優しいことだけで満たして


 気付くと、イサンは鬱蒼とした森の中にいた。見渡せども、周囲は青々とした光沢を湛えた新緑ばかりで——大観園のいずこかであると推測こそ出来るが——詳しい位置までは杳として知れない。
 自分は何故、いつの間に、このような場所に佇んでいたのだろう。混乱の渦中にある頭を落ち着けようと黙考に沈んでいたのも束の間、あまりに幽けき、さりとて確かに聞こえた音に、弾かれたように耳をそばだてる。出来得る限り物音を殺して——ここが大観園ならば、どこに毒が仕込まれていても不思議ではない——慎重に木々の合間を掻き分けながら、歩を進める。緩徐ながらも音のする方向と近付くにつれて、しばらくしてそれが幼子の啜り泣く声であることに気付いた。もしや、四大家門の令息令嬢が森に迷い込んでしまったのではあるまいか。大観園は広大である上、いつ、いかなる時、闇に潜んだ刺客が自分の首を狙っているとも分からない。かくも幼き欷泣ききゅうが悲鳴で途切れてしまわぬことを祈り、逸る心を抑えながらも、イサンは一心に馬脚を動かす。
 歩いて、歩いて。行く手を阻む緑を退けた先でようやく、夜空を梳かしたような髪が土で汚れることも省みず、小さく縮こまった背中を見つけた。
「……っ」
 微かに弾んだ呼吸と共に、心の底から安堵の吐息を零す。声をかけようと口を開いた、刹那。目の前で華奢な肩を震わせ、振り向いた瞳は溢れる雫に揺れていて。予期せぬ闖入者に対して、怯えるように見開かれた翡翠色に煌めく宝玉は瞬きすら忘れるほど、この世の何よりも美しくて——いじらしい。
 何故、この少年が涙を流しているのか、イサンには計り知れぬ身であるがゆえ、軽率に慰めの言葉をかけるなど烏滸がましい——けれど。これ以上、あどけない面持ちが悲痛に沈む様を見たくはなくて。
「————」
 考えるよりも先に、手を伸ばそうとした。何かを言おうと開いた口は——結局何も紡ぐことなく、意識は朝焼けの光によって、現実に引き戻された。
「…………」
 突き出していた手が肌寒い虚空を切る。かつてはお嬢様と過ごした日々の回想ばかりを繰り返していた——黒獣として生きる以上、いずれは朧となって薄れゆく記憶だ。たとい現実でなくとも、敬愛した御姿と再びまみえることが叶うのなら、これに勝る幸甚はない——己の願望が見せた夢幻をぱたりと見なくなり、幾許が過ぎただろう。未だ拭い去れぬ侘しさで自ずと尾が垂れるも、心はふつふつと沸き立つ好奇心を抑えきれずにいた。見覚えのある花のかんばせと、玲瓏たる光を宿した左目。夢で逢ったあの少年は、若かりし君主——バオユ若君なのだろうか。
 実に、奇妙な話だ。お嬢様と初めて相見えた時分でさえ、彼女がすでに麗しく成熟された後だというのに。己身こしんが初めて変質した瞬間を除いて、いつぞやから蹄を鳴らし、戦場を四つ脚で疾駆してきたのか。定かに覚えていないとはいえ、万が一にでも幼き宝玉と関わりを持つような事態は起こり得ないはず——なのだが——ぼんやりと敷布に投げ出された手をしばし見つめるも、薄手の夜衣だけでは誤魔化しきれない肌寒さに、やがて短い吐息を零したイサンは緩慢な動作で寝台から身を起こそうとした。
「……っ……」
 上げた腰が、ふるりと震える。あえかな疼きを残した後孔から、注ぎ込まれた夥しい量の液体が、太股を伝い落ちていく生温い感触が不快で、反射的に眉を顰めた。そういえば、昨晩は普段と比べても手酷く甚振られたことを思い出す。たった一夜抱き潰された程度で容易く砕けてしまうような弱腰でないと自負しているが、毎夜の如く身体を差し出し、あの男の良いように弄ばれ、恥辱に塗れた嬌声を噛み殺す日々を過ごすのは——さほど良い気分ではない。
 
 君主が人知れず暖香塢へ足を運ぶようになったのは、初めて彼に組み敷かれた夜から幾度か月が沈み、昇ったある日の夜更けだった。お嬢様と交わしたやりとりを、想起し得る限り事細かく記した文を反芻する——もはや習慣とも呼ぶべき行動に区切りを打ち、そろそろ眠りに就こうと繊細な手つきで文を畳んだ、イサンの馬耳が突としてぴんと上向いた。門戸が開かれる音。嫌でも知っている、一人分の足音。さすがに護衛の一人くらいは影に潜ませているだろうが、鴻園の主君が自らの足で、わざわざ夜陰に乗じてこのような場所に出向いてくるとは。もしやすると、馬に勅命でも申しつけに来たのか。
 昼夜問わず、主より賜った命を果たすことには慣れている。おそらく、今回もそうなのだろう——竹簡で良かったろうに、とも思うが——着実に近付いてくる音を拾いながら考えていた。事実、その予測は正しかったといえる——いえるのだ、が——
 共寝。その紅唇より命ぜられた任は、おおよそ予測もしたくないものだった。よもや気が狂ったのではなかろうか。閨の世話なぞ、黒獣の領分ではない。暴君などと畏怖される存在とはいえ、あれほどの器量だ。高級娼婦でも雇えば、嬉々として奉仕を惜しまぬだろうに。少なくとも、イサンはこれ以上、彼に触れられたくなかった。あの日、否が応でも教え込まれた快楽の余燼ほとぼりが、未だ冷めきれずにいたから。
 人肌のぬくもりが恋しいのなら、他を当たれば良い。ぞんざいに言い捨てたところで、素直に引いてくれるような物分かりの良い人物でないことは知っていたはずだ。それなのに、彼に対して背を向けたのは何故か。イサン自身にも分からない。
 背後から掻き抱かれ、形ばかりの抵抗すらも放棄してしまった理由でさえ——分からない。
 
