正しい僕だけを見ていて
五体の至る箇所に滲み渡るような痛みを覚えながら、イサンの意識が無理矢理浮上する。靄がかった視界に広がる、鬱蒼とした木々。背を預けている固い感触に、自分は樹木の幹に寄りかかる形で落下を免れたのだと察した。枝葉のささめきと小鳥の囀りしか聞こえない、穏やかな静謐。自分は一体、どれほどの時間、意識をなくしていたのだろうか。
君主は——はたして無事だろうか——身を起こそうとしたイサンは、しかし途端に焼鉄で突き貫かれたかの如き痛みが走り、堪らず息が詰まった。咳き込むたびに鉄の味が広がる。胸が苦しくて仕方がない。そろそろと視線を胸部へ向ける——ああ。やはり、悪い夢ではなかったか——外皮の間隙に深々と刺さった矢尻は、的確に心臓まで達していることだろう。痛みを堪えるように、薄く開いた口唇から息を吸い、細く吐き出す。元より生命保険は使えぬ身の上、どのみちこの痛みでは、脚も疾うに折れて使い物にならなくなっているに違いない。この有様では、無様に崖を這い上がることすら困難に等しい。
ここが潮時なのだと、心のどこかで悟った。亡きお嬢様の理想であり、悲願でもあった鴻園をこの目で見られぬのは、聊か残念ではあるが。今や朧げとなった彼女の不機嫌な声で、愚かしい己をお叱りになってくださるならば——それはそれで、悪くない。
胸に突き刺さった矢の
このまま覚めない微睡みに落ちて、眠るように逝けたら良い。四肢の末梢から冷えていく感覚。少しばかり肌寒くて、襟巻に首を埋めた。
不意に、敷布に広がる夜色が脳裏を過る。夜の帳が降りればしんしんと冷え込む大観園だが、彼の腕に抱かれたまま眠りへ就くと、不思議と凍えたことはなかった。あのぬくもりが今となっては少々恋しくて、知らず知らずに自嘲じみた苦笑を零す。
自分が死ねば、彼は悲しむだろうか。考えるべくもない疑問だ。崖下に吸い寄せられるイサンへ伸ばされた、君主の手。その指先が無情にも空をすり抜けた瞬間、晒された顔の情けなさたるや——仮にも鴻園を統べる君主であり——全ての黒獣の主である御仁が、従えるべき存在にすべきそれではない。この調子では先が思いやられる、などと——要らぬ心配と知りながらも、せずにはいられなかった。
おもむろに、重怠い瞼を閉じる。命を賭して護衛としての矜持を守った事実に安堵しながら——同時に、今にも泣き出しそうな彼を慰めることさえ出来なかった己の不甲斐なさを、この心が責め立てた。
彼はきっと、自身の行いを赦しはしないだろう。
それでも、構わない。
——願わくば、我を赦したもうな。
意識も、祈りも、やがては全ての輪郭が緩やかに溶けていき、とうとう深い暗闇に溶け落ちた。
気付くと、イサンは匂い立つ緑の中で佇んでいた。光沢のある青々とした新緑ばかりに包まれた、大観園のいずこかにある森。柔らかな木漏れ日の揺れる、開けたその場所で——鳥の啼くように繊細で、切なげな欷泣を響かせる少年が縮こまっていた。よもや走馬灯でも見せられているのではなかろうか。今際の際に見る夢がお嬢様ではなくバオユ若君になるとは、もしやするとイサン自身も想像していた以上に、彼に対して未練を残していたのやも知れない。
