その睫毛に幸いばかりが降り積もりますように/ホンイサ 囚人と囚人 続きを読む 太陽がちょうど真南に到達する頃、メフィストフェレスが停車したのは、喧騒から一歩離れた雑木林の小路だった。道なりにもうしばらく進めば、最寄りの裏路地で適当な店に入って昼食と相成っただろうが、肝心の運転手の言によると「カロンはおなかが空いた。だから、これから休憩時間」とのことで、ここから梃子でも動くつもりはないらしい。こうなってしまっては、実質的な決定権が案内人ではなく彼女にある以上、その決定を覆すことで躍起になるよりも大人しく食料の調達に赴いた方がずっと楽だ。幸い、今回の当番がホンルとグレゴールだったおかげで、口論へと発展する前にどうにか場を収めることが出来た。 全員から確認したリクエストを紙に書き留め、与えられた資金の範囲内で買い出しを行う。他の囚人にとっては退屈で面倒この上ない作業であったとして、まるで「おつかい」のようなそれが、ホンルにとっては新鮮で楽しく思えた。ささやかな冒険に充足した満足感を得たまま、何事もなくバスへの帰路に就く。思い思いに休憩時間を過ごしていた囚人達に対して、自分の手元にある食料を滞りなく配り終えたところで、 「おーい、ホンルさん」 同じく自身の作業を終えたばかりであろうグレゴールの声がして、顔を上げる――いや、終えたにしては些か困惑の色を滲ませ、無精髭の生えた顎を何度も擦りながらバスに乗り込んでくる同僚の様子に、首を傾げながら近くに寄ると、彼が浮かべていた表情の原因が何なのか、図らずも見えてきた。 グレゴールが抱える紙袋に残っていたのは、サンドイッチとコーヒー。自分の記憶が正しければ、これはどちらもイサンが頼んだはずのものだ。 「一応、バスの周辺はくまなく見て回ったんだが、どうにも見当たらなくてな……」 その調子じゃ、あんたも見かけてなさそうだな。丸くした両の目を瞬かせているホンルの様子に察しがついたのだろう。煙草を咥えた唇の隙間から、紫煙混じりの溜息を器用に吐き出すグレゴールとは対照的に、すでに見当がついているのか、あっけらかんとした口調を崩さずにホンルは続けた。 「あ~……ひょっとしたら、林の中に入っちゃったのかも?」 彼は皆の輪に入り、賑やかな語らいを楽しむタイプではあったけれど、それ以上に草花や星を愛でながら、自然の織りなす静寂に身を委ねることを好むような人物だった。そういえばつい先日、申請の受理された書物が一冊支給されたのだと話していたことを思い出す。いつもはバスの定位置で本の世界に入り浸っている彼だけれど、窓辺から射し込む木漏れ日の麗らかさに、惹き寄せられるものがあったのかも知れない。 「ほら、今日は陽射しも心地好くて、読書にも日光浴にももってこいですし~」 「そんなじいさんじゃあるまいし……」 一拍の沈黙。 「……いやまぁ、でもイサンさんだからな」 思わず言い淀んでしまったグレゴールの反応も無理はなかった。癖の強い囚人の中では比較的良識があり、模範的で扱いやすい部類に入る彼だが、時折その天性と呼ぶべきマイペースぶりを遺憾なく発揮し、想像だにしない行動力を披露することで周囲に豆鉄砲でも浴びた鳩のような顔をさせる――それが己の知るイサンという男である。 「あは、よければ僕の方で渡しておきますよ~」 「あてはあるのか?」 「まあ大体の、ですけど~」 ついと視線を彼の座席――その後ろにある窓、さらにその先に広がる青々とした緑へと向ける。彼ならば万が一でも自身が探される身になった場合を想定して、皆の声がすぐ聞こえるように、そして皆がすぐ自分を見つけられるように、それほど奥まった場所までは足を運んでいないはずだ。 足を踏み入れた雑木林は心地好い静謐を湛えていて、耳を澄ませずとも、楽しげな小鳥の囀りや風に揺れて擦れ合う木々のささめきで満たされていた。 