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in the MIRROR
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性癖の煮凝り。

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アイオライト/イサファウ
囚人と整理要員

 その異形は、辛うじて人の形を保っていた。隻腕に握られた短剣が文字通り虚空を捉えると、まるで紙を裂くようにして易々と暴かれた、妖しく光る空間へと誘われるかのように落ちていく。
 空間を裂く技術――それはある翼がかつて所持していた、現在はW社が特許を購入した特異点のひとつ。この技術を用いることによって、W社はいかに遠い場所であっても短時間で目的地に到達することが出来る列車を作り上げるに至った。
 だが、そのような「文明の利器」とも呼ぶべき発明には、身の毛もよだつような悍ましい実情が隠されていることを、ファウストは知っている。
 刹那、仰ぎ見た上空が音を立てて横一文字に裂けた。片翼めいた背の触手を広げ、血に塗れたコートをはためかせながら、軽やかに宙に身を翻した青年。彼の繰る刃は、剥き出しになった組織に侵食された瞳には一切の光が届かないであろうにもかかわらず、正確無比に敵の心臓を穿ち抜いた。
 血振りした短剣から纏っていたはずの茫洋とした光は徐々に失われ、夥しい赤色を滲ませた濃紺の装いは漆黒に、絡みついていた組織は千々に(ほつ)れて消えていく。ちぎれていたはずの左手も、それが当たり前であるように、綺麗に元通りになっていることにだってもはや今となっては驚かない。
 そこにはいつもと変わらない、囚人としてのイサンが短剣をホルスターに納めていた。
 ――W社の清掃要員としてのファウストにとっては、何も知らない「イサン」が。

