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in the MIRROR
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性癖の煮凝り。

No.9

親愛なる嫩緑に捧ぐ/ホンイサ
囚人とセブン協会

 一切の無駄が排除された、流れるような動作で間合いを詰めた、刹那。鋭い銀閃を描きながら穿たれたサーベルが、敵の防御をいとも容易く突き崩す。
「――ホンル君」
「承りました~」
 よく知る同僚の、いつもよりも凛とした響きを持った声に応じるようにしてホンルは踏み込むと――自分から連携を図る必要はない。彼がさも当然のように息を合わせてくれるのだから――間髪入れず、体勢を崩したK社検問所要員の顔面へと振り上げた偃月刀を渾身の力で叩きつけた。破壊されたヘルメットの割れ目から惜しげなくぶち撒けられる、脳漿雑じりの赤い血。ここまで徹底的にやってしまえば、たとえHP弾を用いたとことで再起するのは難しいだろう。頬にまでかかった血飛沫を外套の袖で拭い、肺臓に溜まった空気を吐き出す。未だ倒さなければならない敵を全て片付けたわけではなく、痙攣の止まらぬそれから次の標的へと視線を移そうとして、
「……あ」
 目の当たりにした光景にぎょっと目を見開いた。死角から振り翳された警棒が、もう一人の攻撃をいなしたばかりのイサンに向けられていたからだ。
 まずい。声を出すよりも先に、伸ばした手が深緑色の袖を引いていた。胸の中へと引き寄せた身を庇うように前へ出るや否や、痺れるような一撃を凌いだ右腕の骨が軋んで悲鳴を上げる。眉を顰めながらも、受け流した勢いを乗せたまましっかと握り締めた得物の鋒を敵に向け、動きを止めることなくパワードスーツごと敵の首元を掻き切る。湿りけのある音を立てて頽れた、物言わぬ肉塊――その様子に動揺した隙を突くようにして、自身のものではない、すらりと伸びた足によって足蹴にされた肢体が血溜まりのぬめりに足を取られた。思いも寄らぬ援護によって無機質な床に沈んだそれが立ち上がる猶予すら与えず、無防備になった心臓を目がけて偃月刀を突き立てる。ずぶぶずと肉に刃が食い込んでいく生々しい感触、蛙が潰れたようなくぐもった断末魔。跳ねるように痙攣した身体が活動を止めたその後には、もはや静寂しか残らない。
「かたじけなし」
「いえ、僕の方こそ助かりました~」
 僅かに弾んだ呼吸を整えていると、すぐ下方から声が聞こえた。そういえば、咄嗟の判断で彼を匿う形になってしまったことを今更になって思い出す。先ほどの援護と口ぶりを見るに、どうやら無事ではあるらしい。
「……さても、そろそろ移ろうべしと思えども」
 怪我をしていないか尋ねるより一歩先に、淡々とした口調でイサンは続ける。
「いつまでかくようにすべしや?」
 矢庭に告げられた簡潔な言葉。瞬き一つ、向き合うように振り返ったところで、これまでの思考が全て吹き飛んだ。
「……あ」
 疑問がぐるぐると堂々巡りを繰り返す。これは一体、どういう状況だ。いや、寧ろ――自分がこれほどまでに身体を密着させて、彼の細腰を掻き抱いていることについて、何故今の今まで気付かなかったのだろう。
「……あ~……」
 充満する鉄錆の臭気に混じって鼻孔を微かに擽る、香しいコーヒーの匂い。衣服越しに伝わってくる、自分より低めの心地好い体温。
「あは、いきなりすみません。息苦しくありませんでしたか~?」
 命のやりとりをする場で、不謹慎にももう少しだけこうしていたい、だなんて。気を抜けば霧散しかねない理性をどうにか踏み留め、滲んだ手汗を誤魔化すようぱっと開いた両手をひらつかせながら、口元にはいつもと寸分変わらぬ笑みを模ってみせる。
「ふむ」
 イサン――正確には「南部セブン協会に所属するフィクサー」としての人格を上書きしたイサンは、思考に耽るように顎に手を添えていた。ほとんど零距離に近い位置から見つめてくる黒い眼差しは、そこに湛えられた好奇の輝きを隠そうともしない。