都市の真只中であれば、まっさきに掻き消されかねないくらい幽けき音――ホンルはそこに、知らず知らずのうちに口遊んでいた自身の鼻歌を添えながら、ほとんど人の手が加えられていない道なき道へと歩みを進めていく。捜索と呼ぶにはあまりに短い時間だったけれど、さほど歩かずして休憩するにはちょうど良い開けた場所も―― 「……あらら」 ――あどけない寝顔を無防備に晒している尋ね人の姿も、無事に見つけることが出来た。肩にかけていた外套が汚れることも厭わず、草花の生い茂る地面に寝転がったまま――神経質そうに見せかけて、割とすぼらなところがある――閉じた本を抱いた胸元を穏やかに上下させるイサンの隣に腰かける。もしかすると、ここから見える空でも仰ぎ見ていたのだろうか。そんなことを考えながら、膝を抱えるようにして晴れ渡る蒼穹を気ままに流れゆく雲をしばらく眺めた。 不意に、雲とは異なる影が視界を横切る。落ち葉でも飛んできたのだろうかと思いきや、それにしては風に飛ばされたというよりも舞っているに近いそれを視線でゆるりと追ってみると、その影の正体が一羽の蝶であるとようやく気付く。小さな翅を羽ばたかせる白いそれは伸びやかに降下を続け、そして。 まるでそれは羽休めでもするかのように、イサンの顔――閉じていた眼瞼を縁取る睫毛に舞い降り、そして留まった。 幻想物語でも見せられているかのような光景に、ぱちぱちと瞬きを繰り返したまま見つめていた双眸を、蝶が飛んでいかぬよう細心の注意を払いながらそろりと彼の顔へと近付けてみる。こうして間近で観察すると、目元に刻まれていたくまが以前に比べて心なしか薄くなってきたような気がすることだったり、上向いた睫毛が存外に長いことだったり、新たな発見がいくつかあった。何よりも、彼が健やかにある事実を喜ばしく感じるのは、以前演じたことのある「男」の影響によるものか。否、少なくともそれだけではないことを、今のホンルは理解している。 こうも幸せそうな姿を晒されてしまっては、今すぐ起こしてしまうというのもどうにも気が引ける。幸い、昼食を摂る時間を加味しても、休憩が終わるまでにはもうしばらくの猶予が残されている。しかし、ここで待つことにするとして、イサンが目を覚ます――もしくは目を覚まさなければならない時間になるまでの間、どうやって暇を潰したものか。このままのんびり日向ぼっこと洒落込むか、イサンの抱いている本をちょっとだけ拝借するか、それとも――落とした視線、膝上に置いた紙袋から自身の昼食を取り出そうとして止める。 囚人になって初めて体験した「空腹」という感覚には未だに慣れないものの、空になった臓腑が満たされるあの瞬間の、得も言われぬ多幸感を知ってしまった。 家にいた――家族と食卓を囲っていた頃には感じられなかった、共にありたいと思える誰かと食事をする幸福感を、覚えてしまった。 だから、もう少しだけ我慢していよう。 不意に、彼の顔に降りかかろうとした落ち葉を慌てて手で遮る。起こしてしまわなかったろうかと恐る恐る覗き込むも、目を開けるどころか睫毛を陣取っている蝶すら飛び去る素振りを見せないことに、ほっと胸を撫で下ろした。 指先に摘まんだ一枚の葉をいっとき弄んだ後、手放したそれが風に流れていく様を見送って――好奇心の赴くまま、彼を真似るように柔らかな緑の絨毯へと身を委ねてみた。噎せ返るような土と新緑の匂いに包まれる中、再び午睡に耽るイサンの顔を眺める。寝息を立てる口元がほんの僅かにだけ緩んでいる様子に相好を崩しながら。 彼が見ているであろう夢の世界が、せめて優しいものでありますように。 ささやかな祈りを、白皙の頬に触れた指先へと乗せた。 畳む #LCB61 2024.7.10(Wed) 22:46:52 LimbusCompany,文 edit