一歩を踏み出す。顔も知らぬ闖入者、ましてや誰の差し金かも分からぬ黒獣——当然だ。鴻園の民にとって、黒獣は畏怖すべき存在なのだから——を前に、恐怖に見開かれた両の眼から、珠のような涙が止め処なく零れ落ちていく。何故、彼が涙を流しているのか。その理由までイサンに推し量ることは出来ない。しかし、以前にお嬢様は、幼い頃の若君は苦しむ人々を見て涙するような、とても優しい御方だったと口にしていた。ならばこの涙も、彼自身ではない誰かのために流されたのだろうか。
彼を害する意思はないことを告げるべく、手にしていた月刀を地面に置くと、目に見えて困惑を示した彼のもとへ一歩、また一歩と脚を動かした。若君は動かない——動けない、と言った方が正しいのだろうが——そうしてすぐ目の前まで辿り着いたところで、目線を合わせるように身を屈め、膝をつく。
ジア家の宝石と持て囃された、人々を惹きつけてやまぬ貴き宝玉。間近で見つめると、下瞼いっぱいに湛えた涙によって、陽光を受けた双眸は星彩もかくやの煌めきを放ち、いっそう美しさを増す。自分の知る限りでは、一切の光を受け付けなかった昏い右目もが、かつてはこれほどの光を宿していたのか——不覚にも、ほんの少しだけ見惚れてしまった。
手甲を外した指で、決して傷付けてしまわぬよう、こわごわと稚い目元に溜まった涙を拭ってやる。指先から伝わる震え。息を呑む音。吃驚で強張る愁眉がようやく開かれた様に、人知れず安堵を落とした。
心が砕けて苦しいのなら、いくらでも慰めよう。
恐怖に怯えているのなら、いくらでも傍にいよう。
これはただの夢に過ぎず、なればこそ、この神聖にも似たひとときを邪魔する者は、一人もいない。
ゆえに——どうか——
希うような言の葉。それが声として紡ぎ出されるよりも早く、身体がぬくもりに包まれた。掻き抱かれる感触。このぬくもりを、自分はよく知っている。
「……っ……死ぬな……」
絞り出すような声色に意識が引き戻され、耐え難い悪寒と激痛が全身に呼び起された。押し開く気力も湧かぬ瞼は閉ざされたままだが、声の主が誰なのかはすぐに分かる。君主ともあろうものが、危険を顧みずにこのような崖を下りてくるなど、なんとも度し難い。どこか、怪我をしていないだろうか。確かめようにも、四肢は痺れて動かない。それどころか力加減もせず、一片の隙間もなく抱き込まれては、ただでさえ満身創痍の体躯は声なき悲鳴を上げ、軋んだ。さりとてこの痛みと、すっかり熱の抜け落ちた身には、寧ろ熱いほどある彼の体温こそが、辛うじてイサンの意識を現世に繋ぎ止めているのだが。
か細く喘ぐ口唇に、丸いものが押し込まれる。
「お前は、俺の黒獣だろう……」
次いで口唇に触れる、あたたかくて柔らかい何か。そこから流し込まれる生温い液体によって、舌の上で球体は徐々にその形を失い、口内に広がる丸薬の苦味を押し流そうと、こくりと喉奥を鳴らす。
「……俺の命令もなく、逝くなんて許すものか」
ぽつり、またぽつりと頬を濡らすものは、一体何だろうか。やおら瞼を上げる。霧中にでもいるようなぼんやりとした視界。乱れきった紗の髪。一等生白い肌を飾る紅い包帯の輪郭が鮮明になると——これほど美しい大人に成長しながら——「あの時」と同じ顔で涙を流す君主の姿が、そこにはあった。
真紅に彩られた覇道を征く暴君が、このようないたいけな相好を覗かせるなど、誰も思うまい。
丸の効能だろうか。微かに感覚を取り戻した左腕に鞭を打ち、手を伸ばす。堅い手甲で珠の肌を傷付けぬよう、まだあたたかい涙をそう、と拭いながら。
「……どうか、な泣きたまいそ」
