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in the MIRROR
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性癖の煮凝り。

No.3

灯る情に解けてしまえ/ホンイサ
囚人と囚人

 横に薙いだ短剣の鋒が弾かれ、体勢を大きく崩した青年の視界へと映り込んだのは、自身に向けて振り翳される、グロテスクに脈動する肉塊だった。ぎょろりと見開かれた目玉は、目の前にいる獲物を捉えて決して離さない――蛇に睨まれた蛙の気持ちとは、まさにこのような状態を指すのだろうか。恐ろしく冷たい汗が滑り落ちる背中で、何者かが何かを叫んでいるような気がしたけれど、生憎彼の耳には届かなかった。
「イサンさん!」
 不意に、強い力で腕を引かれた青年――イサンの身体がしたたかに打ちつけられる。満足に受け身を取ることも出来ず、衝撃に呻くことも痛みを感じる暇すら与えられず、瞬きを忘れたまま見上げた視界の端で長い黒髪が軽やかに揺れた、刹那。
 柔らかいものが裂け、硬いものが砕ける醜怪な音。同時に撒き散らされた赤く生温かいものが、頬を濡らした。へたり込んだ身体は、影が縫い付けられたかのように動かない。本来であれば自分がそうなるはずだった――けれど、そうはならなかった結果と向き合うことさえ脳が拒んだ。
〈ホンル!〉
 鼓膜を揺さぶるような秒針の刻みは、悲鳴めいた叫びを成していた。
「――あ」
 脳裏を過るのは、自身の名を呼んだ、いつもと異なる同僚の声色。悠久にも似た須臾の間、辛うじて拾い上げた思考が結論へと辿り着いてようやく、虚空を見つめていた瞳は緩慢な動作でこそあったが動くことを許された。目の当たりにした光景に対して「惨状」と呼ぶ他に相応しい言葉が思いつかない。背まで刺し貫かれた傷から止め処なく滴り落ちる血によって、地面が赤々と染められていく。対照的に、か細い吐息と呻きを零す形の良い口唇から、珠の汗を浮かべた白皙からみるみるうちに色味が喪失していく様に、イサンは息を詰まらせた。
「……っイサン、さん……」
 しかし、それでもなおホンルの足が頽れることはなかった。それどころか、渾身の力をもって自身を貫く肉塊を握り締め、異端審問官の動きを封じているではないか。
「……はやく、とどめを」
 咳き込んだ唇から、まるで命が零れ落ちるようにして鮮やかな赤を吐き出しながらも、いつもの微笑を絶やすことはなかった。
「…………っ」
 普段であれば、いついかなる時でも表情を変えることのなかったイサンがとうとう強く眉を顰める。近くに転がっていた得物を掴むと、その後はほとんど無我夢中だった。己を縛りつけていた大地を蹴り、一息に距離を詰める。反射的に振り上げられた左手の釘と、それをいなした短剣の間で火花を散らしながら、そのまま懐へと入り込んだ。間合いを取ろうとしても、まさに「その身をもってして」拘束された状態では、距離を取ることすらままならない。深々と、逆手で突き刺した刃から筋繊維を引き千切る音を響かせながら、両断した腕ごと手負いの同僚を解放すると、そのまま身を翻した勢いを乗せて耳を劈くような奇声を上げる喉元へと短剣を突き立てた。
 彼の――少なくとも彼本来の「人格」からは想像出来ないほど、乱雑に蹴り転がされた異端審問官はくぐもった断末魔を発し、しばらく痙攣を繰り返していたが、やがてぴくりとも動かなくなった。敵が事切れたことを確認したことで、やっと振り返ることの出来たイサンは幾分か足早に歩を進めると、血溜まりに沈んだホンルの上体を血塗れになることも厭わず抱き上げる。
「……ホンル君」
 自ずと震える声で名を呼ぼうとも、彼は応えなかった。すでに呼吸は頼りないほど弱々しく、色彩の異なる宝玉の如き双眸は本来の輝きを失い、焦点も定まらない。これまでに流れた血の量も、心臓まで貫いたであろう傷の深さも、寧ろ即死していないこと自体が奇跡であるほど、致命傷であることは目に見えて明らかだった。
「――管理人」
 まさに今、苦痛に蝕まれているのはホンル本人であるにもかかわらず。
「そなたの時計が動かねばならぬ」
 ――何故、自分の胸までもがこれほど痛みを訴えて止まないのだろう。
 イサンには、疑問を感じずにいられなかった。