〈よし。何とかみんな生き残れたね〉
 すでに動くことをやめた亡骸を避けるようにして、管理人は戦闘を終えたばかりの囚人達に歩み寄り、労いの言葉を掛けていく。
 鏡ダンジョンに足を踏み入れ、そろそろ第四階層を踏破しようとしていた。最下層へと近付くにつれ、現れる敵性固体の練度は高まり続け、もはやこれまでに集めた資源を頼りにE.G.Oの発動なしでは円滑な進行は儘ならずにいる。
「ダンテ。提案があります」
〈ファウスト?〉
 しかしE.G.Oの発動は、使用者に対して著しい精神の摩耗を伴う。幻想体の力は強大であるがゆえに受けた傷こそ最低限に収まってはいるものの、囚人達の疲労は着実に蓄積し、個々の自我を蝕み始めていた。
「この先に自動販売機が設置されているようです。体力および精神力の回復を推奨します」
〈そうだね。あの一帯は敵も出ないし……ついでに休憩も挟もうか〉
 何よりも――知らず知らず、鴉羽色の囚人に向けていた視線を管理人に戻す。管理人自身も同意見だったらしく、快く首肯すると、安堵と歓喜の声を上げて我先にと進み始める囚人に並ぶようにして足を踏み出した。
 並び歩く背中を見つめていたのは、何もファウストだけではない。数歩離れた場所で、自身と同じ方角を静かに見遣るイサンの白皙には、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。
 その顔色は、各囚人が思い思いの休憩時間を過ごし始めた後でも変わることはなかった。
「……イサンさん、大丈夫ですか?」
 無理もないことだと、ファウストは思う。
W社がひた隠しにする空間転移技術の正体。
 ワープ列車は、本当にワープをしているわけではない。T社の提供する技術によって、どれほどの年月を走ったところで、あたかも時間が経過していないように見せかけているだけに過ぎない。
 永遠とすら錯覚してしまいそうな時間、異空間を彷徨わなければならない乗客に待っているのは、たとえ正気を失い、時に自ら命を断ち、時に殺し合い、ただの物言わぬ肉塊になり果てようと、死ぬことは許されない無間地獄。
 事前に収集していたデータをもとに人体を復元するため、出来上がった地獄を仕分け、整理し、席に戻す――その工程こそ、我々清掃要員に課せられた「仕事」だった。
 だからこそ、次元裂きと銘打たれたE.G.Oを用いるたび、次元の狭間に落ちたイサンが、あの無限に続くとも知らぬ「地獄」を体験させられているであろうことは、容易に想像出来る。
 唯一、此方側に戻ってくる手立てがあることだけは、彼にとって幸いだろう。
 ――「彼」が戻ってこなかったことを思い出すたび、そう思ってしまう。
「どうぞ」
「……かたじけなし」
 差し入れられた缶を一瞥してようやく、イサンの注意は此方に向けられる。自動販売機から購入されたそれは回復効果があるようで、少しばかり落ち着きを取り戻したのか、小さく吐息を零した彼の隣へと何とはなしに腰を下ろした。
 耳を傾けると、鼓膜が拾ってくるのは囚人達の談笑。そして自動販売機から流れる微かな振動音。
 互いに口数は多い方ではない上、特に話したい事柄も見つからず、二人の間にはただただ沈黙が流れていたけれど。
「……イサンさん」
 単なる好奇心ゆえか。はたまた、缶を渡す際に皮膚に触れたイサンの指先が、あまりにも冷えていたがゆえか。
「あの空間は――あなたにとって、どのように映りましたか?」
 思わず口を衝いて出た問いかけに、イサンは黒曜石めいた目を丸く瞬かせ、ファウストを見る。
 自分らしからぬ失言だった。
 本来、ワープ列車の真実はW社にとって秘匿されなければならない極秘事項だ。万が一でも白日の下に晒されようものならば、会社の権威は失墜し、折れた翼が地に落ちることは免れない。そのような真相を一端とはいえ、少なくともW社とは無関係であるイサンが有しているという事実は、ファウストにとって――少なくとも、現在の人格を宿した「ファウスト」にとっては、だが――あまり好ましいことではない。
 だからこそ、わざわざ掘り返すべき話ではなかった。
 ――それでも、彼があの空間をどのように思い、どのように考えたのか。彼だけの所感を聞きたいのだと、心のどこかで思ってしまった。
「…………ふむ、」
 しばしの黙考の末。
「あえて言い現わさば……」イサンの指が、缶の縁をなぞる。「――色々が恍惚で、端からえ記憶させぬ道かな」
「あのような地獄に遭ってなお、辛くないと?」
「ファウスト嬢。我が身は万能にあらざれば、目に映れる物事全て、今めかしく思うべきなり」
 ゆえに、よき旅路なりき――そう結ぶと、再び両手に包み込んだ缶の中身を啜った。
 ファウストにとって、彼の言葉は簡単に信じられるものではなかった。如何に知的好奇心を掻き立てるような魅力に溢れていたとして、途方もない時間と絶望を前にしては、全てが色褪せていくだろうに。
 一人でいる時間を決して苦痛と思ったことはないけれど、永遠とも呼べる孤独を想像するだけで、気が狂いそうになる。
 仮に、この悪い夢から無事に醒めたとして――その時、果たして何人が自分のことを覚えていてくれるだろう。
「……ああ、されど」
 不意に、何かを思い出したように零された声色。ふいと視線を上げたファウストの肩へとかかった重みに、何が起きたか分からず真白になった頭で隣を見つめる。
「イサンさん?」
「この熱ばかりは、恋しきものなり」
 視界に入り込んだのは、睫毛の長い眼瞼を微睡ませながら、しなだれるようにして己に凭れかかるイサンの姿だった。もしや飲料に変なものでも入っていただろうか。覗き込むと、胸は微かに上下している。恐らく、単に睡魔が訪れただけなのだろう。
「……起こしてさしあげますから、仮眠を取られた方が良いかと」
 安堵を溜息に紛らせ、応える。緩慢な動作で頷いた青年は、同じく緩やかにその瞼を閉ざした。呑気に寝息を立てている傍らの顔を観察すると、倣うようにして彼の身体に寄りかかる。
 ファウスト自身、イサンの全てを知っているわけではなかった。
 ここにいる彼に関して言えば、別段親しいわけでもない。
 次元の狭間に落ちてしまった「彼」も、イサンと同じことを考えていたのだろうか。それは、分からない。
 彼は「彼」ではない。頭ではきちんと理解している。
 けれど――それでも。

