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in the MIRROR
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性癖の煮凝り。

No.18

芽吹く/ホンイサ
W社整理要員

 イサンという人物がどのような人物なのか問われたところで、彼と接点がないに等しい自分が答えられることは限られている。
 たとえば、彼が自分よりも階級の高い三級整理要員であることとか。
 新人の頃、彼が新人研修の師範役として教鞭を執っていたこととか。
 普段は風に吹かれればそのまま飛んでいきそうなほどぼうっとしているのに、整理業務中の立ち居振る舞いは敏捷で無駄がないこととか。
 あとは――W社で勤務し始めてそこそこの時間が経ったが、彼が怒る場面はおろか、微笑む姿すら一度たりとも見たことはなかったように思う。ただただ粛々と業務をこなし、取り乱すことなく冷静に、いや、まるで心をどこかに落としてきたかのような――とはいえ、新人研修の時はどこか楽しげだったかも知れない。人にものを教えるのが好きなのだろうか――能面めいた無表情を崩すことのなかった彼は、存外にも他者に対して寛容らしい。時には整理業務中に負傷した整理要員の代打として、時にはどうしても外せない用事があると頭を下げる社員の代わりとして、夜間及び終電の整理業務に従事する様子をこれまでにそれなりの頻度で見てきた。勿論、彼が加わることで作業効率は飛躍的に向上するので共に仕事をする側としてはありがたい限りだが、その次の日も自分が出勤する頃にはすでに業務の支度をしているイサンの姿を見かけるせいで、はたして彼は人間に必要な睡眠をまともに取れているかどうかすら不思議に思うことがあった――ふとした疑問に対する回答は、目の下に拵えた隈が如実に物語っているだろう。
 彼がそこまで身を粉にして働いている理由など、皆目見当もつかない。身近な知人――良秀のように整理業務という天職に喜びを見出しているとは、とてもではないが考えにくい。それならば困った人を見過ごせないというただの純然たる親切心か、はたまた自分の方が仕事を効率的に済ませられるという自信や傲りと言われた方がまだ納得出来る。
 第一、自分から接点がないと言いきったはずの男について、何故今更になって、その上柄にもなくああでもないこうでもないと延々と思考と推論を繰り返しているのか。
 おそらく、雑談に花を咲かせる同僚達の会話を小耳に挟んでしまったのが原因だ。業務中、「乗客」の暴走によって整理職員数名が全治数週間の負傷を被ったという。しかも件の乗客を取り押さえられず、やむなく三級整理要員が増援に向かったと聞いた。今日は珍しく良秀が上機嫌だったことから、列車整理に宛てがわれたのだと察しはついていたが――なるほど、その内の一人にイサンも含まれていたらしい。
 二級から三級への昇格はそう簡単なことではない。無論、彼等が口々に三級整理要員の戦闘能力に対して賞賛の声を贈っていたことは確かだが、中には謂れのない中傷も含まれているものだ。
 イサンさんは何を考えているのか分からない――気味が悪い、と。
「……っと、いけないいけない」
 これ以上思考を引きずられたところでろくなことはない。本日最後の整理業務はすでに完了した。時計を確認すると、定時まであと少しだ。帰宅する途中で気になっていたレストランにでも立ち寄って、あたたかい夕食で腹を満たせば、多少なりとも思考だってリセット出来るに違いない。ぐっと伸びを一つ、足取り軽く廊下の角を抜けようとした目前で、不意に誰かの話し声が鼓膜を打つ。この先には更衣室があるはずだが、近くで同じく定時を迎えようとしている社員達が話でもしているのだろうか。首をもたげる好奇心の赴くまま、角からこそりと顔を覗かせると、まず視界に入ったのは整理職員と――確か、彼も三級整理要員だったことを覚えている――そして、その手前にイサンの後ろ姿があった。
「今日のトラブルで終電勤務だった整理要員が不足しててな……悪いんだがイサン、代わりに入れないか?」
 うわあ、と知らず知らずのうちに声が漏れてしまっていた。よりによって、こんな時に限ってタイミングが悪い。口ぶりからして人手が足りていないのは事実だろうけれど、彼とまたどうせイサンならば断りきれないと踏んで声をかけたのだろう。こんなところにいては、下手をすれば自分まで巻き込まれる形で夜間残業を言い渡されかねない。ここは勘付かれる前に、距離を取って適当に時間を潰した方が良さそうだ。
 細心の注意を払いながら踵を返そうとして――ふと、これまでまじまじと見ることのなかったイサンの横顔を一瞥する。普段と変わらない、生気の抜けた無表情。どこか遠くへと向けられているような(くら)い眼差しから垣間見えた感情は悲観ではなく、かといって達観の境地に達しているわけでもない。
 きっとそれは――諦観。