あの時、伝えられなかった言葉を舌に乗せる。虚を突かれ、まあるくなった眼。自分を見下ろす、険の消え失せたかんばせが存外におかしくて、満足げに幽けき笑みを落とすと——張り詰めていたイサンの意識は、そこでぷつりと途切れた。
——長い夢から、覚めた心地だった。
暖香塢で目覚めた時には、鴻園の各地で起きた騒乱は鎮圧され、加担した者のほとんどが処断された後だと、ファウストの口より語られた。君主により服された丸の賜物か、身体に痛みはすでになく、あれほど深かった傷もすっかり癒えてしまっている。
いっときの静けさが再び訪れた鴻園にて、イサンは君主の尊命のままに戦場を駆け、月刀を揮う。
何も変わらない、今まで通りの日常。
「…………」
——否。敢えて、異なることを挙げるならば——あの騒乱以降、君主が部屋を訪れ、イサンを抱くことはなくなった。そのくせ、お嬢様の墓前には毎朝の如く、以前と変わらず供花を手向けているのだから、足を運ぶこと自体を止めたわけではないらしい。どうせ飽きたか、あるいはより相性の良い相手でも見つけたか。まったくもって、身勝手な男だ。自ずと踏み鳴らしてしまう足取りを律しつつも、任務を完遂したイサンが辿り着いたのは、他でもない怡紅院だった。あの日も今日と同じように、帰任の報告をすべく最上階にある君主の閨を訪れ——そうして、初めて彼に組み敷かれた。過去の痴態を思いを馳せては、恥の感情であえかに頬が上気してしまう。
今回ばかりは、そのようなことは起き得ないと自分に言い聞かせ——胸の奥がじくじくと痛みを訴えるのも、気付かぬ振りをして——謁見を許されたイサンは、促されるがままに閨へと足を踏み入れた。
「……来たか」
僅かな燭光に照らされる、君主の部屋。ほのかに燻る香——白檀よりも重厚で、深い甘みがあるそれは、君主に尋ねたところ「沈香」と呼ぶらしい——を鼻孔に感じながら、彼の座すもとへと歩を進める。帳の垂れた、天蓋付きの寝台。上質な絹布に腰を沈め、竹簡に目を通している君主が、そこにいた。
「宵居など、身体に悪し。……安穏なりや?」
「夜もさほど更けてないだろうに、心配し過ぎだ」
イサンの心配をよそに、竹簡から目を離した君主の視線が此方に向けられるや否や、その目を細めた彼の手が、傍らの敷布を叩く。突とした行動の意図を汲み取ることが出来ず、小首を傾げていると。
「笠を取って、ここに座れ」
呆れ混じりの嘆息を吐き——兄妹とはこういうところばかり似るものなのだろうか——致し方なしとばかりに告げられた勅命を前に、イサンは訝しげに主を見つめながらも、編み笠の留め具を外し——ついでに面具も外してから、君主の隣へしずしずと腰を下ろした。敷物の柔らかさに若干ながらも居心地の悪さを覚える中、君主は傷んだ黒髪を一房手に取ると、繊細な手つきで櫛を通し始める。
「ぼさぼさになるまで放置するんじゃない」
「君主……我々は戦の道具なれば……」
「最も優れた君主の馬が、恥ずかしげもなく毛並みを振り乱していては、俺も格好が付かんからな」
そうまで言われてしまうと、反論出来るはずもなく。これ以上は口を噤んだまま、されるがままに君主へ身を委ねる。荒野を奔った名残で、砂塵に弄ばれた乱れ髪を梳き、解す。相応の根気が要る作業だろうに、痛みを感じるどころか——寧ろ、心地好い。自ずと尾が揺れてしまうことについては、わざと無視した。怪我はないかと問う男も、どうせ気付いている。ゆえに、さも上機嫌に笑っているのだろう?
