傷のひめごと/イサファウ 囚人と囚人 続きを読む 新たに発見された鏡ダンジョンから戻る頃には、すでに太陽はとっぷりと暮れ始めていた。黄昏の色に染まる空を見上げては、全員が五体満足での帰還を果たしたことに内心胸を撫で下ろす。今回の探索は想定した以上に長丁場になってしまった。どっと押し寄せる疲労感の中、今日はバスに戻り次第、そのまま本日の業務終了を宣言してしまおうか――そのようなことを考えながら、先程まで激しい攻防を繰り広げていた囚人達の様子を密かに窺う。戦闘時に纏っていた人格を剥ぎ取り、本来の姿に戻ったばかりの彼等は疲れた、腹が減った等と思い思いの言葉を口にしている。もはや狂信と呼んで相違ない信仰を説いて回ることもなければ、常に自身を苛み続ける頭痛と精神汚染に呻き苦しむこともない。いっそ安堵すら覚えるほど、いつも通りの光景だ。 「……――」 ――音を成さぬ呟きを虚空に溶かした、囚人一名を除いて。 〈イサン?〉 一見した限りでは沈思黙考に耽っているようにも見えて、口元を押さえたまま俯く青年の名を呼んだ。ただでさえ血色の悪い白皙の顔は目に見えて青褪めてしまっている。 〈イサン、大丈夫?〉 もう一度彼の名を呼ぶと、今度こそ緩慢な動作で此方を捉えた射干玉(ぬばたま)色の双眸が動揺に揺れ動いた――その直前、一瞬だけ見せた視線を見逃すことはなかった。無防備に晒された心臓を刃で斬り裂かれるような、混じりけのない純然たる殺意が籠ったそれに、脊髄に冷水を注ぎ込まれる感覚に気圧されかけた心を奮い立たせ、時針を鳴らす。 〈……辛いようだったら、アフターチームを呼んでもらおうか?〉 「否……否」イサンは頭を振る。頭の痛みを堪え忍ぶように深く息を吸い、吐い、ようやく上げた顔は努めて感情を排除していたけれど、隠しきれない疲労と憂いが滲んでいることは明らかだった。「大事なし。すなわち癒ゆ」 まるで過去に逆戻りしてしまったのではないかと錯覚するほど、イサンは何人との接触からも距離を置こうとしている。彼が何故そうすべきだと判断したのか、確信めいたものがあったからこそ、ダンテはこれ以上彼にかけるべき言葉を言いあぐねていた。 きっと、対象は何だって構わない。行く手に立ちはだかる幻想体でも、面談のために派遣されたアフターチームでも、苦楽を共にしてきた囚人でも――それこそ、管理人たるダンテでさえ例外ではないのかも知れない。 足りぬのだと。あの時、紡がれた呟きこそ聞こえなかったけれど、彼の唇はそう模られていた。 彼は彼自身の意思とは関係なく、何かをくだくだに斬り刻みたくて仕方がないのだ。 だからこそ、イサンは自身に孤独であることを強要しようとしている。 皆に対して誰よりも心を砕くような優しい彼が、誰かを傷つける行為をよしとするはずなどなかった。 〈……とりあえず、今はバスへ戻ろう。歩ける?〉 とはいえ、この状態の彼をそうそう放置出来るわけもない。何か己に出来ることはないのだろうかと思索を巡らせる傍ら、込み上げる無力感を呑み下しながら、投げかけた問いを肯定するようにイサンは小さく頷いた。 ――もし幸いがあるとしたら、彼を気にかけていたのがダンテだけではなかったという事実だろうか。 * * * 本来、囚人の管理、統率は管理人であるダンテの管轄であり、案内人ならば兎も角として他の囚人が踏み込むべきでない領分であることは確かだ。しかし、身の安全を優先すべき管理人を害する可能性があるというのならば、その限りではない。 ――それに、剣契(コムゲ)の人格から元に戻った後、垣間見せた彼の精神状態が気にならなかったのかと問われれば、確かにそれは嘘になった。 「イサンさん、ファウストです」 収容室めいた扉の前に立ったファウストは、備え付けられた照明が茫洋と輪郭を映し出すそれを叩きながら、部屋の主たる囚人の名を呼ぶ。返事はなく、沈黙ばかりが返ってくる扉のノブに手をかけると、僅かに力を籠めただけでそれは抵抗もなく回り、いとも容易く向こう側へと繋がった。