home palette
chat
in the MIRROR
in the MIRROR

in the MIRROR

性癖の煮凝り。

No.20

名称未設定の感情/ホンイサ
囚人と囚人

「今、何を考えてるんです?」
 茫洋と、バスと外界を隔てる硝子窓の先を眺めていた眼差しがおもむろに此方へと向けられる。月のない夜空をそのまま嵌め込んだかのような昏い双眸は、確かに自分の姿だけを映しているはずなのに、どこか遠くを――自分ではない「誰か」を見ているのではないかと錯覚してしまうほど、酷く虚ろだった。
 唐突で不躾な問いかけに対して、彼が眉を顰めることも、微笑を湛えることもしない。人よりも幾許か長い沈思黙考を重ね、淡々とした落ち着いた低音に言の葉を乗せる。
「――何も」
 ごくごく短い、最低限の応えを紡ぎ終えると、告げるべきことは告げたと言わんばかりに黒い視線は再び虚空へと注がれる。「白紙」と呼ぶには不自然な、まるで紙いっぱいに描いた絵を全て白い塗料で塗り潰してしまったような違和感を覚えるそれだったけれど、前のめりになってまで回答を追求したいと思えるほど、この青年に対して特段の興味や関心があったわけでもない。
「ふぅん……そうですか」
 だから、いつものように笑みを浮かべて、回答への謝辞を伝えてからその場を後にした。

 イサン。自分と同じく「リンバスカンパニー」に所属する囚人の一人。口数が少なく、感情の起伏に乏しい彼を冷静沈着な才物だと讃える者もいれば、陰気臭い根暗だと捉える者もいるだろう――とはいえ、最終的には「捉えどころのない不思議な人」という結論に帰結するのだが。
 時間の大半を思索に暮れ、思考の処理に費やすイサンが一体何を考え、何を思っているのか――奥まで見通せない霧めいたそれに手を伸ばしたところで、虚空を掠めるばかりで確信を掴めた試しは一度たりともなかった。彼について、さして深くを知りたいとすら思っていなかったのだから、至極当然なことだ。

 ――イサン。今何を考えてるんだ?
 ――知るらん。……何も。

 あの時と変わらない質問。変わらない回答。
 それでもあの瞬間、自分――正確には自分の演ずる「ヨンジ兄」に対してなのだろうけれども――に向けられた微笑は、これまでそう短くもない期間、共に業務をこなしてきた中でさえ初めて目の当たりにするほど、酷く穏やかだったことをほんの少し前のことのように鮮明に覚えている。
 イサンの自我心道で与えられた自身の「役柄」が、彼の為人を知るきっかけとなったことは言うまでもない。
 だからといって、イサンの心情を慮った末に導き出した推量も、彼を放っておけないと――彼のことをもっと知りたいのだと願ったこの望みの全てが、演じた役柄に感化された結果によるものだと思いたくはなかった。

 黄金の枝を回収し、K社の巣を後にしてからどれほどの月日が流れたのか、疾うの前に忘れてしまった。気ままな雑談に花を咲かせる囚人達を乗せ、メフィストフェレスは今日も今日とて時折激しくなる振動に揺られながら、今のところ穏やかな旅路を進む。しかし、こうもバスでの移動ばかりを続けていると身体も鈍るし、どうも退屈で仕方がない。管理人であるダンテに進言すれば、今日の鏡ダンジョン攻略に優先して同行させてもらえないだろうか。
 そんなことを考えながら手持無沙汰に髪先を弄ぶ傍ら、ふと視線は目の前の座席に腰かけているイサンへと向けていた。また小難しい書物でも読み解いているらしい彼の横顔は表情こそ普段と変わらないように見えて、心なしか眉間が寄っているような――
「イサンさ~ん」
「! ……ああ。そなた、私に何か用向きなりや?」
 弾かれたように見開かれた夜色の瞳が此方を捉えるや否や、安堵でもしたかのようにその目元がふわりと綻ぶ様を見つめては、自ずと頬が緩んでしまいそうになる。自我心道での一件以来、どこかふっきれた様子のイサンを観察していると、何を考えているのか読み取ることさえ難渋したポーカーフェイスは、未だ硬いながらも以前と比べて幾分も柔らかくなり、そして豊かになったように思う。
「用ってほどじゃないんですけど~。何かお悩みのようだったので、少し気になったというか」
「う、うむ……」明らかに、歯切れの悪い応えだった。
 おそらく、表情が読み取りやすくなったのも要因の一つかも知れない。今、彼が何を考えているのか、推し量るのは存外に難しいことではなかった。
 そういえば、そろそろ昼時だったか。
「もしかして……今日の昼食、何を食べようか迷ってる――とか?」
 小首を傾げながら問いかけるも、返ってきたのは沈黙だった――が、落ち着きなくあちこちへ目線を泳がせている挙動を見るに、どうやら図星らしい。ああ、だから理由を言い淀んでいたのか。
「かほん。……ホンル君」
 一つ、咳払いをするイサンの頬がほのかに上気する。そんな姿が、どことなくあどけなくて、微笑ましい。
「あははっ、……いやぁ~、まさかこんなことで頭を抱えてるだなんて思わなくて~」
 みるみるうちに紅潮していく白皙を眺めては、笑いで震える肩をどうにかこうにか押さえ込む。
「そんなに悩むくらいなら、いっそこうしませんか?」
 こちらとしても、別に彼を笑い種にするつもりはない――まあ勘付かれたところで、イサンの人柄を鑑みるに誰も彼の悩みを笑い飛ばしはしないと思うが、彼にも彼の面子がある。それゆえ、あたかも内緒話でもするかのように顔を寄せ合いながら、声を潜める。
「イサンさんが食べたいものを教えてください。僕がそれを選んで、二人で分けるなんてどうです?」
「し、しかし……」
「寧ろ僕も何を食べようか迷ってたところですし願ったり叶ったりですよ~。だから、ここは人助けと思って……ね?」
 そう言って見つめた彼の双眸に、あの頃の伽藍洞じみた空虚は見出せなかった。
 実際、これといって食べたかったメニューがあるわけでもない。それよりも、何よりも――つい先ほどまで過去に思いを馳せていたからだろうか。今日は、他でもないイサンと共に昼食を摂りたいと思ってしまった。単なる口実に過ぎない言葉の真意に察しがついたのか、どこかばつの悪い表情を浮かべるも、やがてイサンはゆっくりと、その口元を緩やかに綻ばせる。
「……では、そなたの言の葉に甘えん」
「ふふ、こちらこそありがとうございます~」
 今この時、この胸が抱いている感情にどのような名称を付けるべきなのか、自分にも分からない。
 けれど――きっと「あの日」から。彼から向けられる控えめな笑顔が、ホンルは不思議と、この上なく好きだった。
畳む

#LCB61

LimbusCompany,