「……大事なし」
「そうか」
——ほら、また。
応えを返す口許に手を添え、くつくつと喉を鳴らすこの男に優しくされるのは、どうにも慣れない。
「お前とこうするのは、随分と久方振りになるからな……もう少しだけ、ここにいろ」
長く綺麗な手に引き寄せられ、そのまま広い肩に頭を預けるように凭れかかる。普段の装いとは打って変わり、ゆったりとした夜着を身に纏った君主からは、噎せ返るような血の臭いはほとんどしない。
久方振りなど、よく言えたものだ。会いに来ようとしなかったのは、他ならぬ彼自身だろうに。口を衝いて出かけた不服を呑み込むように、俯く。馬耳を撫ぜられるだけで、かつての閨事がたちまち想起されて、秘めねばならない感情まで溢れ出しそうで——やめてくれ。これ以上、優しくしないでほしい。
「もう……私を、抱かずや?」
自分は彼からの関心を失ったのでないと、信じたくなるから。堰き止めていたはずの感情がとうとう決壊して、滑り落ちた失言を慌てて取り繕おうにも、指先の硬直する感触がまざまざと伝わってきて——胃の腑に鉛が押し込まれたような心地だった。目線を合わせる勇気もなく、忘れたまえと告げることしか出来ぬまま、今すぐここから逃げ出したい一心で立ち上がろうとするも、君主の腕がそれを許さない。
「…………君主?」
沈黙ばかりが返ってくる中、おずおずと眼を上げ、君主を見遣る。何故、少し上にある彼の右目は、自分よりもばつが悪そうに逸らされているのだろうか。
「……君主」
「……、……お前を傷付けたくない」
したたかな力をもって抱き竦められ、耳許で独り言つように——けれど間違いなく発せられた言葉に、不覚にも目を瞬かせる。少なくとも、尊命に従い戦線に復帰出来るほどには、五体満足であるのだが。
「……傷はすで癒えたり」
まさかとは思っていたが、この男——
「……お前に、嫌われたくない……」
絞り出された弱々しい声色に耳を疑う。その懸念は、あまりに今更過ぎるのではあるまいか。これまで散々、イサン自身の意思とは関係なく、傍若無人にこの身を弄んでおきながら、この期に及んで傷付けたくない——嫌われたくないなどと嘯くとは。
「君主」
「…………何だ」
「今更なり」
本当に、今更だった。
屈辱に屈辱を重ねるような、あれだけの辱めを受けてなおも、こうして身を許しているのだ。
ならば——聡い貴殿には、分かるだろう?
あまりに短い、言葉の応酬だった。互いが互いを見つめ合うだけの静寂。はたしてどちらが先だったかまでは、判然としないけれど——瞼を閉ざし、唇を寄せる。柔らかい口唇の感触——ああ、そういえば——こうして口を吸われるのは、負傷した時を除けば、彼と初めて閨を共にした夜以来となるか。
「ん……、……っ……」
最初は、触れ合うだけの接吻。
次は啄むように食まれて、少しだけこそばゆい。
何度も、何度も唇を重ね、離れるたびにもっと欲しくなって、強請るようにどちらからともなく顔を寄せる——その繰り返し。微笑ましい睦み合いと呼ぶにはすでに度を越えていて、ついには熱くて湿った舌がやわやわと唇を割り開き、歯列を、歯肉の縁をと擽り始める。生き物じみた動きを見せる、自分とは異なる熱に肩を震わすけれど、乞われるままおそるおそる開いた合間へ、それは滑り込んできた。
「……ぁ……ふ、っ……ぅ……」
舌の縁をなぞられ、根本から舌を絡め取られ——さすがに上顎を舌先で撫ぜられた時は、ぞくぞくと駆け上がる快感に背筋が震え上がった。与えられる愛を受け入れようと没頭するがあまり、綯い交ぜになった二人分の唾液が飲み込みきれずに顎を滑り落ちていく。ここまで来ると、イサンは普段の冷静を掻き乱され、呼吸を整えるだけでも精一杯だった。