 最初の頃は、髪を撫ぜたり、馬耳を指で触れたりと、本当にささやかな愛撫ばかりだった。こそばゆくて、いっそ心地好さすら覚えてしまうようなそれが、しかし時として尾の付け根を弄り始め、肌着越しにも存在を主張し始めた尖りを乳暈ごと摘み上げられ——挙句の果てには、肚が彼の形に作り替わるまで硬く滾る欲望で穿たれ、身も世もなく啼かされて。あたかも奥底に燻っていた昏い情欲を引きずり出すような、淫蕩な動きへすげ変わる時があった。
 仮にも翼の主が行為に及ぶには粗末な寝台の上で、掴まれた腰を揺さぶられる最中、自室の暗がりを見遣る。君主を護衛する黒獣が夜闇に紛れ、どこかに身を潜めているのではないか。自身の痴態が第三者の面前に晒されているやも知れず、率爾として脳裏を掠めた憶測に含羞の念で赫々と頬を燃やすも、
「——安心しろ。あれはすでに帰した」
 囁きを落とすと共に、大きな手で覆うように両の目が塞がれ、いっそう深くまで犯される。抵抗もまるで意味を成さない、一方的な蹂躙。貴い子種をいたずらに消費するだけの、不毛な種付け。憎いはずの男の手で絶頂を迎えるたび、なけなしの矜持が剥がれ落ちていくような心地だった。尊厳までをも踏み躙る暴虐。このような辱めを受けるために、君主に手綱を委ねたわけではなかったのに。
 それなのに——屈辱に震える心と相反して、君主と閨を共にするようになってから、あれほど浅かった眠りは深いものへと変わっていた。この身を抱く恵体に、抱きたくもない安心感を覚え、沈んでいた意識が浮上した折、確かにそこにあった熱が失せていた時の喪失感に、甚く打ちひしがれる。
 ただ、全ては疲労によるものだと結論付けて。いつしか就寝時の装いを黒衣から夜着に代え、毎夜のように汚れることが厭わしい下穿きは適当に脱ぎ捨てた後、寝床に身を預ける。頭まで毛布に覆いかぶさったまま、寝ている風を装って——あの足音が鼓膜を震わすたび——あのぬくもりが全身を包み込むたび、待ち焦がれた心臓は絶えず高鳴りを打つ。
 そうしてしたたかな拍動を自覚するたび、主君を殺めた彼を憎悪しておきながら——同時に、自分が彼から注がれる、正体不明の情欲を切望している事実に深く絶望した。賤しい己に下唇を噛む。いっそ心身がどうしようもなく壊れてしまえば——あるいは主君の悲願成就のため、悪鬼に全てを捧げる覚悟さえあれば、この苦痛に身悶えず済んだのだろうか。
 身なりを整え、白菊を手に石塚の前へと立ったイサンの双眸が、途端に丸く見開かれる。見下ろした自身の足元、みずみずしさを保った菊が一輪、石塚の傍らに添えられていたのだ。花弁の鮮度から鑑みるに、摘まれてそれほど経っていないのだろう。
 一体誰が、このようなことを。頭を過ぎった面影に、心臓が音を立てて軋む。そんな、まさか——
 他に彼女を救う術がなかったのだと——それゆえ、彼が自らの手を汚すしかなかったことも重々理解している。たとえ、そうだとして——イサンからかけがえのない「光」を奪った事実は変わらない。怒りが、困惑が沸き上がる。目的のために人々を篭絡せしめ、人の本性が悪であると嘯く君主の哀悼がはたして本心であるか。それを推し量れるほど対話を重ねたこともない自分に、君主の為人ひととなりを知る由はない。
 ——私は、彼のことを何も知らない。
「……お嬢様」
 分からない——彼が何を思っているのか、分からなかった。お嬢様ならば、兄長である君主の本心を汲み取れたのだろうか。呼びかけども、返ってくる沈黙の応えに、イサンは口を閉ざすしかなかった。

「イサンさん」
 ようやく我に返ると、イサンはお嬢様の墓前で立ち尽くしていた。朝の寒に晒された馬耳は疾うに凍えてしまっている。存外に短くない時間、名を呼ばれるまで延々と思索に耽っていたのかと思うと、我がことながら無防備が過ぎると内心自嘲した。
「……ファウスト嬢」
 吐息を零すようにして、言の葉を続ける。
「私に如何なる用向きなりや?」
 振り向くことなく膝を折り、二輪目の供花を手向けながら、彼女からの応えを待っていた。さわさわと鳴く木々。吹き抜ける晨風は少しばかり肌寒い。
「主君より下命を賜りました——黒獣午、筆頭」
 そのせいだろうか。普段から淡々とした冷静を崩すことのない声色が、心なしか固く聞こえたのは。
「戦の準備をせよ——と」
 ファウスト——否、卯筆頭の言葉を背に、イサンはおもむろに立ち上がる。何も憂うことはない。いずれ鴻園は戦火に呑まれるであろうと、予見出来たことだ。ならば——その時、自分は何をすべきか。
「……拝命せり」
 ——決まっている。
 鴻園最後の家主が成し遂げられなかった夢を継ぐべく、立ちはだかる敵を踏み砕き、蹂躙するのみ。



 卯が影の合間を縫うように飛び跳ね、草を齧り。
 巳が昏い闇より這い寄り、毒牙で獲物を仕留め。
 酉が炎血滾るまま、研ぎ澄ませた爪で餌を刻み。
 未が恐怖に突き動かされるまま、角で壁を砕き。
 十二の獣が君主の尊命に随い、戦場を駆ける。今はたかだか鴻園の一部で起きた小火に他ならぬとして、悪心によって撒かれた火種は遅かれ早かれ至る場所へ火の手を延ばし、さらにごうごうと燃え広がるだろう——しかして、残るは恐怖と怨嗟に歪んだ骸の山と屍山血河。そして無辜なる民草の慟哭のみ。
 
