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性癖の煮凝り。

No.19

綻びる/ホンイサ
W社整理要員 ※「芽吹く」の続き

 夕食を共にして以来、イサンの時間が合えば一緒に食事をすることが多くなった。彼自身、決して口数が多い方ではなかったけれど、想像していたよりもずっと相槌を打つのが上手くて、いつの間にか話し足りないと思えるほど会話が弾んでしまっていただなんて、食事をする前の自分は夢にも思わなかったろう。
 つい先日にはちょうどかぶった休日を利用して、二人で街に出かけないかと誘ってみた。最初は友人と外を出歩けるような私服を満足に持っていないからと渋っていたけれど、そんなイサンに似合う服を見繕う時間も退屈ではなかったし、がちがちに緊張していた彼の口元が最終的には柔らかく綻んでいく様を拝めただけでもお釣りがきてしまう。
 そういえばこの前はイサンから誘われ、初めて彼の社宅にお邪魔させてもらえたのだけれど、その日は生憎徹夜明けだったようで、持ち寄った映画を二人で鑑賞している途中、舟を漕ぎ始めた彼はそのまま肩へと凭れかかるようにして深い眠りに就いてしまった。ちょっとした気配でもすぐに覚醒する人が、こうも無防備な寝顔を晒してくれるとは思ってもいなくて、これほど自分に気を許してくれている事実に満更でもない気持ちではあったものの、当の本人はこの一件を相当気に病んでしまったらしい。たとえこちらが大丈夫だと言ったところで、何かお詫びをさせなければとても納得してもらえそうにない――ゆえにこそ、変なところで頑固な彼の人柄を利用して、新たな食事の約束を取りつけることが出来たのは僥倖と言うべきだろうか。少しだけ奮発して、良いお店を探してしまった。気に入ってもらえると良いのが。

 今日こそがその、心待ちにしていた約束の日。
 現在行われているのが、自分にとって本日最後の整理業務。今回のシフトには、どうやらイサンと良秀も参加しているらしい――小耳に挟んだ時は、一体どんな危険な業務に放り込まれるのだと内心冷や冷やしたけれど、今のところ滞りなく業務は進んでいる。
 鼻歌交じりで床に転がる「乗客」だったはずの肉塊を――暴れた時には無力化して――解体し、分解し、元々それが位置していた座席に並べ直す、単調な作業。いつもであれば退屈で仕方がない整理業務も、その後に待っている楽しみを思えば、さほど苦にはならなかった。入念に片付けをし終えた車両を一望した後、真っ赤に濡れた手をスラックスで拭い、一つ伸びをする。噎せ返るような血の臭いが充満する車両から外に出ると、吐きそうにしている新人を介抱している年長者、昨日見たバラエティ番組について雑談に興じている同僚、等々――ちらほらと戻ってきた整理要員を眺める限りでは、多少の怪我こそありはすれど、他の車両も順調に作業が完了したのだろう。
 期待にも似た眼差しで周囲を探ってみるが、どうやら良秀もイサンも、まだワープ列車から戻っていないようだ。担当車両での業務が思いのほか手間取っているのか、はたまた応援に駆り出されているだけか。
 込み上げてくる苦いものを何とか飲み下す。
 胸に重い澱が沈んでいく感覚。こうした予感は、往々にして的中するものだ。
「――ファウストさん」
「はい」
 プラットホームの傍ら、色素の薄い双眸が、手にあるクリップボードからこちらに向けられた――さりげなく覗き込んでみると、挟まれている書類には、現業務に関する仔細が取りまとめられているようだ。
「応援が必要そうな車両ってありますかね~?」