「腰が揺れてるぞ」
「……っ……」
いつしか向かい合う体勢で、二人は身を寄せ合っていた。込み上げる羞恥に堪らず身を引こうとするも、臀部を捕らえる腕が逃してくれない。身の置き所が定まらず、腰が揺れるたびに服越しでも分かるほど兆した欲望が擦れて、思わず息が弾んでしまう。
「……聊か、性急にあらずや?」
嬲って欲しくて堪らないのは、自分自身であるはずなのに。心なしか上擦った声で、半ば悔し紛れに吐いた皮肉。なんだ、要らないのか? ——彼ならば、まるで意に介した素振りも見せず、拙い負け惜しみを煽るように揶揄ってくるものだと思っていた。
「仕方がないだろう」
しかし予想に反して、空いた手で手早く外皮を剝がしながら、紡ぎ出された言葉は少しばかり——普段の彼ならば絶対に発さないであろう、情けない響きをもって、イサンの耳を打った。
「やっと……お前が俺を求めてくれたんだぞ?」
長らく懸想してやまなかった当人に、とうとう振り向いてもらえたのだ。打ち震えるほどの喜悦を覚えた雄の欲動は、ゆえにかくも易々と昂ってしまうのだと——さらに熱く膨張したそれを開かれた股座に押しつけられて——かえって、羞恥に顔を熱くする羽目になってしまったのが、どうにも口惜しい。
目を逸らしたいのに、意識は独りでに胸元へと向けられる。外皮が取り払われた、貧相な胸板。薄い肌着を押し上げるようにして存在を主張する二つの尖り——まだ、窪みに隠れた乳嘴は顔すら出していないはずなのに——疾く触れて欲しいと、期待感に震えるそれを見つめていた君主がやおら顔を寄せた。
「あ……っ、ん……」
服の上から舌端で愛でられて、もう片方の乳暈を指で摘まれて。これまでに再三弄ばれてきたせいか、以前であればどんなに揉みしだこうとも頑なに姿を晒そうとしなかった乳嘴は、ほんのささやかな愛撫だけで容易に硬く尖った先端を覗かせるようになっていた。戦慄く喉から、甘い吐息がまろび出る。
「以前の奥ゆかしさも好ましかったが」
捲り上げられた肌着から顕わになった白。傷跡ばかりが残る、煽情的とは呼べぬ体躯でも一等目に留まる赤く色づいた突起は酷く敏感になっていて、直接触れられるだけで抑えの効かない嬌声が漏れた。
「ん、っ……ふ……」
「愛撫に貪欲に反応する、今の健気さも好きだ」
「……っ……」
助平。言い咎めるような無言の視線などどこ吹く風と、首を傾げながら嫣然と笑んだ君主が胸乳への愛撫を再開する。整えられた爪でひっかかれ、ふるりと揺れた乳口。明らかに、淫靡に肥大したその輪郭が変形するほど指の腹で押し潰されて——雌馬でもないのだから乳なんて出ないのに、招かれた口内で好き勝手に嬲られて——いやだ、篭絡されたくない。下腹でわだかまる、許容量を大幅に超えた濁流の如き快感に飲まれぬよう、逞しい背部に回した両の腕に力が籠った。蜘蛛の糸ほどの理性が決壊を堰き止めているが、もはや時間の問題だろう。
そう——例えば、このように——
「ひ——……ぁ……ッ!」
臀部に回されていた指先が、下衣越しのあわいに添えられただけで——これから自分が何をされるのか、いやでも想像してしまう。たったそれだけの刺激で、背を弓なりに撓らせたイサンはいとも容易く達してしまった。痙攣する脾肉の間で、身に着けた布地が湿った水音を響かせて、それが恥ずかしくて、居た堪れない。くたりを身を預けたまま、涙が止まらないイサンの背を、大きな手が優しく叩いた。
「——イサン」
切実な響きをもって、囁きが落とされる。
「俺を、受け入れてくれ」
顔を仰ぎ見る。彼は何故、怯えた幼子のような顔をしているのだろう。自分の答えなど、疾うに知っているものだと思っていたが。白皙に映える紅花の唇を奪う、無言の返答。許可。そして、催促。