 黒獣は身を漬された丸の特性によって、各々が得手とする役割が異なる。たとえを挙げるならば——一部例外はあるが——闇に身を溶かし、密偵や暗殺をはじめとした行動に優れる卯と巳に対して、未の群れは迫る怖気から逃れるため、行く手を阻む障害を破砕することに優れ、闘鶏と畏怖される酉はより多くの戦闘を望み、血気盛んにその刃を揮った。
 ならば、馬は戦場にて如何なる役目を担うのか。
「敵の動向は?」
「まだ姿すら見えませんね」
 高台から望む景色に目を凝らしていた黒獣がイサンの問いに応えた。索敵を続けるその横に、並び立つようにして前に出る。死角となり得る遮蔽物は何もない、どこまでも続く広漠とした平原。鳥の囀りはおろか、頬を叩くように吹きつける乾いた風以外に、音と呼べるものは存在しないように思えた。
「本当に、攻めてくるんでしょうか」
「……——」
「……筆頭? どうかし——」
 疑問への返答は緘黙。平原を見据えたまま微動だにもしない筆頭に痺れを切らしたか、何かしらを紡がんとした配下に、しかしイサンが求めたのもまた沈黙だった。面具越しの口辺に人差し指を添えるや否や、慌てて口を引き結んだうら若い横顔から視線を外し、息すら殺して、瞑目する。視覚が黒く盲いてしまえば、さらに研ぎ澄まされる聴覚。持ち上げた耳に蝟集するのは、天壌無窮の風の音——否。
「——風の声に耳を傾けよ」
「かぜ? ……、……あっ」
 促されるままに馬耳を立てた黒獣の怪訝顔が、一拍遅れてから、みるみるうちに強張っていく。ただ流れるだけの無機質な風に溶け込むには、明らかに不自然な振動を感じ取ったのだろう。それほどに一糸乱れぬ、統率の取れた「足音」だった。
「哨戒に出し馬らへ通達せよ。行進の刻が来たり」
 漆のように黒い月刀を握り直しながら、視線は依然として平原に縫いつけたまま、イサンは抑揚の乏しい声色で——凛々とした響きをもって告げた。

「馬、全員配置につきました」
「ご苦労」
 なおも逸らすことのない眼差しは、進行する一団を見つめたままだ。ようやっと目視が可能になった、臙脂色の外套——忘れたくても忘れられないその色彩に、イサンは無意識的に眉を顰める。
 親指。都市に住まう者であれば、まっさきに関わりを持ちたくない組織に挙げられる代表格。此度の謀反はシー家の残党が企てたものだと耳にしたが——成程。親指までもが君主の首を取らんと躍起になる由について、決して合点がいかぬわけではない。
 親指とは何よりも規律、目上の者に対する礼節を重んじる組織だ。家主継承がなされるはずだったあの日、大観園で巻き起こされた政争の只中、親指はカポ——それも、その最上位であるクァルトを失っている。鉄檻寺ティエロンスーと至る通路での激闘の末、他でもない君主の月刀にカポの首が落とされたその時から、畏れ多くも君主の粛清は確定していたのだろう。
 何故、自分がそれを知っているのか。至極当然だ。
 首が落とされる瞬間を、その場で見ていたから。
 あの日のことを思い返すたび、頭の片隅で思考を巡らせる。家主継承に臨まれるお嬢様のため、護衛の任に就いていたイサンは、赤子の手をひねるかのように呆気なくカポに苦杯を嘗めさせられた。
 もし、お嬢様が自分を解放するために轡を手放していなければ。あの時、自分が黒獣としての力を存分に揮えていたならば。傲岸不遜なカポの頸椎を容赦なく踏み潰し、誰よりも速く——悍ましい蟲に気高い御心を喰い殺されるよりも早く、彼女のもとへ駆けつけることとて叶ったのではあるまいか。
 それ以前に——二次審査において、審査場を進む道中、未だ家主になる理由の見つからぬお嬢様へと何とはなしに返した応えを追憶しては、深々と胸裡を抉る。あのような言葉を返さなければ、お嬢様は家主に選ばれることもなかったのではないか。
 
