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in the MIRROR
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性癖の煮凝り。

No.6

アイオライト/イサファウ
囚人と整理要員

 その異形は、辛うじて人の形を保っていた。隻腕に握られた短剣が文字通り虚空を捉えると、まるで紙を裂くようにして易々と暴かれた、妖しく光る空間へと誘われるかのように落ちていく。
 空間を裂く技術――それはある翼がかつて所持していた、現在はW社が特許を購入した特異点のひとつ。この技術を用いることによって、W社はいかに遠い場所であっても短時間で目的地に到達することが出来る列車を作り上げるに至った。
 だが、そのような「文明の利器」とも呼ぶべき発明には、身の毛もよだつような悍ましい実情が隠されていることを、ファウストは知っている。
 刹那、仰ぎ見た上空が音を立てて横一文字に裂けた。片翼めいた背の触手を広げ、血に塗れたコートをはためかせながら、軽やかに宙に身を翻した青年。彼の繰る刃は、剥き出しになった組織に侵食された瞳には一切の光が届かないであろうにもかかわらず、正確無比に敵の心臓を穿ち抜いた。
 血振りした短剣から纏っていたはずの茫洋とした光は徐々に失われ、夥しい赤色を滲ませた濃紺の装いは漆黒に、絡みついていた組織は千々に(ほつ)れて消えていく。ちぎれていたはずの左手も、それが当たり前であるように、綺麗に元通りになっていることにだってもはや今となっては驚かない。
 そこにはいつもと変わらない、囚人としてのイサンが短剣をホルスターに納めていた。
 ――W社の清掃要員としてのファウストにとっては、何も知らない「イサン」が。

