合わせて、絹布に広がる夜空がしゃらしゃらと音を立てる。寝台を軋ませながら上体を起こしたその男は、緩慢な動作で振り向いた。
「——」
茫洋と照らされた肌膚はもはや陶器のように青白く、包帯に覆われた左目からは受け止めきれなかった赤黒い血液が頬を濡らし、褥に点綴とした染みを残している。千々に乱れた柳の髪の隙間から覗いたかんばせは、自身を苛む苦痛によって影を落としていたとして、慄然とするほどに美しい。
ああ——たった一言、帰任の報告をして立ち去れば良かったのだ。魔性めいた凄艶に魅入られたがゆえに、けたたましく警鐘を鳴らし続ける理性と相反するように、踏み出してはならない一歩を踏み出してしまった。寝台まで歩み寄ったイサンは、そろりと、心ならず壊してしまわぬよう、君主の肩へと手を添える——手甲越しでも伝播する、生々しい熱感。
「君主。そなた——」
今こそ上手く隠し遂せているが、君主が病に臥せること自体、決して珍しいことではなかった。
「……なにを、している……」
熱病に冒されていまいかと、額に伸ばした手が振り払われる。包帯を掻き毟るように左目を押さえたまま、己を睨めつける薄ら昏い瞳と搗ち合った。
「俺は、看病まで許したつもりはないが。早く報告を済ませて……ここから出て行け」
忌々しげに吐き捨てた吐息は、焔のように熱い。
「……私は黒獣なり。今、我が轡を握りしそなたがかくしも苦しげなれば、見捨て置く由もあらじ」
絆されるつもりは毛頭ないが、少なくとも、目の前で片息を吐いている彼を放置するのは寝覚めが悪い。とはいえ、生憎解熱作用のある丸薬など持ち合わせているわけもなく、せめて水分だけでもと、傍らにある陶器の水差しを掴もうとした——
「……くそ、……」
その手が、月すら恥じらう美貌には不釣り合いな、血管の浮いた精悍なそれによって阻まれて——
「——、——?」
そうして、肢体は絹の褥に投げ出され——景色は反転した。つい先刻まで見下ろしていた花顔が、いつしかすぐ真上から、自分だけを見つめている。イサンの視線もまた、同じく君主のみに向けられたが——否、夜色を織り込んだような艶やぐ御髪の天蓋に囚われてしまったせいで、君主以外の何ものも映すことを許されない、といった方が適切だろうか。
「……君主、何の真似なりや?」
「見捨てられないと言ったのはお前だろう」
うっそりと下げられた眦。作り物じみた蒼白い容貌で、一等鮮やかに色づく口許に湛えた婀娜たる微笑は優しいはずなのに、けれど恐ろしくて堪らない。
「警告はしたぞ。それでも……お前が、傍にいたいと駄々をこねるのなら、俺も無下には出来ん」
一向に解かれぬ拘束。早鐘を打つ鼓動が悟られぬよう密かに息を整えるたび、馨香が肺を満たす。白檀の香と綯交ぜになった、気が狂いそうな雄の匂い。灼熱めいた血潮が心臓から全身へと駆出され、汗が噴き出す。頭まで煮え滾りそうで、眩暈がした。
「光栄に思え。お前に、夜伽の命を与えてやる」
それゆえに、だろうか。出し抜けに告げられた彼の「命令」を、瞬時に把握出来なかったのは。
——夜伽?