 至らぬ自分が——主君を死に追いやったのだ。
 
「——筆頭。号令を」
 配下の一声に首肯で応えたイサンは、得物を握る手に力を籠めた。今はただ、逆賊を斬り伏せることのみに専心すれば良い。一列たりとも乱れることなく、整然と迫りくる軍勢。たとえ数では及ばぬとして、ここは鴻園であり、地の利は我々にある。
 ——馬蹄の音鳴れ。
 ——砂塵は起これ。
 ——鬨の声は木霊せよ。
 ——逃ぐる所なき隘路たれ。
 荒ぶ風にすら掻き消せぬほど、一等冴え渡った音階を響かせる。その背後で、骨肉がぐずぐずに溶け落ちるような、聞くに堪えぬ音——次いで、堅牢なる馬蹄の響きが幾重にも耳朶を打った。
「馬に告ぐ。これより君主の意に従い、鴻園に仇なす逆賊——その悉くを斬り捨てん」
 やおら持ち上げた月刀の鋒を、眼下の敵に向ける。
「全馬——行進蹂躙せよ」
 崩るる両脚。飛び散る黒血。疾うに慣れた激痛に一切の呻吟を上げもせず、四つの脚が完全に生え出でるよりも先に、イサンは崖の方へと躍り出た。
 雄叫びか——はたまた嘶きか。懸崖を駆けるイサンに、耳を劈く咆哮と爪音が続く。立ち煙る砂塵に方向を狂わされぬよう、馬耳を常に忙しなく動かしながら、敵の位置を探る。悲鳴、足音、何だって構わない。道標となるべく先陣を切り——とうとう捕捉した敵陣へと突撃する直前、柄を両の手でしっかと構えた。死角からの奇襲に動揺しながらも、即座に臨戦体勢を整えようとしたところで、もう遅い。
「ぐあっ!」
 振り上げた刃が親指ソルダートの胸部を捉えた。噴き上がる鮮血が我が身を汚すよりも前に、駆けることしか知らぬ暗愚な脚は前へ前へと進撃を続ける。仮にこの一撃で仕留めきれなかったとして、待ち受けているのは、後に続く馬によって踏み潰される運命だけだ。
 回転の勢いを乗せ、振り下ろした得物が柔過ぎる肉体を裂くと同時に、下段から逆袈裟に斬り上げた一閃が別の敵へと喰い込み、骨を断つ、感触。後ろ脚で蹴られようものならば、脳震盪は避けられまい。
「——ッ!」
 発火。閃光。咄嗟に前へ出した得物から痺れるほどの衝撃が走った。密かな吐息を漏らす間も置かず、突き立てられた銃剣を受け流すと、そのまま踏鞴たたらを踏んだ敵の胴体を薙ぎ払う。変性の折、萌え出でた漆黒の外皮には、すでに無数の刃傷が刻まれていることだろう。脚を挫かれた馬も少なくあるまい。それでも馬共の歩みは留まることを知らず、さながら直線でない道を直線に走るが如く、駆けて、駆けた。
 頑健さのみを重視するならば、牛に軍配が上がるだろう。しかし馬は牛に劣らぬ耐久性に加え、まさに「駿馬」の名に相応しい敏捷性を兼ね備えている。ゆえに、馬の機動を大いに活かせる此度の戦場において、勢力は次第に黒獣の下へ定まりつつあった。
 なおも絶えず反響する剣戟。断末魔。敗色を悟ったのか、砂煙に紛れて無我夢中にいずこかへと駆け出す輩まで現れる始末だ。敵前逃亡など、幹部の耳に届こうものならば、粛清は免れないだろうに。
「……そなた等は、このまま進みたまえ」
「え、ちょっ、筆頭!」
 後ろを駆けていた配下の制止を振り切る形で、端的に告げたイサンは前脚を大きく折り——跳躍した。まさしく天馬と見紛う高らかな飛翔。されど悲しきかな、我が背に翼はなく、四つ脚の体躯は重力に従い、虚しい速度で落下していく。前脚が、愚かにも馬に背を向けた者の頭部を捉え、そのまま頭蓋骨を踏み砕いた。びしゃびしゃと音を立てて足元にぶち撒けられた、血液混じりの脳漿。これでは生命保険を用いたところで助かるまい。転がる亡骸を一瞥した瞳はすぐに新たな戦場へと向けられ、蹄を濡らした薄紅に気にも留めず、再び軽やかに駆け出した。