——この響きに、自分は滅法弱かった。
独りきりで過ごす夜は、甚く寂しくて、切ないものだ。待てども待てども待ち人は現れず、時には指で自身を慰めたことさえあった。それゆえに、だろうか——呆気なく自身の指を咥え込む緩んだ後孔に、君主が隠しきれぬ吃驚を顕わにしたのは。その顔が思いのほか滑稽で、無意識のうちに失笑してしまったのも、今となっては恥ずべき過去の話である。
「あっ、……ん——っ、あ……あぁっ!」
念入りに、ぐずぐずに蕩けきるまで慣らされた泥濘を押し拡げるように沈んでいく剛直の質量と快感に、イサンは二度目となる官能の極致に達した。
「挿入れただけで気を遣るのが癖になってるな」
穿たれた肚が、燃え滾るように熱い。気を抜けば浅くなる呼吸を深く整える最中、噴き出した汗で貼りつき、すっかり乱れたイサンの髪を直そうとする指先の体温が心地好くて、目を細めては頬を擦り寄せる。眼下に望むは、純白の絹布に広がる美しい夜色と、はだけた夜着の隙間から覗く君主の恵体。淡く息を弾ませているのは、中を満たす熱杭から危うく欲が溢れ出そうとするのを堪えたからだろうか。
「お前の中……っ、熱くうねって……気持ち好い」
「……悪趣味、っなり……」
「はっ、そう言うな」
畏れ多くも、イサンは今、己の主たる貴人の上に腰を落としている。匂い立つ玉の美貌からは想像出来ぬほど、鍛え抜かれた腹部に広がるのは、この身から吐き出された精の残滓。自分の欲望が貴い人を穢してしまった事実に、罪悪感と——得も言われぬ背徳感が脊髄をせり上がり、浅ましい陰茎が再び首を擡げ始める。その美しい御身が法悦に耽溺する様を見たくて、穿たれた奥がときめくように疼いた。
「動きたそうにしているな」
婀娜めいた微笑を湛える唇。誘うように黒獣の頬を撫ぜながら、艶やぐその合間から覗く舌が動く。
「——良いぞ。好きに、動くと良い」
はじめは、耳を疑った。
「……、は……、ぁっ……」
——ああ。
緩慢に上げた腰を落とす。最初こそ遅々とした動きで、浅い箇所ばかりに切先を擦りつけ、馴染ませる——けれど、すぐに物足りなくなった媚肉はより深く、彼を求めた。故意に、一等弱いしこりを抉るように腰を動かせば、貴い子種を搾り取らんと、隘路を余すことなく埋める凶暴な逸物を締めつける。
「ぃ、ゃ……ひ——ン、っん……あぁ……ぁッ!」
まるで箍が外れたように、甘だるい嬌声が喉を震わせた。閨の外で、誰かが聞き耳を立てているかも知れないのに——そのような懸念すらも抱けぬほど、思考は浮き立ってしまっていて、イサンはひたすらに眼前の淫蕩を貪り続ける。よもや黒獣の筆頭が主君に跨り、欲情しきった嘶きを上げながら飢えた獣さながらに腰を振っているなど、誰も思うまい。
「っ……あ、……あっ」
腰を落とすたび、重く張り詰めた双果を尻肉で揉み解しながら、重力に任せて我が身を貫く——その腹の奥で、熱いものが飛沫いた。薄い腹を微かに押し上げる、圧迫感。そう、と自身の下腹を撫でながら——うっそりと、その膨れた部位を見つめる。彼が、達したのだ。そう察した瞬間、仄暗い欲望の炎が、底の知れぬ空腹感が、イサンの心を焦がした。
もっと——もっと、欲しくて堪らない。
彼の絶頂感が凪ぐよりも前に、再び杭を肚に打ちつける。より淫猥に耳朶を叩く水音。腰を上げるたび、栓を失った結合部から泡立つ白濁が溢れ出してきて——ああ、勿体ない——喪失感に打ちひしがれる肉襞。失ったならば、また満たさなくては。がむしゃらに腰を振って、蠕動する肉が媚びるように欲を搾り上げて、切なく疼く乳嘴を自ら慰めて——もう、何度気を遣ったのかも分からない。もしやすると、吐精をすることなく絶頂を迎えたのやも——
