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性癖の煮凝り。

No.5

それは恋とは呼べぬ何か/ホンイサ
黒雲会と剣契

 一人目、不用心に近付いてきたから適当に斬り払った。
 二人目、背後から不意打ちを狙ったらしい男の胸に、逆手持ちの鋒を突き立てた。
 三人目――は、さてどうしたんだったか。同じ格好をした輩ばかりを斬り捨てたせいで、もはや記憶にすら残っていない。
 ようやっと訪れた心地好い静寂。つい先刻、刃にこびりついたばかりの血を振り払いながら、仰ぎ見た月光は墨を流したような雲によって覆い隠される。残念、もう少しだけ月を望んでいたかったのだけれど。
「何だ、もう片付けたのか」
「この程度の相手に苦戦なんてしないよ」
 素気なく返した青年の周囲には、無造作に転がる屍山血河。噛み殺していたあくびを堪らず一つ零し、袈裟斬りにされた傷から未だ生温い血を吐き続ける肢体を跨ぎながら――忌々しげに虚空を睨めつける物言わぬ瞳など気にも留めず、青年は靴が汚れぬようにして自身が作り出した「地獄」から踵を返した。都市の人間であれ、よほど死体に免疫がなければ一目で卒倒しかねない惨状も、もうしばらくすれば裏路地に訪れた「夜」が全てをなかったことにしてくれるだろう。
 これは裏路地では日常茶飯事の、単なる縄張り争いだ。黒雲会が保護費を徴収している管轄で、これはいつものようにちょっかいをかけてきた剣契(コムゲ)の連中と少し遊んでやれ、なんて命令が若頭から下ったのは今から少し前のこと。
 斬ること自体は好きだ。しかし、他人に命じられるがまま、決められた相手をただ斬るのは――どうにも、面白くない。
 何より、弱い者いじめほどつまらないものはないだろう。
「他の子達は?」
「あ? まだお遊戯会の最中じゃねえか……っておい、ホンル。どこに行く気だ?」
「散歩」
 冷めていく心とは裏腹に、中途半端に燻ったままの(ほとぼ)りを冷ますにせよ、再燃させるにせよ、いずれにしてもこのまま持て余しておくには決して快いものでないことは確かだ。一言を残してこの場から立ち去ろうとする青年を見て――口の利き方はいつまで経っても直らないが、彼は上から与えられた命令に対して忠実だった――あわよくば「遊び」の応援ぐらいにはなるだろう。そのような考えが、ホンルという若衆を知る若頭にはあったのかも知れない。
「……掃除屋が湧いてくるまでには戻ってこいよ」
 そう言って、ジャケットをなびかせる背を見送ったのだった。