この男は、一体何を言っているのだ。
「いよいよ狂いきや? 戯言は、やめたまえ」
戦の道具——ましてや、背丈もさほど変わらぬ男を抱こうなど、狂気の沙汰と呼ばずにして何と呼ぶ。
「ほう? それは妙だな。戯言と言う割には……」
大人二人分の体重を支えていた寝台が悲鳴を上げた。イサンの足を割り開いた膝が、そのまま迷いのない動作で布を滑っていく。辿り着いた行き止まりにそれが押しつけられた途端、ぞわぞわとした何かが脊髄を駆け巡り、無意識に身体が震え上がった。
「——勃っているぞ?」
内腿を這う指先の熱っぽさに、情けない吐息が漏れてしまう。面具を纏っていたことだけが幸いだった。これがなければ、含羞に火照った頬も、噛み締めた口唇も、全てを君主の面前に差し出していただろうから。これ以上、おかしくなりたくはなかった。未だ自由の利く片腕でどうにか押し退けようと試みるも、掴んだ手首はびくりとも動かない。病者である身のどこに、これほどの膂力を隠していたのか。
「拒絶にしては、いじらしい反抗じゃないか」
十二黒獣の筆頭に名を連ねる立場でこそあれ、他の個体と比較しても、イサンはとりわけ屈強というわけではない。とはいえ、人生の大半を戦に投じてきた身だ。君主になす術なく負かされるほど、非力でもない自信はあった。ならば何故、抵抗が意味を成さないのか。導き出された——そうであるはずはないと願っていた憶測が、胸に去来して離れない。
「こうもか弱くされては、煽っているも同然だ」
鼓膜を舐るような囁きに、それだけで芯がかっかと燃え上がった。このまま、されるがままに凌辱されてしまえば、自分は一体どうなる。頭身の毛も太るような怖気に、なりふり構わず身を捩った。しかし、眼前の恵体を振り解くどころか、股座へ挿し入れられたままの足が秘所に擦れるたび、突き抜けるような快感に脳が痺れて、四肢から力が抜けていく。
「……ぁ、……っ」
まろび出る甘だるい声が、自分のものだと思いたくなかった。くたりと寝床に落ちた片手がとうとう、恭しさすら覚える手つきをもって捕らえられる。
「馬もそこそこ鼻が利くとは聞いていたが……まさか、たかが檀香を焚いた程度でこれほどとは」
薄笑みで睥睨する君主によって——曰く、馥郁たる香気で癇の高ぶりを鎮めてくれる白檀だが、嗅いだ者をいっそうの官能へと誘う「媚薬」として、閨に焚き染める香に用いられることがあるのだ、とか——束ねられた両の腕を縛り上げる、細長い布状の何か。自ずと目を惹かれたそれは、深く沈んだ紅色でなく、優しい翡翠色をしていた。
常より彼の玉貌を包み隠している包帯も、本来はこのような色だったのだろうか。
「まだ思考を巡らせる余裕はあるらしい」
だが、それも胸部を鎧う漆黒の外皮を剥がす手に遮られた。肌着までもがたくし上げられ、今まで誰の目にも——無論、お嬢様にさえ——触れることのなかった肉体が晒される。傷ばかりが増えた、生白くて貧相な痩躯を穴が開くほど見つめる君主の指が、腸骨を、腹に薄らと浮き出た筋をなぞるように滑っていく。こそばゆさとはまるで異なる、下腹で燻っていた火が燃え熾り、徐々に身を焦がしていくような——指の感触が残る皮膚の粟立ちが止まらないのは、寒々とした夜気のせいだと自身に言い聞かせた。
「……随分と、奥ゆかしいな」
「っ! あ——、ぁ……」
その指先が、上へ上へと辿り——胸の頂を捉えた、刹那。これまでに感受した以上の甘い痺れが濁流の如く押し寄せて、思わず腰が跳ねる。何が起きたのか、客観的な判断が下せぬほどに、脳が混乱していた。おそるおそる下げた視線の先には、弄ばれてなお埋もれたままの乳嘴。心なしかふっくらと隆起した乳暈に走る割れ目をやわやわと撫ぜられるだけで、えも言われぬ感覚に息が上がってしまう。
「ひ、……っ!」
ほんの僅かに綻びを生じた窪みへと、無遠慮に挿し込まれる指——自分ですら目にしたことのない乳口が指腹で押し潰され——たったそれだけの刺激で、何も考えられなくなるほどに思考が白に蕩けた。
「……んっ……、ぅ……」