   * * *

「……あれ?」
「目覚めたりや?」
 ホンルが目を覚ましたのは、麗らかな木漏れ日が射し込むメフィストフェレスの内部だった。どうやら横向き座席に寝かしつけられていたらしい――宙に放り出されていた足は微かに痺れを覚えてこそいたが――呼吸が乱れていなければ、心臓も規則正しく動いている。手のひらで胸を叩いてみると、先ほどまでぽっかりと空いてしまっていた空洞は、まるでそんなものなど最初からなかったように、見事に塞がっていた。座席の傍らに佇んでいたイサンも自身の目覚めに気付いたらしい。手にしていた書物を閉じ、視線をホンルへと移した。
 起きがけの目で軽く見渡してみたものの、二人以外の人影は見当たらない。話を聞くところによると、他の乗員達は鏡ダンジョンを脱した後、昼食を済ませるために一旦バスを下車しているのだという。そう語ったイサン自身は、蘇生後もしばらく気を失っていたホンルを介抱するため、どうやら自主的にバス内に残ったらしい。
「にわかに立ち上がるはいと体に悪き。今はゆるゆると休みたまえ」
「大丈夫ですよ~。傷もばっちり塞がりましたし」
 いつもの快活な笑顔を浮かべては、勢いをつけて座席から起き上がるホンルの姿に、案じるような眼差しを向けながらも安堵とも取れる吐息を漏らしたイサンの口元はそこはかとなく緩んだのも束の間、すぐに苦しげに引き結ばれる。
「……先刻は、かたじけなし」
「あ~……もしかして、僕が庇ったこと、まだ気にしてます?」
「彼の戦闘、私の生死は重要にはあらざりき」
 彼等「囚人」と呼ばれる存在は、たとえ死の淵に立たされたところでダンテが時を引き戻しさえすれば何度でも甦ることが可能である。しかし、そうとはいえもたらされた苦痛までは記憶からなかったことにすることは出来ない。何より、ホンルの戦闘能力をもってすれば、自分があの場で倒れたところで難なく異端審問官を撃破し得たはずだと、イサン本人は考えているのだろう。事実、二人のどちらが死のうが、先刻の戦闘には何ら支障はなかったに違いない。それゆえに殊更、何故、と疑問を抱いてしまう。何故、耐え難い苦痛を肩代わりしてまで――
「……何故、私を庇いけり?」
 もしかすると彼の癖なのかも知れない。視線を斜めに逸らしたまま、イサンは問う。体感よりも何倍にも長く感じてしまいそうな沈黙が二人の間に訪れた。
「ん~……そうですねぇ……」
 顎に指を添えながら、どう応えたものか思索に耽っていたホンルだったが、しばらくしてその誰よりも端正な顔を楽しげに輝かせたかと思えば、隣の座席をぽんぽんと叩き始めたのだ。そのような同僚の様子に、一瞬思考を停止させたかのように、はたまた鳩が豆鉄砲でも食らったかのように、イサンは目を瞬かせる。
「…………」
「いいからいいから~。どうせなら、お互い座った状態でお話しましょう~?」
 残念ながら、ホンルには一歩も引く気はなかった。有無を言わさぬ言動にそのことを察したのか、知らず知らずのうちに零れ落ちた溜息へ諦念を滲ませ、勧められるがままにイサンの定位置である座席に腰を下ろす。

「えいっ」
 そんな彼の太腿へと狙いを定めて、ホンルの頭部が重力に従うように落とされた。
「――な、」
 さすがに想定外の事態だったのだろう。自分の起こした奇行に対して、普段の冷静沈着な振舞いからは想像がつかないほど、目を白黒させて動揺している同僚が何だかおかしくて、ホンルは耐えきれずにくつりと喉を鳴らした。
「う~ん、それにしても……」
 腿の上で寝返りを打ちながら、続ける。
「寝心地はあまり良くないですね~」
 まあ、細身の男の太腿に心地好さを求める方が見当違いなのだろうけれど。
「も、尤もならむ」
「ふふっ。……でも、ようやくちゃんと僕の方を見てくれました」
 指摘するや否や、居心地の悪そうに泳いだ視線を、両手で頬を挟むことで固定した。
「僕、一度でいいからイサンさんの目をじっくり見てみたかったんですよ~」
 戯けた口調で笑いながら、改めて観察する彼の瞳は、黒曜石や黒瑪瑙かと見紛うほど、とても綺麗な輝きを宿している。それは硬質で、どこか冷たく感じるけれど、目の前にあるものを嘘偽りなくと映す「鏡」を連想させるその輝きを、もうしばらく見つめていたいとすら思えた。
「ホンル君……そろそろ、戯言は止めたまえ」
 自身を映していた黒色が、困惑に揺れ動く。包み込んだままのイサンの頬へと、あえかにでこそあるけれど、ありありと朱の差す様が見て取れた。
「あ~、そう来ます? 僕としては冗談のつもりじゃなかったんですけど」
 少しばかり血色の良くなった頬を軽く抓ってやると、今度は心なしかむっとした表情に変わった。出会った当初こそ何を考えているのか分からない、掴みどころのない雲のような存在だと思っていたけれど、その実存外に分かりやすい人なのだと、内心少しだけ楽しくなってしまったのは秘密にしておこう。
「イサンさん、何かと皆さんを庇っていることが多いでしょう?」
 痛いことは極力御免被りたいが、リンバス・カンパニーに就職して以来、少なくとも自身にとっての死の概念が曖昧になっていることは否定出来なかった。多少の無理をして四肢がもげようと、心臓に鉄釘が穿たれようと、どのような致命傷を受けようとも、管理人さえ生き残っていれば全てが元通りになる。幾度となく巻き戻される命に、死に対する恐怖が徐々に希薄になっていくのが当たり前の日常――それは、他の囚人とて例外ではないのだろう。
 だからこそ、不思議で仕方がなかった。
 イサンが囚人の身代わりとして事切れる瞬間。
 心なしか、安穏にも似た表情を見せたことも。
 そして――時計が巻き戻された瞬間、その瞳に絶望で彩られたかのような暗澹とした光を覗かせていたことも。
「同じことをすれば、イサンさんの気持ちが分かるかな~……なんて思ったんです」
 まあ、結局は分からず仕舞いでしたけど。
 飄々とした同僚の応えに、伏せられたイサンの瞼を縁取る長い睫毛がふるりと震える。そのようなことで、と頭上の彼に憤られるだろうか。いや、心優しい彼のことだ。他者を非難するよりも先に、自分自身が招いたことへの罪悪感に圧し潰されてしまいかねない。どちらにせよ、ホンル自身にはこの同僚の本心までは窺い知れない。
「僕、イサンさんが苦しそうだと思いの外ダメージが入るみたいなんですよ~。なので、今後はもう少し自愛してくださいね?」
 それならば、最後まで自己本位な意見を述べてしまおう。今の自分ならばそれが許されると高を括って、戯れに握り締めたイサンの指先は、氷のように冷たかった。