「ちょっとイサンさ~ん!」
 手足を動かすよりも先に、気付けば口を開いていた。一歩遅れる形で勢いをつけて背後からのしかかるようにして抱き竦めると、分かりやすいほど吃驚の色に染まった双眸がこちらへ向けられる。
「もぅ、僕との約束のこと忘れちゃったんですか~?」
 状況が理解出来ていないのだろう。忙しなく目を白黒させているイサンの耳元で――合わせて――彼にのみ聞こえるように囁きを落とすと、ぱっと人好きのする笑みを顔を貼り付けた。
「すみません~。お手伝いしたいのは山々なんですけど、今日はイサンさんとご飯を食べに行く約束をしてまして~」
 そうですよね~、と同意を求めたならば、時が止まったかのように微動だにしなかったイサンが弾かれたように、ぎこちない動きながら首を縦に振る。
「何だお前ら、そんなに仲良かったのか?」
「それはもう~。イサンさん、最近残業続きだったのでたまには美味しいものでも食べて英気を養ってもらおうと思って~」
 我ながら、思いつきの即興が次から次へと口を衝いて出るものだと感心する。今日イサンを助けたところで、明日には晴れて、何の接点もない他人同士なのだから。そうなると分かっていながら、どうしてこれほど彼の肩を持とうとしたのか、今更考えたところで明確な理由は浮かんでこない。
 いや、もし、あるとするならば――
「何だ、随分楽しそうなことを話しているじゃないか。俺も仲間に入れてくれないか?」
 刹那、背中越しに届いた声があった。
「……げっ」
 心なしか聞き覚えのある凛としたそれに、目の前に立っている男の表情が露骨なまでに歪んでいく様に目を瞬かせながら、恐る恐ると振り返ってみる。切れ長の赤い双眸を楽しげに細めたその人は、しかし茶番劇に興ずる自分達の存在など気にも留めず、淀みない足取りで職員の前へと歩み寄った。
「ちょうど暇していたところなんだ。人手が足りないって言うなら、夜間だけなんて言わずに今からでも構わないぞ。何、遠慮するな」
 普段であればほとんど見せることのない喜色を湛える彼女に詰め寄られる職員の顔色は、もはや蝋のように生気を失ってしまっている。何とかしてこの状況から逃げる術を模索しているのだろう。まるで助けを求めるように視線を泳がせている姿があまりに憐れで、心ともなく同情してしまった。
「あ、ああ悪い用事を思い出した! お前ら、遊ぶのはいいが羽目を外しすぎないように気を付けて帰れよ!」
 挙句の果てには脇目も振らずに走り去っていく背中を見送る傍ら。
「ちっ、腰抜けが」
 肝心の良秀はといえば、先ほどと打って変わり、自身の不機嫌を隠す気などなく舌を打った。これは――彼女の思惑は別にあるして――彼女に助けられたと考えていいだろう。
「おぉ……流石です、良秀さん。おかげで助かりました~」
 満面の笑みを伴い、両手を叩きながら近付く。案の定、鋭い眼光に睨めつけられた。
「何だ、まだいたのか?」
 いつものように紫煙を燻らせながら、普段と変わらないぞんざいな彼女の応えに、寧ろ安心感さえ芽生えてくる。
「だって、お礼がまだでしたし~」
「ホンル君の言う通りなり」追随するようにしてイサンはようやく口を開く。「私からも礼を言わせなむ。……二人とも、此度はかたじけなし」
「礼の一つを寄越すくらいなら、一件でも多く俺に整理業務を割り振るよう掛け合ってくれよ」
 俺はより多くの芸術と出会いたいだけだからな――煙を吐き出しながら続けられた彼女の言葉は、どこまでも自分自身に正直だった。まあ、そこが彼女らしいと言えばらしいのだが。
「あは、どういたしまして~。それにしても……ん~……気が抜けたら一気に小腹が空いてきちゃいました」伸びの動作に合わせて時計を見上げる。就業時間はとっくに過ぎていた。「折角ですし、このまま何か食べに行きませんか?」
 そう言って、覗き込んだイサンの丸みを帯びた瞳にあえかな光が宿る瞬間を見た。まさか、本当に誘われるとは夢にも思っていなかったのだろうか。接してみてようやく気付いたことだが、確かにほとんど表情に変化は見られないとはいえ、彼は存外に驚きやすく、動揺しやすい。
「あ、もしかしてこのまま帰ろうって思ってました? え~……僕、夕食を食べに行こうって約束したじゃないですか~。酷いなあ」
 その証拠として、いっそわざとらしく頬を膨らませると、慌てふためくイサンの挙動が面白くて、思わず噴出しそうになるのを何とか堪える。
「あ、あれや演技ならざりける?」
「演技じゃないですよ~。今、演技じゃなくなりました」
 子どもの屁理屈だが、このまま別れるには惜しい――もう少しだけ、彼と話してみたいと思ってしまったことは確かだ。
「勿論、良秀さんもご一緒しますよね?」
「おいイサン、断っていいぞ。俺も帰るからな」
「そんな~。僕と良秀さんの仲じゃないですか~」
「気・悪・言。叩き斬るぞ?」
 いつも通りの言葉の応酬。ただ、いつもと違うことがあるとすれば。
「…………ふふ、」
 その中に、堪えきれずにとうとう零れ落ちた笑声が一つ、混じったことくらい。

 ――それはきっと、これから何かが芽吹く予兆。
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