「……っ……」
不意に腕を掴まれ、イサンはようやく我に返った。
「くん、しゅ……?」
啼き過ぎたか、嗄れた声で呼びかけるも返事はない——代わりに、なんとも艶っぽい、荒々しい吐息が眼下から聞こえてきて、こわごわと視線を下ろす。
常であれば、病的に白い肌膚。薄らと汗を滲ませたそれを、ひくつく肩や胸元まで仄かな薄紅に染め上げていて。喘ぎともつかぬ吐息で紅い唇を濡らしながら、君主は血色の良い胸板を上下させていた。
これほど、乱れた君主を目の当たりにしたのは初めてだった。まさか無体を働かれたせいで、熱病に罹って痙攣でも起こしたのではないかと気が気でなく、その額に手を伸ばそうと身を乗り出した、刹那。
繋がったままの部位から溢れた、何か。下生えをしとど濡らすそれは、白く濁ってもいなければ、糸を引くような粘り気もない。さらさらとした、透明な液体が肌を伝い、褥へ染みを作っていく。
「——満足したか?」
熱に浮かされたままの眼で見つめていた、その隙を突くようにして、口唇を奪われる。絡み合う舌が、吐息が、蕩けるように熱い。緩みきった肢体が、そのまま後ろ向きに押し倒される。滑らかな絹の敷布へと身体が沈み込んだ拍子に、さらに奥まったところまで彼の欲望が刺さり、くぐもった悲鳴が漏れた。
「ならば——まだ、付き合えるな?」
さも当然のように齎された問答。熱い吐息すら感じられる位置にある花の容貌。とろんと細められた、蜜のように甘い眼差し。垂れ下がる髪の隙間から覗く耳殻が心なしか赤らんで見えるのは、自分の気のせいだろうか。肌に喰い込むほどしっかと持ち上げられた双丘に、深々と灼熱の杭が沈んでいく。閉ざされた最奥が叩かれ、じんと頭が痺れた。
なんて、意地の悪い人。こんなにも責め立てられたら、欲しくなるのは目に見えているだろうに。
——疾く。首に手を回し、引き寄せた耳朶に囁きかけた吐息は、蕩けるほどの熱を帯びていた。
「苦しくば、我が背でも貸さんや?」
「……良い。自分で歩ける」
人影の一つも見当たらぬ早朝。ようやく東の空に日が昇り始めた大観園を——たとえこれが偽りの暁光だとして、涙が出そうなほど美しい事実に変わりはない——君主と二人で歩く。心なしか辛そうに腰を擦っている君主へ四つ脚になることも提案してみたものの、即断即決で断られてしまった。
「……お前は……あれだけ揺さぶられておきながら、何故そんなに元気でいられるんだ……?」
「ふむ……さて」
ぶつぶつと小言を並べ立てる君主に、イサンはほとほと呆れたように肩を竦める。一応、自分なりに思考を巡らせてはみたところで、つまるところは己が「馬」であるがゆえ——という結論に帰結した。
「君主においては、足腰の強き馬をこそ好みたりと思いたれど——如何ならむ?」
「…………底なしめ」
冗句のつもりが、図らずも図星だったか。口惜しげに言い捨てる様を横目に眺めては、添えた手の下で上がりそうになる口角を必死に押さえ込んだ。
短いようでそれなりに長い距離を歩いて、暖香塢に辿り着いたイサンは、いつものようにお嬢様の部屋の清掃に取りかかる。終わるまで好きに寛いでもらって構わないと言ったのは、確かに自分自身だが、まさかその一部始終を観察されるとは思うまい。
お嬢様がどのような花を好まれたか、部屋を飾る品々にどのような思い出が残されているか——等々。
想起される限り、お嬢様とのささやかな記憶を語りながら、従者としての務めを果たした後、事前に用意しておいた供花を手に屋敷を出た。
「当初は、お前から妹妹の墓の在処を聞き出そうと思ったが、供えられた花を見つけて確信出来た」