   * * *

 まだ理性を保っていた乗客達は、パニックを起こしたり、凶暴化したりした乗客を車両の奥へ奥へと押し込めていったのだろう。中にはかなり距離の離れた客室に乗車しているはずの乗客まで含まれているようで、その全てを元の位置に戻すだけでもかなりの重労働になりそうだ。
「……まあ」
 溜息を零しながら、キャップを目深にかぶり直す。今はそんなことに頭を悩ませるよりも、目の前にある「面倒事」を処理する方が先決なのだが。
 目の前には一様に意識を失った整理要員が数名――手足が変な方向に曲がっている者もいれば、頭から血を流している者もいるが、幸い呼吸はしている。後ほど適切な治療を受けさえすれば、十分に助かるはずだ――さらに顔を上げた先で呻きを上げるのは、天井に頭が届きそうなほどの巨体。脈動する剥き出しの血管と筋肉質に包まれた、赤い怪物。数百、数千の時を過ごすことでこれほどグロテスクな異形になり得るのだと思うと、人間の進化に対して少しばかりの感動さえ覚える。
「、……っと」
 耳を劈く咆哮。同時に「乗客」が床を蹴り、距離を詰められた。瞬く間の突進は握り込んだ得物で辛くも受け止めたが、重い。歯を食いしばり、勢いに圧されて吹き飛びそうになる身体を支えるべく足裏でしっかと硬い床を踏み締め、堪える。がちがちと、得物越しに伝わる振動が一層の激しさを増す。重力を一身に受ける足は徐々に痺れ、感覚はほとんどない。このままでは押し返されるのも時間の問題だった。
 翼に入社する以前から、たゆまぬ鍛錬を重ねてきた身だ。多少の暴動であれば鎮圧は造作もないと自負しているが、理性の箍が外れた化け物を相手取らなければならないのは、流石に自分一人では手に余る――とはいえ、自ら志願して応援に駆けつけたからには、ここで無様に逃げ(おお)せるわけにもいかないのだが。
 それに――「手に余る」のは、飽くまで「一人だけ」で対処しなければならない状況下においての話だ。
 眇めた視界に、刹那に映る、一閃の煌き。赤い巨躯にではなく、次元そのものへと走る亀裂――恍惚とするような紫の光が零れ落ちる空間から現れ、装備どころか頬に飛び散る返り血を意に介しもせず、鋭い身のこなしで怪物を裂いたのは、黒い眼差しの男。
 身を翻す間もなく眼前に飛び込んできた肢体を抱き留めた反動でとうとう足は頽れ、床に尻餅をついてしまった。
「い……ったた……」
 神経を駆け抜けるような痛みに思わず呻きを漏らすも、自身よりも一回り華奢な腰に回したままの腕は離さなかった。
「ホンル君……? そなた、怪我は――」
 自分が探し求めていたその人は、自分が来ることなど予想だにしていなかったのかも知れない。丸みを帯び、忙しなく瞬かせながらこちらを見つめる視線が搗ち合う。普段ならばほとんど感情を映さぬ暗鬱とした双眸が幾許かの吃驚と――まっさきに気遣いに類する光を宿して揺れたことを、秘かに自惚れてしまったところで文句は言われまい。
「お尻が痛い以外は何とも~」
「さりか……さならば、良かりき」
 安堵の吐息交じりの微笑には、同じく笑顔で返した。
「それよりも、イサンさんの方こそ怪我はしてませんか~?」
 車内灯で青々と照らされた白皙の頬を汚す赤い飛沫を、手袋で皮膚を傷付けないように優しく拭ってやる。そうすると――当人が自覚しているのか、無自覚なのかは別として――心なしか気恥ずかしそうでいて、一方で心地好さそうに頬を擦り寄せてくる反応は、まるで愛玩動物のそれだ。
 彼が、こんなにかわいい仕草をすることだって、ただ自分だけが知っていれば良い。
 一人悦に入る中、重ねられた手の熱。不意打ちに瞠目する視界を占有するのは、不器用でありながら今まで出会った誰よりも柔らかくてあたたかい微笑。その息遣いが感ぜられるほど近々と感じられた彼の顔を、瞬きも忘れて見つめる。拒みはしなかった――否、拒もうとすら思わなかった、といった方が正しいのかも知れない。こういった行為の際は、目を瞑らなければ失礼に当たるだろうか。惚けたように回らぬ頭でぼんやり思考を巡らせる。待ち望んだ感触は一向に訪れず――ぽすり。左肩へとかかった重みに、ようやく我に返った。
「……イサンさん?」
 返事はない。そうっと、撓垂(しなだ)れる身体を揺り動かそうとした指先が捉えた、ぬるい滑り。てらてらとした赤に塗り潰された己の手のひらを目の当たりにして、息が出来なくなった。
 怪我をしている。
 はやく。
 早く、てあてをしなければ。
 ねえ、はやくおきてよ。
 なんで、こんなによんでもおきないのだろう。
 ――いやだ。