片や乳嘴を捏ね回され、片や乳暈ごと摘み上げられ、漏れそうになる無様な嬌声を下唇を噛み、耐える。身体を刃で貫かれる苦痛ならば、いくらでも耐えられただろう。しかしこの快感は——この恥辱は——身も心も蝕み、壊す、地獄の責苦に他ならない。
「……君主……」
心が底なしの官能に耽溺してしまう前に、イサンは懇願するような眼差しで君主を見据える。
「これ以上は、ならぬ……」
歯の根は合っておらず、戦慄く言の葉はもはや哀願に等しかった。我ながら滑稽な痴態であると、内心自嘲するが——それでも、イサンの心は今も昔もお嬢様のものだ。主君が成し遂げられなかった悲願成就のために轡を握らせたとはいえ、君主に対して身体のみならず、心までをも明け渡すつもりはない。
「……勘違いをしているようだが」
突き刺さるような静寂を経て——眼睛を細め、ようやく開かれた君主の口許は哀れむように、嘲るように歪められた。艶を孕んだ掠れた低音に心臓を鷲掴みにされて、一瞬だけ、呼吸を忘れてしまった。
「お前の主は今、甚く気分を害していてな。……何せ、こうも目がずきずきと痛む夜に、俺に従うべき獣が言いつけの一つさえ守れないのだから」
小首を傾げる様はどこかあどけないのに、甘く匂い立つ色香を纏い、誰よりも美しく微笑む男の顔が、吐く息の熱まで感じられるほど傍に寄せられて。
「ならば——手酷く犯されても文句は言えまい?」
見せつけるように、淫猥な音を響かせるようにして、口に含んだ赤く尖った乳首を強く吸い上げた。
「ヒ、ン——ッ!」
胸の窪みから引きずり出された尖りに歯を立てられ、引き攣った喉から甲高い
堰を切ったように込み上げた涙で視界が滲む。されるがままに組み敷かれ、達してしまった——よりにもよって、主君を手にかけた許し難い男の手で。
「俺にイかされたのが、それほど口惜しいか」
揶揄の込められた声色が、殊更に恨めしい。脳髄を掻き毟るような屈辱と憎悪の眼差しをもって睨めつけた男は、しかし露ほども意に介した様子を見せず、くつくつと喉を鳴らすばかりだった。
「強情だな」
「ッ、あ、ァ……!」
「それにひきかえ、此方は素直なようだ」
赤く熟れた尖りを挫かれて、
「普段から冷めた表情で、誰にも愛想も振り撒かないお前が蕩けた顔をして、媚びるように腰を振っている様は、なかなか感に堪えるものがある」
まだ、意識を飛ばしてくれるなよ——低い囁きを落とした君主の手が、やにわに下穿きごと下衣を下ろす。縁に引っかかった拍子に
「……すごいな」
小刻みに震える欲望に指が這うだけで、否が応でも喉が鳴ってしまう。気持ち悪いと唾棄する心とは裏腹に、ひとたび獣欲を教え込まれた肉体は、もっと欲しいと期待に胸を躍らせていて。雌馬のように腰を振り、肚をきゅうきゅうと切なげに疼かせては、芯を握り込む手の荒々しさに歓喜で咽び泣いた。
「こんなに蜜を滴らせて……」
君主の手を汚した粘稠性の白濁が、誰のものかなんて明白で——それが見せつけるように開かれた指の間で糸を引き、手のひらを伝い落ちていく。
「ヒ、……ッ!」
「閉じるな」
臀部のあわいに隠れた後孔。鼠経を流れる欲の残滓ですっかり濡れそぼったその辺縁を這う指の動きは、明らかに窄まりを抉じ開けようとしている。本来は何人も受け入れぬよう、堅く閉ざされていなければならない器官——それが、大した抵抗も示さず、命じられるがままに君主の中指を迎え入れた。
「んっ……ぅ……、……」
「この柔らかさなら、さほど懐柔せずとも指のもう一本くらい、すんなりと入りそうじゃないか」
「っ……や……」
蕾を押し拡げるようにして、二本目の指が入り込んでくる。最初は入口の内壁を擽る程度だったそれ等が、やがて肚を掻き分けるようにして、奥まった箇所を慣らし始めた。時間をかけて侵されたからか、異物感は拭えないものの、不思議と痛みは感じない——が。熱に浮かされた頭で思案に耽る。これでは、凌辱と呼ぶにはあまりにも丁寧過ぎやしまいか。
「ぁ、……——っ」