 月明かりを失い、足を踏み入れれば融けて紛れてしまいそうな夜闇に包まれた路地を、僅かなネオンと街灯を頼りに進んでいく。普段であれば多くの人が行き来する雑多な通りなのだが、廓寥(かくりょう)として人影が見当たらないのは至極当然と言える。都市に生きていながら「裏路地の夜」が迫るこのような時間に外を出歩いている人間がいたとしたら、それはどうしようのない死にたがりか、はたまた救いようのない馬鹿のどちらかだ。とはいえ、何事にも煩わされることなく一人、行き場のない憤懣(ふんまん)を紛らわせるには都合の良い時間であることは確かだった。
 雑魚ばかりの相手にはもう飽きた。
 どうせ斬らなければならないのなら、もっと心躍るような相手が良い。
 そういえば、剣契の一握りには「殺手」と呼ばれる存在がいることを、以前小耳に挟んだことがあった。かれこれ剣契と殺り合うことようになってから随分経つというのに、未だ黒雲会内部で殺手に関する情報が噂程度にしか流布されていないのは、単純に相対する機会に恵まれなかったがゆえか。それとも――たとえ刃を交えていたとして、生きて帰る者自体がいなかったがゆえか。
 必要以上に人々を殺めることに悦びを見出すとされる、剣の鬼。
 はたして、彼等はどれほど強いのだろうか。
 再びちりちりと熾り始めた熱を誤魔化すように、手の中にある端末を見下ろす。現在の時刻は午前二時四八分。流石に、他の若衆は遊び疲れた頃だろう。かく言う自分も、そろそろ撤退を考慮しなければならない時間であることは確かなのだが。
「…………」
 ――どうやら、酔狂の度が越えた愚か者は自分だけではないらしい。
 全ての生命が息を潜める未明だからこそ、耳を澄ませなければ聞こえたかどうかすら怪しいほど、微かに響いた剣戟の音は、この路地裏の奥から聞こえてくるようだ。
 別に、自分が首を突っ込まなければならない謂れはどこにもない。ごみとして甘んじて掃除されるつもりだって、微塵もない。ここは触れずに無視を決め込むのが無難な選択である、が。それなのに、彼は一向にしてその暗闇から目を離そうとしなかった。頬を掠めていく、ひりつくような風が視線を離すことを許さない――否、本能的に視線を逸らすことを恐れている。固唾を飲み、導かれるがまま歩を進めるホンルの胸中には、ある種の確信めいた予感が芽生えていた。
 この先で、運命と呼ぶべき出会いに巡り合えるのではないか、と。
 頑なに月を掩蔽していた不定の雲がゆっくりと流れていく。鼻孔を抜ける、噎せ返るような鉄錆の匂いと、それに混じる仄甘い花の香。高揚する心に急かされ、知らず知らずのうちに速まる歩調で隘路を抜けた先の区画で目の当たりにしたのは――

 月下、茫洋と照らし出された月影が、組員を今まさに斬り伏せた光景だった。
 うっとりと目を奪われるほど流麗な太刀筋で、まるで剣舞の一つでも披露するかのように、身に着けた黒衣を風に遊ばせるその影は、笠を目深に被っているせいで表情どころか顔立ちすら窺い知ることは出来ない。
「――そなたも、黒き雲に組せし童なりや?」
 紡がれた気怠げな低音。僅かに押し上げられた笠の隙間から覗く暗い瞳が此方を一瞥した、刹那。
 冴え冴えとした刃が頸動脈へと添えられたような心地だった。少しでも気を逸らしてしまえば即座に首を落とされかねない緘黙の殺気が全身を駆け巡り、脊髄まで冷や水を流し込まれたような戦慄で肌膚を粟立たせながらも、瞬きも忘れて魅入るホンル自身は未だに気付いていない。
 知らず知らずのうち、彼の口角が愉悦で上がっていたことを。
 彼の心が、興奮に打ち震えていたことを。
 あの男と踊りたい。
 ――殺し合いたい。
 これまでに感じたことがない、快感にも似た甘い痺れが脳を強く揺さぶる。自制の箍などとっくに外れ、本能のままに伸ばした指先が得物の鯉口を切ろうとした。
「殺手」
 だが、抜刀するまでには至らなかった――外野から齎された声に、それは妨げられたから。殺手と呼ばれた男の意識が背後の暗がりに逸れ、己にのみ向けられていたはずの殺気が凪いでいく。
「じきに掃除屋がやって来る。撤退だ」
 凛々とした女の声は、有無を言わさぬ響きを以て告げる。
「……いと侘し」
 男はまるで嘆くように小さく吐息を零すと、夥しい赤色で濡れた白刃を振い、鞘に納めた。眼前で繰り広げられるやりとりを唖然と眺める視線へ一切の興味を示すことなく、身を翻した影はそのまま裏路地の闇に融け込むようにして消えていく。徐々に遠退いていく足音はやがて聞こえなくなると、再び死んだような静寂が訪れた。
「…………え~っ?」
 ただ一人、その場に取り残されたホンルは気の抜けた声を上げながら、落胆に心の底から肩を落とすしかなかった。