囚人と囚人
太陽がちょうど真南に到達する頃、メフィストフェレスが停車したのは、喧騒から一歩離れた雑木林の小路だった。道なりにもうしばらく進めば、最寄りの裏路地で適当な店に入って昼食と相成っただろうが、肝心の運転手の言によると「カロンはおなかが空いた。だから、これから休憩時間」とのことで、ここから梃子でも動くつもりはないらしい。こうなってしまっては、実質的な決定権が案内人ではなく彼女にある以上、その決定を覆すことで躍起になるよりも大人しく食料の調達に赴いた方がずっと楽だ。幸い、今回の当番がホンルとグレゴールだったおかげで、口論へと発展する前にどうにか場を収めることが出来た。
全員から確認したリクエストを紙に書き留め、与えられた資金の範囲内で買い出しを行う。他の囚人にとっては退屈で面倒この上ない作業であったとして、まるで「おつかい」のようなそれが、ホンルにとっては新鮮で楽しく思えた。ささやかな冒険に充足した満足感を得たまま、何事もなくバスへの帰路に就く。思い思いに休憩時間を過ごしていた囚人達に対して、自分の手元にある食料を滞りなく配り終えたところで、
「おーい、ホンルさん」
同じく自身の作業を終えたばかりであろうグレゴールの声がして、顔を上げる――いや、終えたにしては些か困惑の色を滲ませ、無精髭の生えた顎を何度も擦りながらバスに乗り込んでくる同僚の様子に、首を傾げながら近くに寄ると、彼が浮かべていた表情の原因が何なのか、図らずも見えてきた。
グレゴールが抱える紙袋に残っていたのは、サンドイッチとコーヒー。自分の記憶が正しければ、これはどちらもイサンが頼んだはずのものだ。
「一応、バスの周辺はくまなく見て回ったんだが、どうにも見当たらなくてな……」
その調子じゃ、あんたも見かけてなさそうだな。丸くした両の目を瞬かせているホンルの様子に察しがついたのだろう。煙草を咥えた唇の隙間から、紫煙混じりの溜息を器用に吐き出すグレゴールとは対照的に、すでに見当がついているのか、あっけらかんとした口調を崩さずにホンルは続けた。
「あ~……ひょっとしたら、林の中に入っちゃったのかも?」
彼は皆の輪に入り、賑やかな語らいを楽しむタイプではあったけれど、それ以上に草花や星を愛でながら、自然の織りなす静寂に身を委ねることを好むような人物だった。そういえばつい先日、申請の受理された書物が一冊支給されたのだと話していたことを思い出す。いつもはバスの定位置で本の世界に入り浸っている彼だけれど、窓辺から射し込む木漏れ日の麗らかさに、惹き寄せられるものがあったのかも知れない。
「ほら、今日は陽射しも心地好くて、読書にも日光浴にももってこいですし~」
「そんなじいさんじゃあるまいし……」
一拍の沈黙。
「……いやまぁ、でもイサンさんだからな」
思わず言い淀んでしまったグレゴールの反応も無理はなかった。癖の強い囚人の中では比較的良識があり、模範的で扱いやすい部類に入る彼だが、時折その天性と呼ぶべきマイペースぶりを遺憾なく発揮し、想像だにしない行動力を披露することで周囲に豆鉄砲でも浴びた鳩のような顔をさせる――それが己の知るイサンという男である。
「あは、よければ僕の方で渡しておきますよ~」
「あてはあるのか?」
「まあ大体の、ですけど~」
ついと視線を彼の座席――その後ろにある窓、さらにその先に広がる青々とした緑へと向ける。彼ならば万が一でも自身が探される身になった場合を想定して、皆の声がすぐ聞こえるように、そして皆がすぐ自分を見つけられるように、それほど奥まった場所までは足を運んでいないはずだ。