鍵をかけ忘れるとは、あまりに不用心ではなかろうか。それとも、施錠するだけの余裕が彼に残されていなかったのか――頭を過る一抹の不安が杞憂であれば良いと願った。 しかし、鼻について離れない鉄の臭いに、これが現実であることを嫌というほどに突きつけた。開け放たれた扉から射し込む灯りのみが照らす薄暗い室内、足の踏み場がないほど乱雑に散らばった書類と書物の中、頽れるように座り込んだ青年の後ろ姿を視線が捉える。一歩、一歩と歩み寄るたび、イサンが手にしているものが彼の得物であることが分かった。 もう一歩、近付く。とうとう自我を取り戻した彼の顔が、ゆっくりと此方を振り向いた。 「……ファウスト嬢?」 はっきりと、見てしまった。すっかり憔悴しきった彼の顔を。 左手首に刻まれた切り傷から、目を焼くほど鮮やかな赤い色が止め処なく滲み出る様を。 右手に握られたままの短剣の刃に血が付着している状況から、イサン本人が自らを傷付けたことは明白だった。屈み込みながら彼の左手に触れた途端、怯えにも似た震えが皮膚越しに伝わってくる。まるで壊れ物でも扱うかのように、体温の低い手のひらをそうっと包み込むようにして、今しがた刻まれたばかりの傷口を診た。傷自体はやや深めでこそあるが、真皮までは達していない。この程度で死に至るようなことはまずないに等しいが、たとえ彼が失血死したところで、ダンテが時計の針を巻き戻しさえすれば済む話だ。 「……しびれはありませんか?」 イサンはやおら首肯する。 「動かしにくさは?」 「……否」 自分の手の中で、男性にしては華奢な指が開き、閉じられる。動きに問題はない。幸い、神経までは傷付けていないようだ。恐らく、混濁する意識の中でありながら敢えて外したのだろう――流石は天才と言ったところか。 「とりあえずダンテのところへ行きましょう」 ハンカチで押さえた創部を強く圧迫すると、耐え忍ぶように僅かに息を詰める声が鼓膜を震わせる。今日はダンテが不寝番だ。彼の能力があれば、イサンが付けた傷は即座に「なかった」ものにされる。そうすれば、精神面は兎も角として、身体面で明日の業務に支障が出ることはない。しかし当の彼は俯いたまま、頑なに首を縦に振ろうとはしなかった。 「業務のために必要なことです。どうかご理解ください」 「しかし」 「……このまま傷が化膿する可能性もあります。痕が残ってしまうかも知れません」 イサンがダンテに対して、この件に関する報告を躊躇っているのは、単に自分自身を傷付けてしまった事実を秘匿したいだけではないことは理解に容易い。彼はただ、ダンテを含めた囚人全員に――この光景を目撃していなければ、その中にファウスト本人も含まれていたに違いない――自身の危うい状態を見られたくなかった。皆に心配をさせまいという一心だっただけだ。 たとえ我が身が苦痛に蝕まれようとも、イサンという囚人は声を上げることなく、全てをひた隠しにしようとすることだろう。それほどの器用さと演技力を持ち合わせていない事実は、彼自身が一番知っているだろうに。 だからこそ、切実な色を帯びた黒い眼差しに見つめられると、己が執るべき判断を見誤りそうになる。 無言で逡巡を重ねている間にも、布地に滲む彼の血は刻一刻と乾き、黒く変色していく。 「……ついてきてください」 ファウストは廊下を一瞥し、誰もいないことを確認すると、イサンの手を引いて部屋を飛び出した。 * * * 辿り着いたのは、静寂に包まれた医務室だった。 「このまま押さえていてください」 消毒液の臭いばかりが漂うその場所で、イサンを適当な椅子に座らせるや否や、備え付けられた棚を物色し始める。ここならば、傷の処置に必要な物品は大抵揃うはずだ。滅菌済みの縫合糸、縫合針、持針器にピンセット――良かった、局所麻酔薬のアンプルも見つけられた。消毒した手指を手袋で覆う。