静謐に包まれた庭の片隅で、物言わぬ石塚の前に並び立つ。こうして、君主と二人で墓参りをする日が来ようとは思わなかった——白菊を墓前に供えながら、ぽつぽつと語る君主の声に耳を傾ける。
「お前にイシュメールの遺体が持ち出されたあの日から、彼女の墓をずっと探していたんだ」
「……さらば、そなたは時じくに、私よりお嬢様を奪いてなお麗しき墓標を建つべかりき」
跪いていた膝を伸ばし、まっすぐに君主を見据えながら、問いかける。四大家門でも決して恵まれていたと呼べぬ身の上で、それでも家主となった彼女には、従者によって積み上げられただけの石塚ではなく、もっと見事な墓碑こそが相応しいだろうに。
「盛大に埋葬したところで、後ろ盾のない未熟な家主を悼んでくれる物好きがどこにいる? ——それこそ、俺とお前くらいなものだろう」
だから——君主は続けた。
「寧ろ暖香塢に弔われて良かった。ここならば、こいつが五月蝿いと機嫌を損ねることもない。……俺も、誰にも邪魔されず、静かに彼女を悼める」
「その言葉、お嬢様を心より慈しむように聞こゆ」
彼がお嬢様を大切にしていたことは、知っていたはずなのに。あまりに柔らかい声調で紡ぐものだから、面食らったイサンの顔を見て察したらしい。苦笑を禁じ得ない様子で、君主は一歩を踏み出した。
「当然だ。幼い頃とはいえ、鴻園の宝石であるかどうかなんて関係なく、俺を慕ってくれたんだぞ」
高く結わえた御髪が土に触れ、汚れることも構わず、嫋やかな所作で君主は膝を下ろす。手向けられた一輪の白菊——そして、一等目を引く——目が覚めるほど鮮烈な、赤橙色の雛罌粟がもう一輪、添えられて。供花に用いる花としては適切と呼べぬその彩を、しばらく心を奪われたように見入っていた。
「先ほど、生えていたものを摘んだ」
しなやかな指先に惹かれて、目線を向ける。主君を亡くし、色を失ったと思い込んでいた庭は、未だ一部ではあるものの、鮮やかな赤に染まっていた。
そのうち庭一面を埋め尽くすんじゃないか、などと。どこか戯れるように語る君主の口ぶりは穏やかだ。そして雛罌粟とは、儚げな見目に反して図太く逞しい花なのだ、とも——ああ、それはまるで——
「まるで、お前の主君みたいじゃないか」
「そは、褒め言葉なりや?」
「勿論、褒めてる」
などと申しているが、はたして本当だろうか。背後から無言で問い質すも、君主は答えない。まさに糠に釘——気付いておらぬはずはなかろうに。肌寒い暁風が吹き抜け、きらきら
「——イシュメール」
積まれた石肌を撫でながら、君主は静かに——しかし、はっきりとした声で呟いた。
「側近の変わらぬ忠誠心は、全てお前にくれてやる。だから、俺が意を果たすまで——この身が汚血に沈むまでは、こいつの命を……俺に差し出せ」
一世一代の「告白」と呼ぶには、なんと回りくどくて、傲慢無礼を極めた尊命だろう。同時にそれは、素直に心臓を高鳴らせるには不穏で、鴻園に降りかかるであろう災厄を予感させる言葉でもあった。
「そう遠くない未来、翼戦争が起きるだろう」
神秘の使い手を連れてくるべく、君主は
鴻園に戦火が起これば、必ずや多くの民草が路頭に迷い、犠牲となるだろう——そうなれば、一足早く旅立たれたお嬢様に顔向けが出来ない。
「お前には彼女が戻るまで、俺の護衛を命じる」
「——護衛を?」
「何だ、不服か? 護衛としての能力は先の戦で証明された。たとえ誰であろうと文句は言わせん」
衣擦れの音を立てながら、立ち上がった恵体が振り返った。此方を見据えたまま、差し伸べられた手に視線を落とす。疾うに自身の轡を預けた身だ。主君の命令に背く術はないというのに、あたかも「お願い」でもするかのように、彼は下命を下す。
それゆえに、イサンに許された唯一の応えは——
「——拝命せり」