足を踏み入れた雑木林は心地好い静謐を湛えていて、耳を澄ませずとも、楽しげな小鳥の囀りや風に揺れて擦れ合う木々のささめきで満たされていた。
都市の真只中であれば、まっさきに掻き消されかねないくらい幽けき音――ホンルはそこに、知らず知らずのうちに口遊んでいた自身の鼻歌を添えながら、ほとんど人の手が加えられていない道なき道へと歩みを進めていく。捜索と呼ぶにはあまりに短い時間だったけれど、さほど歩かずして休憩するにはちょうど良い開けた場所も――
「……あらら」
――あどけない寝顔を無防備に晒している尋ね人の姿も、無事に見つけることが出来た。肩にかけていた外套が汚れることも厭わず、草花の生い茂る地面に寝転がったまま――神経質そうに見せかけて、割とすぼらなところがある――閉じた本を抱いた胸元を穏やかに上下させるイサンの隣に腰かける。もしかすると、ここから見える空でも仰ぎ見ていたのだろうか。そんなことを考えながら、膝を抱えるようにして晴れ渡る蒼穹を気ままに流れゆく雲をしばらく眺めた。
不意に、雲とは異なる影が視界を横切る。落ち葉でも飛んできたのだろうかと思いきや、それにしては風に飛ばされたというよりも舞っているに近いそれを視線でゆるりと追ってみると、その影の正体が一羽の蝶であるとようやく気付く。小さな翅を羽ばたかせる白いそれは伸びやかに降下を続け、そして。
まるでそれは羽休めでもするかのように、イサンの顔――閉じていた眼瞼を縁取る睫毛に舞い降り、そして留まった。
幻想物語でも見せられているかのような光景に、ぱちぱちと瞬きを繰り返したまま見つめていた双眸を、蝶が飛んでいかぬよう細心の注意を払いながらそろりと彼の顔へと近付けてみる。こうして間近で観察すると、目元に刻まれていたくまが以前に比べて心なしか薄くなってきたような気がすることだったり、上向いた睫毛が存外に長いことだったり、新たな発見がいくつかあった。何よりも、彼が健やかにある事実を喜ばしく感じるのは、以前演じたことのある「男」の影響によるものか。否、少なくともそれだけではないことを、今のホンルは理解している。
こうも幸せそうな姿を晒されてしまっては、今すぐ起こしてしまうというのもどうにも気が引ける。幸い、昼食を摂る時間を加味しても、休憩が終わるまでにはもうしばらくの猶予が残されている。しかし、ここで待つことにするとして、イサンが目を覚ます――もしくは目を覚まさなければならない時間になるまでの間、どうやって暇を潰したものか。このままのんびり日向ぼっこと洒落込むか、イサンの抱いている本をちょっとだけ拝借するか、それとも――落とした視線、膝上に置いた紙袋から自身の昼食を取り出そうとして止める。
囚人になって初めて体験した「空腹」という感覚には未だに慣れないものの、空になった臓腑が満たされるあの瞬間の、得も言われぬ多幸感を知ってしまった。
家にいた――家族と食卓を囲っていた頃には感じられなかった、共にありたいと思える誰かと食事をする幸福感を、覚えてしまった。
だから、もう少しだけ我慢していよう。
不意に、彼の顔に降りかかろうとした落ち葉を慌てて手で遮る。起こしてしまわなかったろうかと恐る恐る覗き込むも、目を開けるどころか睫毛を陣取っている蝶すら飛び去る素振りを見せないことに、ほっと胸を撫で下ろした。
指先に摘まんだ一枚の葉をいっとき弄んだ後、手放したそれが風に流れていく様を見送って――好奇心の赴くまま、彼を真似るように柔らかな緑の絨毯へと身を委ねてみた。噎せ返るような土と新緑の匂いに包まれる中、再び午睡に耽るイサンの顔を眺める。寝息を立てる口元がほんの僅かにだけ緩んでいる様子に相好を崩しながら。
彼が見ているであろう夢の世界が、せめて優しいものでありますように。
ささやかな祈りを、白皙の頬に触れた指先へと乗せた。
畳む
#LCB61