開放した切創を生理食塩液で可能な限り洗浄し、周辺皮膚まで入念に消毒液を塗布し終えた後、医務室にあるもので最も細い注射針を取り付けたシリンジに薬液を充填する様子を、僅かに眉を顰めながらも彼は黙って見ていた。 「今から麻酔を施します。少し痛むと思いますが、耐えてください」 「……言うに及ばず」 イサンの応えに頷くと、ファウストはおもむろに針先を傷に向ける。消毒液が乾燥していることを目視で確認し、創部の端に注射針を刺入した瞬間、押さえていた手が微かに震えた。緩慢な速度で局所麻酔を注入するたび、呻きを漏らしそうになる口唇は強く結ばれ、注入が一段落するたびに綻びては、細い吐息を零す。しばらくすると少しずつ麻酔が効いてきたのか、それとも断続的に与えられる痛みに知覚が鈍麻してきたのか――固く強ばっていた表情が徐々に凪いでいく様を見て、無意識のうちに寄せていた愁眉を開いた。 慎重に創へと縫合針を通し、縫い、結ぶ。刺入部から珠のように浮かび上がる血を滅菌ガーゼで時折拭いながら、一連の動作を粛々と繰り返していく。 ようやく折り返し地点に到達したところで、ふと目線を彼に向けてみた。 「……痛みはありませんか?」 「大事なし」 「そうですか」 少なくとも、嘘を言っているようには見えない――それなら良かったですと、口を衝いて出かけた言葉を喉奥にしまい、目の前の作業に集中することとした。 「……ファウスト嬢。その技術、如何にして?」 「ファウストは優秀なので」 頭上から不意打ちのように投げかけられた問いへ、目も合わせぬまま紡ぎ出した言葉は――たとえそれが事実であるとはいえ――とても回答の体を成していなかっただろうに。 「成程……さなり」 ふ、と噴出された笑い。右手で隠した口角をあえかに緩めながら、彼が紡ぐ言葉には決して嘲りも憐憫も含まれていない。ただただ純粋な賞賛に、あたたかいものが灯るような感覚を覚えた。 些か不格好であることは否めないが、丁寧に閉じ終えた縫合創へフィルムドレッシング剤を貼り付ける。 「後ほど抗菌薬と鎮痛薬を用意しましょう。一日三回、忘れずに内服してください」 「かたじけなし」 青年の眼差しが、処置を終えたばかりの傷から治療器具の片付けを行う同僚へと移された。深い感謝の念を惜しまぬそれに、当然の成果であると自負しながらもまんざらでもない心地を抱いたことに対して否定はしないが――己を律するように咳払いをひとつ。 「ファウストが行ったのは、飽くまで創の処置だけです。今回の件については、管理人様への報告は必ず行ってもらいますよう」 「無論、承知せり」 囚人が業務遂行にあたり何らかのトラブルが生じた場合、管理人であるダンテへの報告義務が発生する。今回の人格混濁の件といい、自傷の件といい、いずれも可及的速やかに管理人への報告がなされて然るべき「トラブル」だが、囚人本人の精神状態を鑑みて此方も最大限譲渡したのだ。彼にも最低限の規則だけは遵守してもらわなければならない。 それに――他でもないイサン自身から報告を受けた方が、彼の件で随分と気を揉んでいた様子のダンテも安心するだろう。少なくとも、彼が嘘を吐くことはないだろうけれど、後日改めてダンテに確認をすることにして、洗浄した器具を消毒液で満たされた槽に沈めた。 「……明日の業務終了後、傷の確認に伺います」 「うむ。――時に、ファウスト嬢」 「はい」 まだ他に話すべき事項はあったろうか。小首を傾げながら、続く言葉を待った。 「カウヒイと茶……そなたはいずかたや好みなるや?」 「……ファウストはお茶をしにいくわけではないのですが」 ――やはり、彼を前にすると調子を狂わされてしまう。 * * * 傷の処置を施した夜から、すでに数日が経過していた。創部の治癒過程も問題なく、多少の傷跡は残るものの、それも徐々に目立たない程度には消失していくだろう。そういえば本日の業務行動中に裏路地の露店前で、真剣な眼差しをしたイサンがロージャと話している姿を見かけたものの、果たしてどのような会話をしているのか、会話の内容までは聞き取れなかった。 