「い、イサンさん?」
 居た堪れずに思わず一歩後退すると、あろうことかその一歩を詰められた上、不意打ちで胸に押しつけられた手の感触で、心臓が飛び出してしまいそうな心地だった。
「鼓動がいと速し」
「いきなり触られたら、誰だってびっくりしますよ~」
「目をだに見合わせ話したまえ」
 溜息と共に指摘されてしまっては反論も出来ない。事実、不可抗力とはいえ自分がしでかした行動に対する気恥ずかしさばかりが先行してしまい、目の前にいる彼と視線を合わせることすら出来ずにいるのは確かなのだから。
「はは……兎も角、今は早くダンテさん達と合流しないと、でしょう?」
 とはいえ、このまま気まずい空気を長引かせるわけにもいかない。もはや日課と呼んでも差し支えない鏡ダンジョンの攻略に赴いたまでは良いものの、ダンジョン自体に何らかの不具合が生じたのか、現在ホンルとイサンは他の囚人とはぐれる形で行動を共にしている。幸い序盤ということもあり、現れる敵は二人だけで十分に対処可能ではあったけれど、可能な限り速やかに管理人達と合流するに越したことはなかった。
「というわけでそろそろ出発しましょうか……あっ。足元、滑りやすくなっていますから、転ばないように気をつけてくださいね~」
「心配には及ばず」
 粛々と得物を鞘に納めながら応えを返すと、しっかりとした足取りで前を向いたまま歩を進める。通り過ぎていく横顔を、自ずと視線が追っていた。烏を連想させる艶やかな漆黒の髪も、伏せがちな双眸も、深いくまを拵えた愁いを帯びた顔立ちも、ホンルの知るイサンと何ら変わらない。彼もまた、数多に存在している世界線のいずれかに属する「イサン」なのだから、それも当然のことだ。
 しかし、今ここにいるイサンは自身の知る「彼」と比べて、冷静沈着で成熟していた――それは剣契の「彼」とて同じなのだけれど、あちらが冴え冴えとした月光を体現したような冷たさを帯びているとしたら、こちらの「彼」は澄み渡った水を湛える清流を連想させるそれに近い。
 情報収集を生業とするがゆえか観察眼に優れ、先達として助言を惜しまず、怜悧とした面持ちを損なうことなく、常に泰然自若であり続ける。鏡のようにありのままを映し込む瞳の前ではいくら平静を装おうと、秘すべき胸中の全てを見透かされてしまうのではないかと心の粟立ちを感じると同時に、不意の心細さに襲われる。
 ここにいる青年は、自分の知る「彼」ではない。無論、彼も「イサン」であることに違いはないのだけれど――ホンル自身が懸想の情を抱いたのは、誰よりも心優しく純粋で、危なっかしいほど繊細な囚人の「彼」だ。それだけは、たとえ人格を除いた全てが、彼と同一の存在であったとしてもそれは変わらない。
 ちくり、胸に針が刺さるような感覚に襲われる。彼に会いたいと思ってしまった。
 我がことながら滑稽だ。今更恋に恋焦がれるような齢でもなかろうに。
「……やれ」
 数歩前を歩いていた彼が、小さく零す。
「そなたら、あまりに心若し」
「へっ……、わ」
 言葉の真意を咀嚼しようとして、意表を突かれてしまった。振り向き様の指先がネクタイを捉え、やや強引に引き寄せられる。額がかち合ってしまいそうな――ほんの少しだけ顎を前に突き出してしまえば、互いの口唇が触れてしまいそうな距離で見つめられていた。
「私はかくせらるれど」
 感情を読み取ることの難しい、端正なポーカーフェイス。逸らすことも、瞬きすらも許されない眼差しが己を捉える。早鐘のように打ち鳴らされる心音が五月蝿い。顔の皮膚が熱を帯びていく感覚がまざまざと分かった。
「いずこぞの馬の骨に取らるるとも知らず」
 ぱっとネクタイから手を離し、珍しく緩やかな弧を描くような笑みを湛えて。
「――精進したまえ」
 そう結ぶと、まるで何事もなかったかのように身を翻した。