 君主より召集を受けたのが、殲滅の報を伝書鳩に託して数刻と経たない頃だった。元は黒獣家門の会議場として使われていた施設を、朧げな蝋燭の灯が照らす。物音一つも立たぬ、重苦しい静寂。それでも闇に蠢く気配から察するに、各地に散った十二獣の筆頭も同様に呼び戻されているらしい。今後の動きについて、軍議でも行うつもりなのだろうか。
 徐々に増えていく獣の気配。ふと、玉座に座す君主へと視線を向ける。物憂げな美貌こそ変わらないが——伏せられた昏い眼差しは、隠しきれぬ動揺を滲ませている。おおよそ、原因に察しはつく。イサン以外も、おそらくは、すでに勘付いている。
 ——君主の「影」と呼ぶべき彼女がいないことに。
「主君!」
 開かれた入口。滞っていた沈黙を破ったのは、豊かな栗色の髪を振り乱した、一人の黒獣だった。
「……くそ……離せ、一人で歩ける……」
「こんなぼろぼろのくせに、何強情張ってんの」
 編み笠の下からでも分かるほどに血相を変え、巳の特徴である細長い肢体で支えているのは、深手を負った卯の黒獣。細い呼吸を繰り返す彼女は舌を打つも、自身を支える手を払う気力もないようだ。
「場を弁えろ。テメェら……ここがどこで、目の前にいるのが誰か分かってないわけじゃねえよな?」
「そんなこと言ってる場合じゃないんだって!」
 突き刺さるような酉の視線を物ともせず、ずかずかと会議場に足を踏み入れる黒獣に対して、君主が怒りや不快感を顕わにするようなことはなかった。
「許す。簡潔に、詳細を話せ」
 それよりも、何よりも。自身の腹心が今、いかなる苦境に立たされているのか、少しでも情報を得ようとして君主は言葉を続ける。公の場であるがゆえ、至って主らしい威厳と平静を装えている——が。
 我がことながら不可解だった。常であれば見せる素振りもない、彼の動揺を目の当たりにして——不覚にも、微かな羨望を覚えようなど——と。
「任務中、物音がしてそこら辺を探ってたら……この子が倒れてるのを見つけたの。それで——」
「……親指、だ」
 忌々しげに吐き捨てられた単語。その場にいた全ての注意が、一斉に彼女へと釘付けになった。
「奴等、交戦中に乱入してきやがった。……しかも、シ協会なんておまけも連れ出して——な」
 卯の黒獣曰く、R社より派遣された傭兵チームとの交戦を繰り広げていた際、突如として親指の一団が姿を現したという。黒獣、親指、R社——三つ巴の混戦を極めた戦場において卯は分断され、随所に潜んだシ協会のフィクサーによって各個撃破の憂き目に遭ってしまった。狩る側が狩られる側に回るなぞ、とんだアイロニーだと彼女は再び舌を打つ。
「……それで、どうする? 今は辛うじて筆頭が持ちこたえてるが……このままいけばう・ぜ・だ」
「——卯は全滅だとでも言いたいのか?」
「それ以外に何がある」
 長息を零した黒獣の手が懐を探ろうとして、止まる。幾度目かも分からぬ舌打ちの後、切れ長の双眸——赫奕と燃え立つ炎のような、決して物怖じせぬ眼差しで君主を睨めつけたまま、黒獣は続けた。
「……はっ。主君、顔に書いてあるぞ?」
「ちょ、良秀……っ」
 ぎょっと顔を蒼白にした巳の黒獣が留めようとするも、黒獣——良秀の舌は止まらず、言葉を紡ぐ。
「だが、やめておけ。自分からおめおめと、首を差し出しに行くようなもんだ」
 君主は赤眼をしっかと見据えたまま、口を閉ざしている。それは他の筆頭も同じだった。我々は黒獣。主にのみ仕え、主の命にのみ動く、鴻園の影。この場にいる誰もが確信している。君主の一声さえあれば、鴻園にいる数多の黒獣が彼の尊命に従い、逆賊の処断はもとより、卯の救出も成し遂げられることを。そして——それでも、彼が頑なに下命を躊躇う由も理解している。ゆえにこそ、誰も良秀の警告を遮ろうとしなかった。この場にいる誰もが、聡明なる君主に理性のある決断を望んだから。それはイサン自身とて例外ではない。しかし——ゆっくりと君主を一瞥する。永遠のように思える、須臾の沈黙。
「——君主」
 イサンが一歩、影から身を乗り出す。
「君命を授けたまえ。私にそなたを守護せよ、と」
 刹那、会議場は瞬く間にどよめいた。
「自分が何を言ったか、分かっているのか」
「主君を危険に晒すなど、正気の沙汰とは思えん」
「ついに狂ったか」
 口々に発せられる悪口雑言——そう呼ぶには、聊か語弊があるか。彼等の言い分は何も間違っていない。鴻園において、何よりも守護すべき存在を死地へとけしかけようなぞ、責められて然るべき行いである。しかし、周囲の非難を一身に受けてなお、イサンは君主ただ一人を見つめたまま、続けた。
「馬の力を用いらば、誰よりも疾く戦場へと到らん。……加えて、私が駆くるばかりに才のある馬でなきことを、君主はすでに存じておられむ」
 大観園を出家する以前から、決して楽でなかったU社の旅路においても。そして、君主による襲撃を受けた、あの夜も——たとえ望まぬ最期を迎えてしまったとして——イサンは「護衛」として、他でもない君主の妹君を守り抜いてきたのだから。
 審査場の最奥まで辿り着き、君主——バオユ若君から投げかけられた言葉がふいと甦る。イシュメールは何故、家主になりたいと思ったのか——それは、お嬢様を常に悩ませていた問いそのものだった。
 ジア家の一族に生を享けたから?
 幼い頃からそうなるように望まれてきたから?
「思い浮かぶ理由はいくつもあるだろうけど……どれも他人に舵を委ねてばかりで、君が本当にこうしたいと考える『理由』は何もないんだろう?」
 他人が望むまま「家主」という、なるべき理由も分からぬ重荷を背負わされるためだけに、こうして家族と殺し合わなければならない。
「それでも君は本当に、家主になりたいのかな?」
 重ねるようにして、再び若君は問うた。二人の問答をただただ見守ることしか出来ず、押し黙ったまま、ファウストの猛攻を請け負う傍ら、イサンは堪らず主君を見遣る。防戦一方で満身創痍になりながら、それでも払暁の如き双眸の輝きだけは損なわなかった彼女のお答えだけは、忘れていない。
 ——この地に住まう誰もが怯えることなく、新しい朝を迎えられる「楽しい」鴻園にしたい。
 当初こそ、自分の耳を疑ったけれど。
 確かに、お嬢様はそのように仰ったのだ。
「……まるで、雲を掴むような話だ」
「まあ、そうでしょうね」
「真に成し遂げるには、途方もなく険しい道になるだろう。君に耐えるだけの覚悟はあるのかい?」
 若君の問いに、彼女はしたり顔で笑んでみせる。
「哥哥ならもう知ってるものだと思ってましたけど——私、どうしようもなく諦めが悪いんですよ」
「……はは。そうだったね」
 そう、敢然と宣言した妹妹に——おもむろに得物を下ろした君主は辞色ともに、甚く穏やかだった。
 かつて、大花庁でお嬢様を迎えた時と同じように。
 ——ああ。
 何故、今の今まで気付こうともしなかったのか。
 残虐非道であり、冷血であると疑わなかったはずの男。がらんどうにしか見えなかった笑顔が、あれほど慈愛と優しさに満ち溢れていたことを。
「はっ。主君を前にして、よく嘯けたものだ」
「ジア家のイシュメールは命を落としたではないか。醜態を晒しておきながら『護衛』など、笑わせる」
「主君。筆頭に返り咲いたとはいえ、所詮それははみ出し者。……戯言に耳を貸してはなりませぬ」
 彼女を守りきれなかった。その事実を突きつけられるたび、心がじくじくと、止め処なく膿を吐く。
「——君主」
 それでもなお、イサンは君主の決断を待ち続けた。誼譟が燭明を揺らし、薄暗い室内を包み込んでいく。
「……少しばかり、騒がしいな」
 底冷えする低音一つで、周囲は蜘蛛の子を散らすように静まり返った。耳が痛くなる沈黙。長々と息を吐き、たっぷり一拍を置いた君主が口を開く。
「……やれ。俺に臆せぬ物言いが出来るのは、ファウストさんくらいだと思っていたんだが」
 くつくつと喉を鳴らす様は、どことはなしに楽しげで。ようやく上がった彼の顔は、心なしか吹っ切れたかのように、大胆不敵な微笑みを湛えていた。
「他でもないお前がそこまで言うのなら——良いだろう。その船、俺も乗ってやる」
 途端に沸き起こったさざめき。素知らぬ振りをしたまま、君主は重い腰を上げる。制止する筆頭の口を閉ざさんと各々に的確な命令を下しながら、ずんずん先を行く彼を追おうべく一歩を踏み出そうとしたイサンの耳に、呆れ混じりの舌打ちが届いた。
「余計なことをしやがって」
「……面目なし」
「はっ、謝るくらいなら行動で示せ」
 ——上手くやってこい。
 易く風に解けてしまいそうな声色。馬の身であるゆえに、辛うじて聞き取れたそれに思わず耳を疑いこそしたが——イサンが彼女に振り向くことはなく、歩みを止めぬおみ足へ続かんと、歩を進めた。
 会議場を出、開けた場所で下肢を変じたイサンは、前に垂らした紐を結んだ即席の手綱を君主に渡す。
「……君主。我が身に鞍などなければ、振り落とさるまじく、くれぐれ努めたまえ」
「不遜な口ばかりを叩くな、お前は」
 手綱を握る君主の嘆息が馬耳に届くも、敢えて聞こえなかった振りをした。馬体に重みが加わる——普段、誰かを乗せることがないせいか、この感覚は少しばかり新鮮だった——不意に髪を指先で梳かれたのは、さすがに不可解だったが。どうせすぐに乱れるのだから、整える必要はないだろうに。
「要らん心配だ。お前のような暴れ馬の手綱を握れるのは、今となっては俺しかいないだろう」
 そう言いながら馬体を撫でた手のひらは、言い逃れようもなく、しっとりと濡れていて。致し方のない主だと、内心苦笑が漏れる。表面では平静を装えているようでいて、まったく装えていないではないか。このような欠点までまるきり同じとは思うまい。
「心配は不要なり、君主。ファウスト嬢は強き御仁なり——そは、そなたが最も存じたることならむ」
 無論、顔色を窺い知ることは出来ない。だが手綱越しにも伝わる振動が、彼の偽りのない感情をしたたかに教えてくれる。それだけで十分だった。
「……当然だろう」
 手繰り出された言葉は、静謐な響きをしていた。
「あれは、俺が選んだ腹心だからな」
 何も紡ぐなとでも言いたいのだろう。急かすように引かれた手綱に、イサンもこれ以上は口を噤むと、誰よりも速い馬脚をもって戦場へと駆け出した。
 