「ダンテ」 〈……うん?〉 業務自体に支障が出るわけではないが、ほんの僅かな疎外感(不純物)を頭の外に追いやり、あの夜と同じように不寝番をしていた管理人のもとへと歩を進める。近付く足音に気付いたのだろう、ゆるりと振り返った時計頭が小さく傾いた。当然のように隣の座席へ腰かけながら、彼が持つLCB-PDAを覗き込む。今日も記録をしたためていたのだろうか。 二人の間に訪れた、しばしの静寂。さすがに沈黙に耐えかねたのか、頻りに此方の様子を窺ってくる視線――目もないのに「視線」と称していいものかまでは疑問だけれど――を意に介さず、自身のペースを崩さず口を開く。 「……今回の件、イサンさんからの報告はありましたか?」 〈今回、と言うと傷のこと?〉ダンテは首を縦に振る。〈数日前にね。自分で傷つけたって聞いた時は驚いたけれど……傷は勿論、精神的にもだいぶ持ち直したみたいで安心した〉 「そうですか」 〈ファウストさんが処置してくれたんだろう? イサンも感謝してたよ〉 改めて、それも本人以外の第三者からそのように言葉にされると、多少なりとも面映いものがある。悟られぬようポーカーフェイスに努めようとする傍ら。 〈……そういえば〉 端末に視線を落としていたダンテが、唐突に何かを思い出したかのように顔を上げ、ダンテは続けた。 〈イサンに傷を見せてもらおうと思ったら、断られたんだ――これは二人だけの秘密だからって〉 思いも寄らぬ発言。一体自分は今、どのような顔をしているのだろう。 不意に、圧迫止血の際に用いたハンカチのことが脳裡を過る。イサンの血で黒く変色してしまったため、やむを得ず破棄したそれを、いずれは弁償させて欲しいとイサン本人が話していたことを何故、今思い出したのだろう。 「イサンさんがそう言ったのでしょう?」 ロージャ。露店。まさかとは思うが。 「……ならば、秘密です」 ――本当に。彼のことになると調子を狂わされてしまう。 畳む #LCB0102 2024.7.10(Wed) 22:57:25 LimbusCompany,文 edit
囚人と囚人
新たに発見された鏡ダンジョンから戻る頃には、すでに太陽はとっぷりと暮れ始めていた。黄昏の色に染まる空を見上げては、全員が五体満足での帰還を果たしたことに内心胸を撫で下ろす。今回の探索は想定した以上に長丁場になってしまった。どっと押し寄せる疲労感の中、今日はバスに戻り次第、そのまま本日の業務終了を宣言してしまおうか――そのようなことを考えながら、先程まで激しい攻防を繰り広げていた囚人達の様子を密かに窺う。戦闘時に纏っていた人格を剥ぎ取り、本来の姿に戻ったばかりの彼等は疲れた、腹が減った等と思い思いの言葉を口にしている。もはや狂信と呼んで相違ない信仰を説いて回ることもなければ、常に自身を苛み続ける頭痛と精神汚染に呻き苦しむこともない。いっそ安堵すら覚えるほど、いつも通りの光景だ。
「……――」
――音を成さぬ呟きを虚空に溶かした、囚人一名を除いて。
〈イサン?〉
一見した限りでは沈思黙考に耽っているようにも見えて、口元を押さえたまま俯く青年の名を呼んだ。ただでさえ血色の悪い白皙の顔は目に見えて青褪めてしまっている。
〈イサン、大丈夫?〉
もう一度彼の名を呼ぶと、今度こそ緩慢な動作で此方を捉えた射干玉色の双眸が動揺に揺れ動いた――その直前、一瞬だけ見せた視線を見逃すことはなかった。無防備に晒された心臓を刃で斬り裂かれるような、混じりけのない純然たる殺意が籠ったそれに、脊髄に冷水を注ぎ込まれる感覚に気圧されかけた心を奮い立たせ、時針を鳴らす。
〈……辛いようだったら、アフターチームを呼んでもらおうか?〉
「否……否」イサンは頭を振る。頭の痛みを堪え忍ぶように深く息を吸い、吐い、ようやく上げた顔は努めて感情を排除していたけれど、隠しきれない疲労と憂いが滲んでいることは明らかだった。「大事なし。すなわち癒ゆ」