〈よし。何とかみんな生き残れたね〉
 すでに動くことをやめた亡骸を避けるようにして、管理人は戦闘を終えたばかりの囚人達に歩み寄り、労いの言葉を掛けていく。
 鏡ダンジョンに足を踏み入れ、そろそろ第四階層を踏破しようとしていた。最下層へと近付くにつれ、現れる敵性固体の練度は高まり続け、もはやこれまでに集めた資源を頼りにE.G.Oの発動なしでは円滑な進行は儘ならずにいる。
「ダンテ。提案があります」
〈ファウスト?〉
 しかしE.G.Oの発動は、使用者に対して著しい精神の摩耗を伴う。幻想体の力は強大であるがゆえに受けた傷こそ最低限に収まってはいるものの、囚人達の疲労は着実に蓄積し、個々の自我を蝕み始めていた。
「この先に自動販売機が設置されているようです。体力および精神力の回復を推奨します」
〈そうだね。あの一帯は敵も出ないし……ついでに休憩も挟もうか〉
 何よりも――知らず知らず、鴉羽色の囚人に向けていた視線を管理人に戻す。管理人自身も同意見だったらしく、快く首肯すると、安堵と歓喜の声を上げて我先にと進み始める囚人に並ぶようにして足を踏み出した。
 並び歩く背中を見つめていたのは、何もファウストだけではない。数歩離れた場所で、自身と同じ方角を静かに見遣るイサンの白皙には、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。
 その顔色は、各囚人が思い思いの休憩時間を過ごし始めた後でも変わることはなかった。
「……イサンさん、大丈夫ですか?」
 無理もないことだと、ファウストは思う。
W社がひた隠しにする空間転移技術の正体。
 ワープ列車は、本当にワープをしているわけではない。T社の提供する技術によって、どれほどの年月を走ったところで、あたかも時間が経過していないように見せかけているだけに過ぎない。
 永遠とすら錯覚してしまいそうな時間、異空間を彷徨わなければならない乗客に待っているのは、たとえ正気を失い、時に自ら命を断ち、時に殺し合い、ただの物言わぬ肉塊になり果てようと、死ぬことは許されない無間地獄。
 事前に収集していたデータをもとに人体を復元するため、出来上がった地獄を仕分け、整理し、席に戻す――その工程こそ、我々清掃要員に課せられた「仕事」だった。
 だからこそ、次元裂きと銘打たれたE.G.Oを用いるたび、次元の狭間に落ちたイサンが、あの無限に続くとも知らぬ「地獄」を体験させられているであろうことは、容易に想像出来る。
 唯一、此方側に戻ってくる手立てがあることだけは、彼にとって幸いだろう。
 ――「彼」が戻ってこなかったことを思い出すたび、そう思ってしまう。
「どうぞ」
「……かたじけなし」
 差し入れられた缶を一瞥してようやく、イサンの注意は此方に向けられる。自動販売機から購入されたそれは回復効果があるようで、少しばかり落ち着きを取り戻したのか、小さく吐息を零した彼の隣へと何とはなしに腰を下ろした。
 耳を傾けると、鼓膜が拾ってくるのは囚人達の談笑。そして自動販売機から流れる微かな振動音。
 互いに口数は多い方ではない上、特に話したい事柄も見つからず、二人の間にはただただ沈黙が流れていたけれど。
「……イサンさん」
 単なる好奇心ゆえか。はたまた、缶を渡す際に皮膚に触れたイサンの指先が、あまりにも冷えていたがゆえか。
「あの空間は――あなたにとって、どのように映りましたか?」
 思わず口を衝いて出た問いかけに、イサンは黒曜石めいた目を丸く瞬かせ、ファウストを見る。
 自分らしからぬ失言だった。
 本来、ワープ列車の真実はW社にとって秘匿されなければならない極秘事項だ。万が一でも白日の下に晒されようものならば、会社の権威は失墜し、折れた翼が地に落ちることは免れない。そのような真相を一端とはいえ、少なくともW社とは無関係であるイサンが有しているという事実は、ファウストにとって――少なくとも、現在の人格を宿した「ファウスト」にとっては、だが――あまり好ましいことではない。
 だからこそ、わざわざ掘り返すべき話ではなかった。
 ――それでも、彼があの空間をどのように思い、どのように考えたのか。彼だけの所感を聞きたいのだと、心のどこかで思ってしまった。
「…………ふむ、」
 しばしの黙考の末。
「あえて言い現わさば……」イサンの指が、缶の縁をなぞる。「――色々が恍惚で、端からえ記憶させぬ道かな」
「あのような地獄に遭ってなお、辛くないと?」
「ファウスト嬢。我が身は万能にあらざれば、目に映れる物事全て、今めかしく思うべきなり」
 ゆえに、よき旅路なりき――そう結ぶと、再び両手に包み込んだ缶の中身を啜った。
 ファウストにとって、彼の言葉は簡単に信じられるものではなかった。如何に知的好奇心を掻き立てるような魅力に溢れていたとして、途方もない時間と絶望を前にしては、全てが色褪せていくだろうに。
 一人でいる時間を決して苦痛と思ったことはないけれど、永遠とも呼べる孤独を想像するだけで、気が狂いそうになる。
 仮に、この悪い夢から無事に醒めたとして――その時、果たして何人が自分のことを覚えていてくれるだろう。
「……ああ、されど」
 不意に、何かを思い出したように零された声色。ふいと視線を上げたファウストの肩へとかかった重みに、何が起きたか分からず真白になった頭で隣を見つめる。
「イサンさん?」
「この熱ばかりは、恋しきものなり」
 視界に入り込んだのは、睫毛の長い眼瞼を微睡ませながら、しなだれるようにして己に凭れかかるイサンの姿だった。もしや飲料に変なものでも入っていただろうか。覗き込むと、胸は微かに上下している。恐らく、単に睡魔が訪れただけなのだろう。
「……起こしてさしあげますから、仮眠を取られた方が良いかと」
 安堵を溜息に紛らせ、応える。緩慢な動作で頷いた青年は、同じく緩やかにその瞼を閉ざした。呑気に寝息を立てている傍らの顔を観察すると、倣うようにして彼の身体に寄りかかる。
 ファウスト自身、イサンの全てを知っているわけではなかった。
 ここにいる彼に関して言えば、別段親しいわけでもない。
 次元の狭間に落ちてしまった「彼」も、イサンと同じことを考えていたのだろうか。それは、分からない。
 彼は「彼」ではない。頭ではきちんと理解している。
 けれど――それでも。

 もし彼がこの先、不慮の事故に遭ったとして。
 彼がいた事実が公から抹消されたとしても。
 せめて、自分だけは記憶していよう。そう、心に刻んで。
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