 ふと、家主大戦を終えた折の出来事が脳裏を過る。お嬢様が次代の家主となることが決定した瞬間——思い返せばこの上ない恥なのだが——誰よりも早く涙を流したのは、他ならぬイサン自身だった。
「もう、私より早く泣き出すなんて何事ですか。いつもの仏頂面はどこに行っちゃったんです?」
「おじょう、さま……うぅ……」
「その調子じゃ、一生分の涙を流しちゃいそうですね……はぁ。どうしてこうも締まらないのか。いつもの澄ました顔で、もっとしゃんとしてくださいよ」
 本当に、私の側近には困ったものですね。長嘆息混じりに続けたお嬢様は、呆れたような顔でイサンを見つめていたけれど、その目元は心なしか赤い。
「先刻の問答……いと美しき、宣言なりき」
「ちょっと恥ずかしいんですけど……それ、あなたが言っちゃいます? 誰のせいでこんな夢みたいな未来を思い描くようになったと思ってるんですか」
 未だ稚さの残るそばかす顔を目にも鮮やかな桜色に染め上げ、此方を睨めつけながら、矢継ぎ早に畳みかけてくる言の葉達は、さも不服げな様相で。よもやお嬢様の機嫌を損ねてしまったのではないかと一抹の不安を覚えこそしたものの、ふつふつと湧き立ってやまぬ喜びまで、隠すことは出来なかった。
 私ほど幸福を甘受した従者は、そういまい。
 主君にならば、この命を差し夢みたいな未来を思い描くようになったと思ってるんですか」
 未だ稚さの残るそばかす顔を目にも鮮やかな桜色に染め上げ、此方を睨めつけながら、矢継ぎ早に畳みかけてくる言の葉達は、さも不服げな様相で。よもやお嬢様の機嫌を損ねてしまったのではないかと一抹の不安を覚えこそしたものの、ふつふつと湧き出そうと惜しくない。
「言い出したのはあなたなんですから、私が無事に成し遂げるまで、ちゃんと隣にいてくださいよ」
「……っ……拝命せり」
 かつて、自身の不用意な言葉がお嬢様を死に追いやったのだと、大いに悔やんだ。さればとて、彼女が負わんとした鴻園の未来と覚悟も——あの時覚えた至上の喜びまでも、決して否定してなるものか。
 ゆえに私は——鴻園のために全てを擲ち、この身を幾多の罪と血で穢そうとも、お嬢様の描いた理想の結実を見届けなければならない。それこそ自分が亡き主君に捧げられる、唯一の「哀悼」なのだから。