淫靡な水音を立てながら、咥え込んだ指先が一点を掠めた途端に、目の前で爆ぜた星彩と共に思考は霧散した。胸や陰茎への愛撫で覚えたそれとはまた別物の——危うく溺れてしまいそうな、底が見えない快感。イサンの変化に勘付いたのか、興味深いものでも見つけたかのように、微かに丸みを帯びた瞳が細められる。三本目が難なく収まるほどには泥濘みきった肉襞に埋もれたそこへと一度、二度と指が撫でつけられただけで、度し難い熱に腰骨が疼いた。
この身を暴かれた瞬間から、自分の身体でありながら自分でないような、浮足立つ感覚はあった。頃合いとばかりに引き抜かれた指に安堵よりも先に喪失感を覚え、追い縋る襞の感触までまざまざと感じ取れてしまうくらい、理性と本能が乖離している。
「——、っ……」
寛げた前から、天を向いてそそり立つ剛直。自分のそれと比較しても、規格外に膨れ上がった——他でもない自分自身へと向けられた欲望を、目の当たりにしてしまったら——知らず知らずのうちに喉を鳴らす。憎悪という名の理性では堰き止められないほどに、本能が、魂が、犯してほしい——孕ませてほしいと、身も世もなく希ってしまう。
「く……、ぁ……っ……」
雁首さえ受け入れてしまえば、すでに熟れきったイサンの肚は待ち焦がれたとばかりに雄を招き入れた。遅々とした歩みで隘路を押し開く屹立は滾るように熱く、薄い皮膚越しでも怒張した血管の拍動が伝わってきて——止め処なく溢れる汗が頬を濡らす。
「ふ、ぁ……っ、あ、——んっ……あぁ……」
「……っ……」
浅いところばかりを責め立てられて、もどかしい。過度な苦痛を与えぬよう、快感を育てていくような律動——これではまるで、愛し合う二人のまぐわいではないか。制止の言葉に耳も貸さず、手酷く犯すと言いのけたのは、他ならぬ君主自身だったくせに。
思考も感情も、何もかもが混沌の最中にあった。
「や……、ぁ……おく……んっ……とく……」
馬蹄が敷布を掻く。腰を引かれるたび、名残惜しげに纏わりつく媚肉。突かれるたび、悦に入るように締めつけを強める隘路。心の柔いところが過ぎた快楽で塗り潰されていく。その感覚が、恐ろしい。
「く、……っん、しゅ……あっ、ア、っあぁ——」
全て、この甘美な濃香のせいなのだと言い聞かせて、早く——疾く——奥まで貫いて、この悪夢を終わらせてほしい。灼ける激痛に身悶えても構わない。その痛みこそ、脆弱な正気を保ってくれるのだから。
「——気を確かに持て」
不意に、落とされた声があった。続いて、唇へと触れただけのぬくもりは——面具を外されたことさえ、気付かなかった——すぐに離される。鼻先が触れ合う距離で見つめ合う君主の手が、あたかも慈しむようにイサンの乱れた髪を梳いた。
「まったく……俺を食い殺す気か?」
嘆息交じりにぼやいた彼の顔色は、ぼんやりと上気して赤らんでいるからか、常より死の匂いを纏う美貌はいつもよりもずっと生者らしい。
「……唇が切れているな」
晒された口唇——僅かな痛みを訴えるその傷跡をなぞる指先。噛みちぎられても文句は言えないだろうに、信じられないくらい優しく抉じ開けられた歯列の隙間に、その親指が捩じ込まれた。
「……、……ん……」
「噛むならこれにしておけ。……動くぞ」
「っ、ふぁ、……ぁ……!」
囁きと共に、切先が窄まりで閊えるまで引き抜かれ、一息に貫かれた。弱いしこりを抉られただけで呆気なく達してしまった肚はくったりと弛緩し、さらに深くまで沈んだ熱杭によって奥まった箇所を犯される。まともに閉じることの出来ない口から、歯止めが効かず聞くに堪えない嬌声が溢れ出して、止まらない。惨めで、恥ずかしくて、涙が出る。眦から零れ落ちるそれを、君主の唇が受け止めた。
「痛むか?」
無我夢中で首を横に振る。無様であると呼ぶ他ない黒獣——それも、それ等を束ねるべき筆頭の醜態を眺めていた眼差しは、普段の凍てつくような冬夜のそれとは違い、春の陽射しめいた穏やかさを帯びていて。あの日、お嬢様を歓迎するためにただ一人、大花庁の席を埋めた彼の微笑が脳裏に咲く。
聡いお嬢様は、彼の者の笑顔に不穏なものを感じ取っていたが——事実、その夜に受けた襲撃を思えば、彼女の直感は間違っていなかったのだろう——不毛と知りながらも、考えてしまうことがある。
はたして、あの時に見せた微笑は、まことに虚ろなまがい物でしかなかったのだろうか。