   * * *

 K社で起きたいざこざが終止符を迎えて以来、ホンルは以前に比べて、イサンと互いに言葉を交わす機会が増えたように感じていた。時にはどちらかの個室に招き、招かれ、凍えた指先へと熱を与えるように、あたたかな茶を肴にして――提供される高級茶葉の数々に、イサンがぎょっとすることはあれど――話に花を咲かせることもしばしばあった。談笑の最中、ほんのささやかな変化ではあったものの、唇に弧を描いて微笑む彼を見るたび、未だにあの空間で演じた「役」に引きずられているのかも知れない――ホンル自身も胸にあたたかなもので満たされていたのは確かだ。
 そんな、忙しくも穏やかだったある日のこと。
「あれ?」
 本日の業務も恙なく終え、ホンルの個室で茶を啜っているイサンは普段と少しばかり雰囲気が違った。ただの気のせいだろうかと首を傾げると、その視線に気付いたのだろう。倣うように小首を傾げながら、幾分丸みの増した黒い瞳が此方を捉える。
「……私の顔に、何か付けりや?」
「う~ん……付いてるというか……」
 ホンルは抱いた「違和感」をしげしげと観察し、吟味した後――隣に座る友人へと寄りかかるようにして、自身の体重を預けた。何の前触れもなく行われた不意打ちに、手にしていた茶器を茶ごと落としてしまう事態は辛くも避けられたが、ホンル本人にとってはさほど高価な代物ではなくとも「あなや……」と焦りを見せるイサンの様子を見るに、どうやら常人にとっては心臓が口から飛び出しかねない暴挙だったらしい。
「ほ、ホンル君……?」
「ん~……何か、いつもよりあたたかいような……というか土臭い?」
「土……」
 茫然とした眼差しが見つめていることも意に介さず、ホンルは続ける。
「でも土というよりは草……いや、花かな? ……う~ん」
 尖らせた唇を隠しもせず、詰め寄る。
「もしかして、僕がいないところで日向ぼっこでもしてたんです?」
 ホンルの問いに、イサンは沈黙を保ったまま――もはやいっそ清々しいほど、図星を衝かれたことだけは一目瞭然である視線を虚空に漂わせていたが、やがて観念したようにぽつぽつと語り始めた。
「……ドンキホーテ嬢が、花を愛づに適せしスポットありと言うものなれば」
「二人で行ったんですか?」
「否」
 イサンが首を横に振る。
「シンクレア君も共に」
「いいなぁ。僕も誘ってくれれば良かったのに」
 同じ座席を割り当てられた彼等が時折チェスをするほど仲が良いことは知っていたが、心に抱いたのはほんの少しの疎外感。頬を膨らませるホンルの様子に、しばらくそれを眺めていたイサンは目を屡叩かせると、思わず噴出しながら、ホンルの頭に手を置いた。まるで不貞腐れる子をあやすように髪を撫で梳く指先がこそばゆく、自ずと羞恥の念が込み上げるのに、生憎それが存外に心地好くて、どうにも拒めずにいる。
「……次は、必ずや」
「出来ることなら、今度は二人だけの秘密でお願いしますね~」
「無論、心得たり」
 花の綻ぶような微笑に釣られるように自身も相好を崩しながら、ホンルはイサンの太腿へと頭を預ける。同性である彼の腿は相変わらず硬くて貧相で、決して快適なものではなかったものの、躊躇いがちに頬を撫でた指先も含めて、あの時よりも確かなぬくもりを感じられた。
畳む

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