 そのようなやりとりが行われてからしばらくして、特筆すべきトラブルも発生することなく、特にドラマティックな物語が紡がれるようなこともなく、二人は無事に管理人達と合流を果たした。これまで囚人達が分断されるような事態に前例がなかったからだろうか。原因を検証、排除すべく、人格が戻ったばかりのファウストにいくつか質問を投げかけられた以外には、これといって何事もなかった――いや、そういえば合流してすぐにウーティスから声をかけられたことを思い出す。
「私の部下に、何か粗相がなかったか?」
 何の許しもなく管理人から離れたことに対して小言が飛んでくるかと思いきや、思いがけない言葉に不覚にも面食らってしまったものの、彼女が現在纏っていたのがイサンと同じ深緑色のスーツだったことでようやく合点がいった。自身に向けられている橙色の視線に対して、どこ吹く風と言わんばかりの態度を崩そうとしない部下の様子に、上司はやれやれと頭を抱えながら嘆息を漏らす――人格が塗り替わるだけでこうも変わるのか。目の前で繰り広げられた光景に、ほんの少しだけ感動してしまった。
「ホンル君」
 呼び留められ、ふと我に返る。軽やかな音を立てて歩み寄ってきたのが、囚人としての装いへと戻ったばかりのイサンだったことに内心安堵の胸を撫で下ろした――この身を案じてくれたのだろうか。ホンルの無事を認めたことで心なしか和らいだ表情に、たとえ思い上がりだとしても舞い上がりそうになる――ことを悟られぬよう、振り向きながら歓迎の意を示すように相好を崩した。
「そなた、息災なりや?」
「はい、この通り。イサンさんのお陰で助かりました~」
「礼ならば、セブンの私に言うべし。……私自身は何もしたらねば」
 そう言って、伏せがちになった視線を逸らす姿の愛らしいことといったら。
 今すぐにでも強く抱き締めたい衝動を抑える代わり、他の囚人から隠れるようにして後ろ手にそっと彼の手を引き、ほのかに冷たい指へと己のそれを絡める。やや長めの前髪の下、隠しきれないはにかみに目を細めた。
 ――いずこぞの馬の骨に取らるるとも知らず。
 不意に「イサン」から言われた忠言が脳裡を過る。
 仮に何かを失ったところで、後悔などという情は湧いてこない。
 しかし、彼のことになれば話は別だ。自分以外に頬を赤らめて恥らう様子も、よく笑顔で綻ぶようになった口唇を誰かに奪われる姿も見たくない。
 それだけは、いやだ。
「……今日、僕の部屋にお茶でも飲みに来ませんか?」
 そうして零れ落ちた言葉は、緊張で酷く震えていなかっただろうか。

   * * *

「――ダンテ」
〈どうかした、イサン?〉
 LCB‐PDA越しに顔を合わせたセブン協会のイサンに、ダンテは首を傾げてみせる。冷静な態度は崩していなかったものの、随分と物憂げな表情で沈思黙考に耽っていたようだが、まさかのっぴきならない状況にでも追い詰められているのだろうか。
〈大丈夫? 私で良ければ相談に乗るけど〉
「うむ」
 自分には話を聞く程度しか出来ないとはいえ、言語化することで多少気が紛れるかも知れない。顎に手を置いていたイサンの眼差しが向けられる。重々しく閉ざされていたその口唇が、言葉を紡ぐべくゆっくりと開いた。
「……心許なき我が朋の片恋を成就さすために、いかがすべしと思う?」
 囚人達を統括する管理人として、一言一句聞き逃さぬよう注意深く耳を傾けていた時計頭がデスクに勢い良く突っ伏すまでに、そう時間はかからなかった。
畳む

#LCB61 #セブン協会

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