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in the MIRROR
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性癖の煮凝り。

No.2

闇路を照らすは妙なる指先/イサファウ
囚人と囚人

 青年がその部屋を抜け出してから、どれほどが経っただろう。
 着ていた服は、降りそぼつ雨で重く濡れ、体温を奪っていく。裸のままの(あうら)は無我夢中に走ったせいで、いつの間にかあちらこちらに傷が出来てしまっていたことに、もつれた足に躓き、泥濘(ぬかる)む地面へ叩きつけられてようやく気付いた。
 飲食を忘れ、酷い疲労感で動かすことすら億劫になる身体とは対照的に、満足にまとまらない頭は、しかしより深く思考へと沈む。これまでに多くを失ってきた青年には、すでに帰るべき場所も、己の帰りを待つ朋もいない。このまま、そこら辺に転がっている路傍の石のように、誰にも看取られぬまま野垂れ死ぬか――はたまた運が良ければ、かつての同胞が彼の消息を掴み、再びあの四角形の内部へと連れ戻される可能性も有り得るのだろうか。
 彼は、鏡の中で微笑む「彼」のように、自由にどこへでも羽ばたいていける翼を持ち合わせていない。長い年月を過ごした牢獄めいた白い場所で、望まれるがまま――自身の行いが齎す結果の全てから目を背けていれば、少なくとも身の安全くらいは保障されたことだろう。
 呼吸のひとつすら難しい、この生き苦しいこの「都市」で選択出来るのは――奪うか、奪われるかの二択のみ。
 死と生、果たしてどちらが「救済」であるかも曖昧になってしまうほどに、ささやかな幸せさえ掴むのが困難なこの世こそ、まさに地獄と呼ばずして何と呼べばいい。
 柔い心を打ちひしぐ絶望の中で、それでも青年は緩慢でこそあったけれど、泥にまみれたその身を起こした。もはや棒と化した足をひきずり、皮膚に食い込む冷たく鋭い痛みに耐えながら、歩を進める。
 頑なに歩みを止めようとしなかったのは、ひとえに彼は心のどこかで願って止まなかったから。
 無様でもあがいて、もがいて――そうして、
「……っ」
 不意に、眩い光が青年の視界を染め上げた。
 目を焼かんとばかりの光量に、思わずかざした手の隙間から見えたのは、きらきらと煌めく雨粒。その奥で、傘をさすシルエットがひとつ、細長い影を落とす。
「最初の囚人、イサン」
 感情の窺い知れない、淡々とした声だった。
「お待ちしておりました」
 同時に、惹き寄せられるような美しい声から語られたのは「リンバス・カンパニー」という新興企業の存在。
 入社すれば、喪われたものを取り戻せると嘯くその影は、さもそうすることが当たり前であるように、拒絶されることはないと確信しているかのように、白魚めいた手を青年へと差し伸べる。
 耳触りの良い甘言のようでありながら、しかし、有無を言わせぬ強制力を孕んだ言の葉。
 ああ、これは魔女なのだと、青年の理性が警鐘を鳴らし続けていた。
 少なくとも、この出会いは決して偶然と呼べるものではないのだろう。この先、接触を図ってきた企業が何を求めるのか、彼には推し量ることしか出来ない。
 一を得るため、多くを奪わなければならないかも知れない。
 死でさえ生温い絶望が、未来永劫続くことになるかも知れない。 
 ――けれど。

「――」
「……戻られましたか?」
 ようやく、我に返った青年の眼前に広がっていたのは、陰鬱とした雨景色ではなく、いつしか見慣れたバスの内装だった。自身に割り当てられた座席に腰かけたまま、茫洋と「魔女」を見つめていた黒曜石の眼差しが、緩やかに周囲へと向けられる。
 彼等、二人以外には誰もいない。
 常ならば、率先して不寝番を担っているはずの管理人の姿すらも、だ。
「……管理人は、」
「変動可能性のある最大一二時間の就寝および休息を開始した際、複数の囚人に連行されていきました。仕方がないので、ダンテが戻るまではファウストが不寝番を担当しています」
「さりか」
 青年は再び彼女を一瞥したものの、視線はすぐに虚空へと投げられた。
「何か、懸念すべき事柄でも?」
「……否」
 窓の外、夜の帳が降りようとしている黄昏の空には、巣から多少離れているとはいえ、都市を彩る光で一粒の明星でさえ確認することは叶わない。栄光の輝きを抱きながら、その実、どこまでも(めし)いた闇が広がっているような、漠然とした不安感。
「――ファウスト嬢」
「何でしょうか」
「手を」
 不意打ちでもたらされた言葉に、氷めいた魔女の面持ちがとうとう僅かに崩れる。色素の薄い目を瞬かせながらも、心なしか躊躇いがちに差し出された、己のものよりも幾分も華奢な手――それを、青年はおもむろに頬へと寄せたのだった。
「イサンさん?」
「……今暫く、このままに」
 それはあの時、彼女と出会った時と変わらない。
 彼はついに、差し伸べられた手を振り払えなかった――彼女の手は、魔女と呼ぶにはあまりにあたたかくて、染み入るようなぬくもりだったのだから。
畳む

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