まるで過去に逆戻りしてしまったのではないかと錯覚するほど、イサンは何人との接触からも距離を置こうとしている。彼が何故そうすべきだと判断したのか、確信めいたものがあったからこそ、ダンテはこれ以上彼にかけるべき言葉を言いあぐねていた。
きっと、対象は何だって構わない。行く手に立ちはだかる幻想体でも、面談のために派遣されたアフターチームでも、苦楽を共にしてきた囚人でも――それこそ、管理人たるダンテでさえ例外ではないのかも知れない。
足りぬのだと。あの時、紡がれた呟きこそ聞こえなかったけれど、彼の唇はそう模られていた。
彼は彼自身の意思とは関係なく、何かをくだくだに斬り刻みたくて仕方がないのだ。
だからこそ、イサンは自身に孤独であることを強要しようとしている。
皆に対して誰よりも心を砕くような優しい彼が、誰かを傷つける行為をよしとするはずなどなかった。
〈……とりあえず、今はバスへ戻ろう。歩ける?〉
とはいえ、この状態の彼をそうそう放置出来るわけもない。何か己に出来ることはないのだろうかと思索を巡らせる傍ら、込み上げる無力感を呑み下しながら、投げかけた問いを肯定するようにイサンは小さく頷いた。
――もし幸いがあるとしたら、彼を気にかけていたのがダンテだけではなかったという事実だろうか。
* * *
本来、囚人の管理、統率は管理人であるダンテの管轄であり、案内人ならば兎も角として他の囚人が踏み込むべきでない領分であることは確かだ。しかし、身の安全を優先すべき管理人を害する可能性があるというのならば、その限りではない。
――それに、剣契の人格から元に戻った後、垣間見せた彼の精神状態が気にならなかったのかと問われれば、確かにそれは嘘になった。
「イサンさん、ファウストです」
収容室めいた扉の前に立ったファウストは、備え付けられた照明が茫洋と輪郭を映し出すそれを叩きながら、部屋の主たる囚人の名を呼ぶ。返事はなく、沈黙ばかりが返ってくる扉のノブに手をかけると、僅かに力を籠めただけでそれは抵抗もなく回り、いとも容易く向こう側へと繋がった。鍵をかけ忘れるとは、あまりに不用心ではなかろうか。それとも、施錠するだけの余裕が彼に残されていなかったのか――頭を過る一抹の不安が杞憂であれば良いと願った。
しかし、鼻について離れない鉄の臭いに、これが現実であることを嫌というほどに突きつけた。開け放たれた扉から射し込む灯りのみが照らす薄暗い室内、足の踏み場がないほど乱雑に散らばった書類と書物の中、頽れるように座り込んだ青年の後ろ姿を視線が捉える。一歩、一歩と歩み寄るたび、イサンが手にしているものが彼の得物であることが分かった。
もう一歩、近付く。とうとう自我を取り戻した彼の顔が、ゆっくりと此方を振り向いた。
「……ファウスト嬢?」
はっきりと、見てしまった。すっかり憔悴しきった彼の顔を。
左手首に刻まれた切り傷から、目を焼くほど鮮やかな赤い色が止め処なく滲み出る様を。
右手に握られたままの短剣の刃に血が付着している状況から、イサン本人が自らを傷付けたことは明白だった。屈み込みながら彼の左手に触れた途端、怯えにも似た震えが皮膚越しに伝わってくる。まるで壊れ物でも扱うかのように、体温の低い手のひらをそうっと包み込むようにして、今しがた刻まれたばかりの傷口を診た。傷自体はやや深めでこそあるが、真皮までは達していない。この程度で死に至るようなことはまずないに等しいが、たとえ彼が失血死したところで、ダンテが時計の針を巻き戻しさえすれば済む話だ。
「……しびれはありませんか?」
イサンはやおら首肯する。
「動かしにくさは?」
「……否」
自分の手の中で、男性にしては華奢な指が開き、閉じられる。動きに問題はない。幸い、神経までは傷付けていないようだ。恐らく、混濁する意識の中でありながら敢えて外したのだろう――流石は天才と言ったところか。
「とりあえずダンテのところへ行きましょう」