 がちがちと戦慄く口唇でどうにか酸素を取り込む。楽観視が出来るような出血量ではないことは明白で、早く治療を施さなければ手遅れになる。今すぐイサンをここから連れ出して――ああ、そうだ。後は気絶している整理要員の回収、整理業務の応援を要請しなければ――止まりかけた思考に、肉体に鞭を打ち、物言わぬイサンに肩を貸すようにして立ち上がって踏み出した一歩は、酷く重かった。まるで重石でも運んでいるような気分だ。そんなことを考えてしまったところで頭を振る。
 まだ、約束を果たしていない。
 まだ、死んで良いなどと自分は許していない。
 無我夢中で、重い身体を引きずるようにして歩く。そして、無我夢中だったからこそ気付くのが遅れてしまっただなんて、我ながら滑稽だった。
「……あ」
 ――背後で蠢いている、無力化しきれなかった肉塊の存在に。
 振りかざされた腕から庇うようにイサンに覆いかぶさる。衝撃はない。それどころか、痛みすら感じない。おそるおそる顔を上げると、動きを止めた肉塊の四肢が美しい断面図を覗かせながら、ごろりと、重圧のある音を立てて転がった。
「……はあ」
 不意に立ち込める煙草の匂いが誰のものか、自分は知っている。
「……良秀、さん?」
「ったく。完・無・気(完全に無力化するまで気を抜くな)……新人教育の際に教わらなかったのか?」
 おかげで素晴らしい芸術を自ら引き剥がす羽目になっちまった。不満げに独り言つ口元に紫煙を燻らせ、ひときわ大きく舌打ちした良秀の赫々とした鋭い眼差しがこちらを睨めつける――が。
「うん? そいつは……」
 すぐにその視線は腕の中にあるものへと向けられた。
「なんだ、無様にやられでもしたか?」
「わ、分からないんです。ただ、何度呼びかけても起きないし……背中からたくさん、血も出てて……」
「血?」
「早く、早く診てもらわないと――」
 ぐるぐると最悪の事態ばかりが脳裏を過る。暴れ回る鼓動が煩わしい。呼吸が上手く出来ない。もし、このまま目を覚まさなかったら――
 刹那、強い衝撃。続いて、頬へと走る熱いものに、しばらくしてようやく自分が殴られたのだと悟る。
「少しは落ち着いたか?」
 何故殴られたのだろう。何も考えられなくて、唖然と見上げた彼女の顔は、目に見えてうんざりとした様子で再び舌を打った。
「……おい、ひよっこ。よく聞け」煙を吐き出した良秀は続ける。「背中から血が出てると言ったが……こいつの装備にそれらしい破損はあるか?」
「破損……」
 彼女の言葉を反芻しながら、慎重にイサンの背に手を回す。
「……あれ?」
 隅々まで確認してみたが、傷らしい傷は見当たらなかった。そんなはずはない。だって、こんなに手が真っ赤に濡れるほど、血が流れているはずなのに――
「…………あ」
 次元そのものへと走る亀裂。飛び散る返り血を意に介しもせず、出来たばかりの次元の狭間から姿を現したイサン。
 頭を掠めた記憶に、思わず声を上げてしまった。
 いや、まさかとは思うが。
「これ……もしかして全部、返り血です?」
「そうでなきゃ、こんなだらしない顔して眠ってられないだろうが」
 もはや嘆息めいた溜息を零しながら、眉間に眉を寄せる良秀が指し示す先、胸に抱かれたイサンへと視線を落とす。青く照らされてこそいるけれど、顔色は決して悪くない。か細くも規則正しい寝息を立て、あの休日――初めて訪れた彼の社宅で、隣で見守っていた安穏とした寝顔が、そこにはあった。
 まさか、単なる取り越し苦労だったとは。これまでの緊張が全て解けたからか、どっと襲い来る疲労感で身体から力が抜けていく。まったく人騒がせだと言いたいところだが、第一騒いだのは自分自身であるため、心の奥底に沈めておく。
 しかし、何故イサンは急に眠りに就いたのだろう。いくら新人教育業務の準備に熱を入れ過ぎて徹夜や残業を重ねた後だったとして、こういったことは今までに一度もなかったはずだ。彼の緊張の糸が切れるきっかけは何か――そこまで考えて、思考を止める。これ以上はいけない。これ以上は、きっと自惚れてしまうから。
「良秀さ~ん……悪いんですけど、武器を預かってもらえません? 流石に持ったままイサンさんを抱えるのは難しくて~」
「やらんぞ。何で俺がそんなことを……」
「そこを何とか~。今度何か奢りますから~」
 緩みそうになる口元は、いつもの笑みの下にひた隠す。敏い彼女にはすぐに察せられてしまいそうだけれど、一人だけの秘密にしたかったから。

 ――一旦綻びてしまった感情は、後は花開く瞬間を待つのみ。
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