   * * *

 黒雲会と剣契、二つの組織による抗争が繰り広げられた夜から、幾許かの月日が過ぎ去ろうとしていたにもかかわらず、自身の心に灯されてしまった炎は消えることなく、今もなお深い余韻を残し続けている。腕利きの剣契が現れたとされる場所は何度も訪れたし、時には情報屋に高い金を握らせて、殺手の情報を集めさせたことだってある。しかし、よもやあれは月が見せた幻なのではないかと勘繰ってしまうほど、裏路地での邂逅以来、あの殺手の姿を見出すことはついぞなかった。
 たとえあれが退屈に押し殺されていた己が見せた、都合の良い幻覚であったとして――あの日、あのまま斬りつけていれば、彼はその眼差しを再び自分に向けてくれたのだろうか。光を映さぬ漆黒の双眸に剣気を閃かせながら、自分だけを見つめて、自分のためだけに刃を振ってくれたのだろうか。そうなれば何と、幸福なことだったろう。後悔ばかりが胸裡を満たしては、深く嘆息を吐き出す。
 会いたいと、心が望んでいる。
 触れてみたいと、心が叫んでいる。
 他の誰かを斬る時でさえ、これが「彼」だったならばと考えずにはいられない。
 これでは、まるで恋煩いでもしているみたいじゃないか。そのように揶揄する若頭の戯言にさえ、今は悪態を吐く気分にはなれなかった。
 そうした態度が余計傷心であると認識されてしまったのかも知れない。保護費の徴収という名目で、半ば強制的に裏路地の繁華街へと連れ出された。本人曰く「仕事に精を出していれば嫌なことも忘れられるだろう」ということらしい。余計なお世話である――隣で絶え間なく喋っている若頭の言葉を適当に聞き流しながら、黄昏の喧騒を歩く。行き交う人々にほんの少しだけ注意を向けると、夕食に何を食べようか楽しそうに話し合っている者もいれば、絶えることのない裏路地の抗争について、口々に噂する物好きも少なくない。随分と呑気なものだと内心毒吐く。正直、さっさと用事を終わらせて帰りたい気持ちでいっぱいだった。
「――かの織物問屋、保護費の徴収は如何なるらむ?」
「すでに組員を数名向かわせている」
「何事もなく、応じてくれると良いんですが……」
 ああ、とうとう幻聴まで聞こえ始めてしまったのか。鼓膜が捉えた音のうち、二つは聞き覚えのある――しかも、一つは探し求めて止まなかったそれと寸分違わぬ声色だった。嘆きにも似た溜息を吐き、ふと横を通り過ぎようとした三つの影を、ホンルは何気なく横目で眺める。前方のみを見据える射干玉色の眼。呼吸が止まる。似ている、なんて言葉だけでは済まされなかった。まるで夜闇が人の形を取ったかのような艶やかな黒髪を、外套を風に揺らめかせる後ろ姿を、食い入るように見つめる。
 笠など被っていなくとも、口元を隠していなくとも、それが誰か一目で分かる。
「――みつけた」
 呟いたホンルが腰に提げた刀へと手を伸ばし、大地を蹴ったのはほぼ同時だった。
 抜き放たれた剣閃。其処彼処から上がる虚空を劈く悲鳴。拓かれた、彼に続く道。
 隠しきれぬ殺気を悟られたか、背後から叩きつけた刃は、振り向き際に翳された鞘によって阻まれる――初めて彼に触れられた。
 微かに吃驚の色を帯びた双眸が向けられる――彼が、自分だけを見つめてくれた。
 狂喜に舞い上がるまま、間合いを取るべく一歩退いた男へと振り落とした力任せの剣戟に、目の前でちかちかと火花が明滅する。甲高い金属音を響かせながら、今度は鍔で受け止められた。刀越しに伝う衝撃で腕が痺れそうだ。抜け落ちぬよう柄を握り直し、間髪入れずに再び斬りこんだ一撃も彼の肉を裂くことこそ叶わなかったが――
「……!」