ハンカチで押さえた創部を強く圧迫すると、耐え忍ぶように僅かに息を詰める声が鼓膜を震わせる。今日はダンテが不寝番だ。彼の能力があれば、イサンが付けた傷は即座に「なかった」ものにされる。そうすれば、精神面は兎も角として、身体面で明日の業務に支障が出ることはない。しかし当の彼は俯いたまま、頑なに首を縦に振ろうとはしなかった。
「業務のために必要なことです。どうかご理解ください」
「しかし」
「……このまま傷が化膿する可能性もあります。痕が残ってしまうかも知れません」
イサンがダンテに対して、この件に関する報告を躊躇っているのは、単に自分自身を傷付けてしまった事実を秘匿したいだけではないことは理解に容易い。彼はただ、ダンテを含めた囚人全員に――この光景を目撃していなければ、その中にファウスト本人も含まれていたに違いない――自身の危うい状態を見られたくなかった。皆に心配をさせまいという一心だっただけだ。
たとえ我が身が苦痛に蝕まれようとも、イサンという囚人は声を上げることなく、全てをひた隠しにしようとすることだろう。それほどの器用さと演技力を持ち合わせていない事実は、彼自身が一番知っているだろうに。
だからこそ、切実な色を帯びた黒い眼差しに見つめられると、己が執るべき判断を見誤りそうになる。
無言で逡巡を重ねている間にも、布地に滲む彼の血は刻一刻と乾き、黒く変色していく。
「……ついてきてください」
ファウストは廊下を一瞥し、誰もいないことを確認すると、イサンの手を引いて部屋を飛び出した。
* * *
辿り着いたのは、静寂に包まれた医務室だった。
「このまま押さえていてください」
消毒液の臭いばかりが漂うその場所で、イサンを適当な椅子に座らせるや否や、備え付けられた棚を物色し始める。ここならば、傷の処置に必要な物品は大抵揃うはずだ。滅菌済みの縫合糸、縫合針、持針器にピンセット――良かった、局所麻酔薬のアンプルも見つけられた。消毒した手指を手袋で覆う。開放した切創を生理食塩液で可能な限り洗浄し、周辺皮膚まで入念に消毒液を塗布し終えた後、医務室にあるもので最も細い注射針を取り付けたシリンジに薬液を充填する様子を、僅かに眉を顰めながらも彼は黙って見ていた。
「今から麻酔を施します。少し痛むと思いますが、耐えてください」
「……言うに及ばず」
イサンの応えに頷くと、ファウストはおもむろに針先を傷に向ける。消毒液が乾燥していることを目視で確認し、創部の端に注射針を刺入した瞬間、押さえていた手が微かに震えた。緩慢な速度で局所麻酔を注入するたび、呻きを漏らしそうになる口唇は強く結ばれ、注入が一段落するたびに綻びては、細い吐息を零す。しばらくすると少しずつ麻酔が効いてきたのか、それとも断続的に与えられる痛みに知覚が鈍麻してきたのか――固く強ばっていた表情が徐々に凪いでいく様を見て、無意識のうちに寄せていた愁眉を開いた。
慎重に創へと縫合針を通し、縫い、結ぶ。刺入部から珠のように浮かび上がる血を滅菌ガーゼで時折拭いながら、一連の動作を粛々と繰り返していく。
ようやく折り返し地点に到達したところで、ふと目線を彼に向けてみた。
「……痛みはありませんか?」
「大事なし」
「そうですか」
少なくとも、嘘を言っているようには見えない――それなら良かったですと、口を衝いて出かけた言葉を喉奥にしまい、目の前の作業に集中することとした。
「……ファウスト嬢。その技術、如何にして?」
「ファウストは優秀なので」
頭上から不意打ちのように投げかけられた問いへ、目も合わせぬまま紡ぎ出した言葉は――たとえそれが事実であるとはいえ――とても回答の体を成していなかっただろうに。
「成程……さなり」
ふ、と噴出された笑い。右手で隠した口角をあえかに緩めながら、彼が紡ぐ言葉には決して嘲りも憐憫も含まれていない。ただただ純粋な賞賛に、あたたかいものが灯るような感覚を覚えた。
些か不格好であることは否めないが、丁寧に閉じ終えた縫合創へフィルムドレッシング剤を貼り付ける。