 幾度目かの鋭い剣戟を、また幾度目かの剣身で受け、勢いを流す。数えることも諦めてしまったほど、途方もない防戦だった。震える利き腕は疾うに痺れてしまって、感覚はほとんど残っておらず、もはや気力のみで刃を揮っているような有様だ。
 ついに追い詰められ、退路を断たれた深き森の断崖で、耳朶を打つ弓矢の風切り音。時としてそれ等は木々に、骨肉に深く突き刺さり、時として乾いた音を立てて打ち落された。戦の傍ら、鼓膜を通じて収集された足音から鑑みるに、現時点で満足に動ける卯はただ一人のみ——おそらく、これはウーティスのものだろう——良秀は無事、戦線を離脱して主君のもとへ辿り着けただろうか——ファウストは密かに呼吸を整えると、改めて得物の柄を握り直す。
「やれやれ。愛らしい兎のくせにしぶといな」
 目の前で悠然と、シガーの煙を燻らせる女傑。純粋な戦力だけで述べるならば、辛くもとはいえファウストのみで対峙出来る点から、かつて主君が首を取った「天退星」ほどではない。しかし——神経を研ぎ澄ませたまま、周囲に注意を巡らせる。今でこそ自身の矜持に反するとシ協会の介入を拒んだ親指によって、一騎打ちと相成っているが——仮にこの女を斃してしまったその後——否、彼女のきまぐれが変わってしまうだけで、それもどうなるか分からない。ならば、ファウストに出来るのは可能な限り現状を維持し、黒獣の増援を待つことだけだ。
「ああ……誰かが助けに来るのを待っているの?」
「さてですね。主君は仕事の出来ぬ者には容赦ありませんので、卯を捨て置かれたのかも知れません」
「それは困ったな。君が君主の懐刀だと聞いていたから、危険を承知で彼を釣る餌に選んだのに」
 まあ、そんなことだろうと思っていたが。溜息も隠さず——一息で間合いに飛び込むと、微かな吃驚を浮かべた彼女の顔が、眼前にあった。唇から落ちるシガー。純粋な感嘆の籠った口笛。強く握り込んだ長剣を突きつける。甲高い金属音と、飛び散る火花。受け流される前に刃を引き、再びその剣身を打ち込むも、その全てを銃剣で受け止められ、
「……それなら、話は変わった」
「——ッ!」
 彼女の言葉で、周囲の空気が一変する。ファウスト自身に向けられた、心の臓を鷲掴みにされるような複数の殺気。卯の耳に伝わる微かな振動。弦の軋む音。ほぼ脊髄反射で、忍ばせていた短刀にて両断した矢尻——都市に生きる人間には、矢一本の値段とて馬鹿にならないだろうに——それが我が身を貫かなかったことに安堵する暇もなく、拮抗していた刃を膂力で押しきられ、銃床で殴りつけられた。
「く……っ!」
 頭がぐわんと揺れ、地面に転がる。皮膚を損傷したか、左目に施していたはずの眼帯は緩み、そこからぽつぽつと零れ落ちた血が点を作っていった。
「うん。ならば一刻も早く君を殺して、他の獣が来る前に君主のもとへ向かわないといけないみたい」
 合図と共に、彼女の背後に立っていたソルダートが動く。突きつけられる複数の銃身。四肢が重怠く、抵抗することさえ億劫だった。こういう状況に陥った場合、主君ならばどのように対処したのだろう。
「君と戦うのはとても楽しかったけど……さすがにクァルトのみならず、私まで負けてしまっては、アンダーボスに申し訳が立たないからね」
 ああ——瞼が重い。死が近付いているのだろうか。どこからともなく、死の馬蹄が響いてきて——
「? 何か、近付いている……?」
「……?」
 甚だ、奇妙な話だ。何故、彼女にまでこの音が聞こえているのか。しかし、その疑問もすぐに掻き消された。韋駄天の如き駿足で駆ける蹄が、確かな振動をもって近付いている。諦念を抱いていたはずの心臓が、全身に滾る血潮を送るように強く脈打つ。
 ——これは、まさか。
「全員、周囲に警戒を——」
「すでに遅し」
 転瞬の間に、巻き起こった旋風が全てを攫った。
 視界には、身の丈以上の月刀を振るう黒馬。そして——風に豊かな柳髪を弄ばせる、その御姿は——
「……主君」
 最も戦場に来てはならなかった——未だ学びを必要とする凡庸なる身が、少しでも高みに近付こうと——お傍にいることを希ったその人が、ここにいた。