 鍔迫り合い。口付けすら届きそうな距離で見つめ合った男が眉根を寄せ、その能面のような顔に初めて感情を滲ませた姿に、激しい鼓動の高鳴りを感じる。何度か斬りつけたことで分かったことだが、どうやら彼は力で捩じ伏せるよりも、その洗練とした技巧で正確無比に急所を狙う方が得手らしい。前者に関しては、強化施術を受けた此方に分がある。受け止めた刀を膂力で押し返し、僅かに体勢を崩した腹部に目がけて、鋭い蹴打を叩きつける。加減はしたつもりが、存外に遠くまで飛ばされてしまった。肋骨まで折れてなければ良いのだが。
「イサンさん……!」
 取るに足らない騒音が響く中で、不意に何者かの上げた叫びが耳に届いた。なるほど、彼はイサンというのか――忘れてしまわぬよう頭の片隅に名を刻みながら、店先の壁へと打ちつけられた男を見下ろす。もたらされた苦痛に咳き込むも、なおも手を伸ばそうとした先に転がっている彼の得物を足蹴で遠ざけ、掴み上げた胸倉の拘束を解くことなく、頽れたイサンを堅く冷たい壁に押しつけた。
「ぐ、……っ」
 足元には褥の如く広がる外套。手にしていた刀をぞんざいに突き立て、その外套ごと彼を地面に縫い留めてやる。ようやく空いた手で、そうっと触れた頬から伝わる人肌の体温。震え。あの日に見上げた月光を映したような、滑らかな皮膚に刻まれた無数の傷跡を指先で撫で――そうして。
 自由を奪う形で跨った彼の、呻吟を漏らした薄い口唇に、己のそれを重ねた。
「ん、んぅ……っ」
 唖然と、薄く開かれたままの口蓋を食み、舌先でなぞる。擽るように撫で上げた歯列をこじ開け、やっとのこと侵入した舌が彼のそれに触れると、いじらしく逃げようとする熱を容赦なく絡め取った。互いの唾液が混ざり合うたび、重ねた唇の隙間から漏れる水音に、くぐもった艶めく呻きに、ちりちりと首筋が総毛立つのを感じる。本来、唾液は無味であるはずだ。しかし、何故彼のものはこうも甘く感じるのだろう。
 相手の呼吸すら奪う、噛みつくような口付け。鼻で息をしていない時点で薄々勘付いてはいたが、舌遣いの拙さに意外性を見出し、思いの外初心な抵抗を示す彼にある種の神聖性を突き崩すような背徳感を覚えつつ、間近にある頬がほのかに上気していく様にただただ見入っていた。惚けていたと言われれば、反論の余地はない。
 次の瞬間、硬いものが食い込む衝撃。次いで、咥内に広がる鉄の味。焼かれるような疼きが痛みであり、舌を噛まれたのだと頭が認識するよりも先にイサンの肩を引き剥がしていた。組み敷かれたまま、青白い皮膚を紅潮させて荒い呼吸を繰り返していた彼の口から吐き捨てられた、鮮紅に染まる唾を見て――己の一部たる血肉が、彼を形作る一部になれたかも知れないのに。
 そう、ほんの一瞬だけ「勿体ない」と思ってしまった。
「う~ん……壁ドンしてから唇を奪ってしまえば、大概の人は骨抜きになるものだって聞いてたんだけどなぁ。まあ、そういうものだよね」
 やはりおじさんの言うことは当てにならないものだと、飄々とした調子で肩を竦めたけれど、己の行動自体には後悔はしていない。
 それは何故か。こんなこと、決まっている。
「……そなたは誰そ?」
 この身を刺し貫くような底冷えする殺気と共に、イサンの――殺手の眼差しが自分自身に対してのみ、向けられたのだから。
 何人にも侵すことの出来ない黒い瞳は氷のように冷ややかであるのに、その奥底では炎の如き激情が爛々とした昏い輝きを放っている。
 その輝きが自身を映すだけで、狂おしいほどの炎に焼かれるようだった。
「僕ですか? ……僕はホンルっていいます」
 心から慕う相手の前では「紳士的」に振舞うべきだ。そのためだったら、普段は使う理由を見出せない敬語だって喜んで使おう。
 強く握り込まれたままの手指を解きほぐすように、己の指で絡め取りながら。
 どこかうっそりとした美しい微笑を湛えたホンルは、言葉を続ける。

「イサンさん――あなたに一目惚れした男です」
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