「後ほど抗菌薬と鎮痛薬を用意しましょう。一日三回、忘れずに内服してください」
「かたじけなし」
青年の眼差しが、処置を終えたばかりの傷から治療器具の片付けを行う同僚へと移された。深い感謝の念を惜しまぬそれに、当然の成果であると自負しながらもまんざらでもない心地を抱いたことに対して否定はしないが――己を律するように咳払いをひとつ。
「ファウストが行ったのは、飽くまで創の処置だけです。今回の件については、管理人様への報告は必ず行ってもらいますよう」
「無論、承知せり」
囚人が業務遂行にあたり何らかのトラブルが生じた場合、管理人であるダンテへの報告義務が発生する。今回の人格混濁の件といい、自傷の件といい、いずれも可及的速やかに管理人への報告がなされて然るべき「トラブル」だが、囚人本人の精神状態を鑑みて此方も最大限譲渡したのだ。彼にも最低限の規則だけは遵守してもらわなければならない。
それに――他でもないイサン自身から報告を受けた方が、彼の件で随分と気を揉んでいた様子のダンテも安心するだろう。少なくとも、彼が嘘を吐くことはないだろうけれど、後日改めてダンテに確認をすることにして、洗浄した器具を消毒液で満たされた槽に沈めた。
「……明日の業務終了後、傷の確認に伺います」
「うむ。――時に、ファウスト嬢」
「はい」
まだ他に話すべき事項はあったろうか。小首を傾げながら、続く言葉を待った。
「カウヒイと茶……そなたはいずかたや好みなるや?」
「……ファウストはお茶をしにいくわけではないのですが」
――やはり、彼を前にすると調子を狂わされてしまう。
* * *
傷の処置を施した夜から、すでに数日が経過していた。創部の治癒過程も問題なく、多少の傷跡は残るものの、それも徐々に目立たない程度には消失していくだろう。そういえば本日の業務行動中に裏路地の露店前で、真剣な眼差しをしたイサンがロージャと話している姿を見かけたものの、果たしてどのような会話をしているのか、会話の内容までは聞き取れなかった。
「ダンテ」
〈……うん?〉
業務自体に支障が出るわけではないが、ほんの僅かな疎外感を頭の外に追いやり、あの夜と同じように不寝番をしていた管理人のもとへと歩を進める。近付く足音に気付いたのだろう、ゆるりと振り返った時計頭が小さく傾いた。当然のように隣の座席へ腰かけながら、彼が持つLCB-PDAを覗き込む。今日も記録をしたためていたのだろうか。
二人の間に訪れた、しばしの静寂。さすがに沈黙に耐えかねたのか、頻りに此方の様子を窺ってくる視線――目もないのに「視線」と称していいものかまでは疑問だけれど――を意に介さず、自身のペースを崩さず口を開く。
「……今回の件、イサンさんからの報告はありましたか?」
〈今回、と言うと傷のこと?〉ダンテは首を縦に振る。〈数日前にね。自分で傷つけたって聞いた時は驚いたけれど……傷は勿論、精神的にもだいぶ持ち直したみたいで安心した〉
「そうですか」
〈ファウストさんが処置してくれたんだろう? イサンも感謝してたよ〉
改めて、それも本人以外の第三者からそのように言葉にされると、多少なりとも面映いものがある。悟られぬようポーカーフェイスに努めようとする傍ら。
〈……そういえば〉
端末に視線を落としていたダンテが、唐突に何かを思い出したかのように顔を上げ、ダンテは続けた。
〈イサンに傷を見せてもらおうと思ったら、断られたんだ――これは二人だけの秘密だからって〉
思いも寄らぬ発言。一体自分は今、どのような顔をしているのだろう。
不意に、圧迫止血の際に用いたハンカチのことが脳裡を過る。イサンの血で黒く変色してしまったため、やむを得ず破棄したそれを、いずれは弁償させて欲しいとイサン本人が話していたことを何故、今思い出したのだろう。
「イサンさんがそう言ったのでしょう?」
ロージャ。露店。まさかとは思うが。
「……ならば、秘密です」
――本当に。彼のことになると調子を狂わされてしまう。
畳む
#LCB0102