 自身の扱う月刀と、イサンのそれは刀身の形のみならず全長まで、まるで異なる業物だ。しかし、彼曰く——それが同じ「月刀」であれば、刃が描く軌跡から予測や推測を行い、生じる隙を先んじて読むことも、体勢を崩した敵に更なる追撃を加えることもさほど難しいことではない——のだと言うが。そのようなことを容易くやってのけるのは、お前のような天才肌だけであると窘めたところ、訝しげに首を傾げられた——まるでわけが分からないといった風の顔だ——わけが分からないは此方の台詞だ。
 然るに、これぞ天賦の才というべきか。彼は難なく、自身に騎乗するホンルの動きに、完璧に同期してみせた。まさしく人馬一体の躍動で一人、また一人と雑兵を二振りの月刀で討ち払い、残るはカポただ一人——やにわに、イサンが前脚を強く踏み締めた。咄嗟の停止によって、頽れかけた姿勢を整えんとした眼前を遮るようにして翳された得物。その刃に、網膜を焼くような鋭い閃光が咲く様を見た。
「熱烈な歓迎だな」
「……呑気過ぎやせず?」
 残骸を見下ろすホンルに、すぐ傍で溜息が落とされる。特段の恐怖を抱かなかったのは確かだ。目的のために血を流す覚悟も、ましてや死ぬ覚悟ですら、君主を名乗るよりずっと前から、すでに出来ている。
「何があっても、お前が俺を守るのだろう?」
 忍び寄る死を恐れる必要はない。そのように命令しろと言ったのは、イサン自身だ。当然のように返した応え。彼は振り向かぬまま、一呼吸を置いて再び、今度は先ほどよりも大きな溜息を漏らした。
「……君主。そなたはファウスト嬢のもとへ」
「お前は?」
「私は——」
 別方向より放たれた矢の軌道が、刃でいなされる。
「私は木陰に潜みし刺客を対処せん」
 馬の後ろ脚が溶け崩れ、馬体に跨る足がとうとう地に着いてしまった。存外に乗り心地が良かったもので、一抹の名残惜しさを覚えるも——もしや、言葉に出ていただろうか——不敬にも、尻を尾で叩かれた。本当に、恐れ知らずの気難しい男だ——そんな彼を気に懸ける自分こそが、一番の酔狂人なのだが。気を抜けば緩んでしまいそうな口許。今ばかりはこの愛おしさを奥に潜めなければならない。
「……お目にかかることが叶い、光栄の極みです」
「相手がカポとはいえ、こうも拝謁を切望されては、顔を出してやらぬわけにもいくまい」
 すぐに冷笑へと唇を歪めながら、敵を睥睨するホンルに対して、女は少しも慄く素振りを見せず、恭しくも淡々とした所作で一礼をしてみせた。
「寛大なお言葉、心よりお敬い申し上げます」
 位階の高い人物であれば、それが粛清対象であっても礼節を重んじようとする。親指が如何に礼儀を弁えた、紳士的な組織であるか、頑なに誇示しようとする様は実に滑稽で、惨めではあるまいか。
 込み上げる嘲笑を隠そうともせず、視線はただただ己の腹心にのみ向けながら、泰然自若とした歩みでファウストの隣に並ぶ。見下ろした彼女の顔は負傷こそしているが、顔色自体は悪くなく、安堵の吐息を内に落とした。今、隣に佇んでいるのが自身の主君であると実感が湧かないのか、色素の薄い茫洋とした眼が、此方を見上げている。
 ご苦労だった、よくぞ守りきった——などと、今かけるべきは労いの言の葉ではない。彼女の四肢がまだ動くならば、成すべきことは残されている。
「——十分に休息は取れたな?」
「……はい」
 息を呑んだ彼女の双眸に、あえかな光が灯る。
「そうか——では、卯の筆頭よ」
 ——お前に尊命を与えてやる。
 月刀の石突が、大地を叩いた。
「君主の道を拓き、不埒者の血を鴻園に捧げよ」
「——意のままに」
 常より変化の乏しい可憐な顔つきは、星もかくやとばかりに眼光炯々とした生色を取り戻し、華奢な両の手が大剣の柄を握り締める。息を吸い、吐くよりも疾く——卯が一歩を、飛び跳ねた。金色の軌跡を残しながらたちまち距離を詰め、弧を描くようにして身の丈以上ある得物を高く掲げると——力任せに、振り下ろした。遠心力を乗せた、殴打に近い一撃が銃剣を捉える。ぱっと爆ぜる火花。聴覚を裂くようなけたたましい金切り音を天地に轟かせ、女はついに、その飄々とした姿勢を崩した。
「道を拓きました、主君」
「ならば、共に続け」
 血に彩られた月刀が、呪縛の刻まれた長剣が閃き、共に駆ける。虚空に白い線を引くかの如く、描かれた一閃は守りを砕き、追従するもう一閃が無防備となった頚部へ鮮烈な赤い花を咲かせた。
 お見事——両断される寸前、彼女の口唇がそのような言葉を象った後——宙を舞った首は無造作に鴻園の大地を転がり、続いて肉体が崩れ落ちる。広がる血溜まりを眼下に見下ろす。害虫の血とて、鴻園の土台を豊かにする一助くらいにはなるだろう。
「シ協会の処理も、おおかた完了したようです」
「そうか」
 振り返った視界に広がる森。目を凝らすと、木々の影には先ほどなかった黒衣の亡骸が転がっている。矢の軌道や殺気から、敵の位置を目算したのだろうか。多少なりとも興味のそそられる光景を直にこの目で拝めなかったのは、心残りではある。
「されど、あやしき鬼気は未だ消え去にけらず」
「早急にこの場を離脱するべきでしょう」
 周囲への警戒はそのままに、此方に歩み寄るイサンと卯の黒獣——ウーティスに目立った負傷は見られなかった。開いた愁眉を悟られぬよう、身を翻す。彼等の言う通り、この場にいる一人一人が一騎当千の実力を持つとして、戦力が限られる中で下手に動くのは賢明でない。一旦離脱して戦況を——
 何気なくぴんと張った馬耳が目に留まり——突如として身体が強く押し出される、衝撃。豆鉄砲を食らった鳩よろしく、見開いた眼に映ったのは。
「——ぁ——」
 自分がいた場所に立ったイサン。外皮を鎧うその胸部に、一本の征矢そやが突き刺さる瞬間だった。
 苦痛に眉を顰めながらも、太股から抜いた短剣を矢の飛来した方角へと投擲する。空を切る黒刃。一本の樹木に吸い込まれ、くぐもった悲鳴が上がった。
 大きく揺らいだ身体が、暗い崖底に引きずり込まれようとしている。咄嗟に伸ばした指の向こう、面具越しでも垣間見えたイサンの顔はこれまで見たどれよりも穏やかで——無事、護衛の任を果たせただろうとでも言いたげなそれに、心が掻き乱される。
 ——彼ですか? 私の側近で、イサンといいます。
 イシュメールの傍らに立つ、黒髪の青年。幼き日、無力に泣くことしか出来なかった自分を慰めてくれた、名も知らぬ午の黒獣——ずっと行方を探していた彼が轡から解放され、妹妹の側近となった事実を知らされた時は、頭を殴られたような心地だった。
 それでも、最初は——自分ではない誰かに対してだとしても——彼が幸せそうに笑ってくれるのなら、それで良いと思っていた。それなのに、彼の笑顔を視界に捉えるたび、欲しくて、欲しくて。ようやく、この手で触れることが出来たと思ったのに。
 友も、家族も、大切だった——守りたかったはずのものは、全てこの手から零れ落ちていった。
 
 お前まで、勝手に離れていこうとするな。
 
 必死に伸ばそうとも、離し難き彼の手は無慈悲にも、この指先をすり抜け——


 
 ——そのまま深淵に落ちていった。