 もし彼がこの先、不慮の事故に遭ったとして。
 彼がいた事実が公から抹消されたとしても。
 せめて、自分だけは記憶していよう。そう、心に刻んで。
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#LCB0102 #W社

LimbusCompany,

それは恋とは呼べぬ何か/ホンイサ
黒雲会と剣契

 一人目、不用心に近付いてきたから適当に斬り払った。
 二人目、背後から不意打ちを狙ったらしい男の胸に、逆手持ちの鋒を突き立てた。
 三人目――は、さてどうしたんだったか。同じ格好をした輩ばかりを斬り捨てたせいで、もはや記憶にすら残っていない。
 ようやっと訪れた心地好い静寂。つい先刻、刃にこびりついたばかりの血を振り払いながら、仰ぎ見た月光は墨を流したような雲によって覆い隠される。残念、もう少しだけ月を望んでいたかったのだけれど。
「何だ、もう片付けたのか」
「この程度の相手に苦戦なんてしないよ」
 素気なく返した青年の周囲には、無造作に転がる屍山血河。噛み殺していたあくびを堪らず一つ零し、袈裟斬りにされた傷から未だ生温い血を吐き続ける肢体を跨ぎながら――忌々しげに虚空を睨めつける物言わぬ瞳など気にも留めず、青年は靴が汚れぬようにして自身が作り出した「地獄」から踵を返した。都市の人間であれ、よほど死体に免疫がなければ一目で卒倒しかねない惨状も、もうしばらくすれば裏路地に訪れた「夜」が全てをなかったことにしてくれるだろう。
 これは裏路地では日常茶飯事の、単なる縄張り争いだ。黒雲会が保護費を徴収している管轄で、これはいつものようにちょっかいをかけてきた剣契(コムゲ)の連中と少し遊んでやれ、なんて命令が若頭から下ったのは今から少し前のこと。
 斬ること自体は好きだ。しかし、他人に命じられるがまま、決められた相手をただ斬るのは――どうにも、面白くない。
 何より、弱い者いじめほどつまらないものはないだろう。
「他の子達は?」
「あ? まだお遊戯会の最中じゃねえか……っておい、ホンル。どこに行く気だ?」
「散歩」
 冷めていく心とは裏腹に、中途半端に燻ったままの(ほとぼ)りを冷ますにせよ、再燃させるにせよ、いずれにしてもこのまま持て余しておくには決して快いものでないことは確かだ。一言を残してこの場から立ち去ろうとする青年を見て――口の利き方はいつまで経っても直らないが、彼は上から与えられた命令に対して忠実だった――あわよくば「遊び」の応援ぐらいにはなるだろう。そのような考えが、ホンルという若衆を知る若頭にはあったのかも知れない。
「……掃除屋が湧いてくるまでには戻ってこいよ」
 そう言って、ジャケットをなびかせる背を見送ったのだった。

 月明かりを失い、足を踏み入れれば融けて紛れてしまいそうな夜闇に包まれた路地を、僅かなネオンと街灯を頼りに進んでいく。普段であれば多くの人が行き来する雑多な通りなのだが、廓寥(かくりょう)として人影が見当たらないのは至極当然と言える。都市に生きていながら「裏路地の夜」が迫るこのような時間に外を出歩いている人間がいたとしたら、それはどうしようのない死にたがりか、はたまた救いようのない馬鹿のどちらかだ。とはいえ、何事にも煩わされることなく一人、行き場のない憤懣(ふんまん)を紛らわせるには都合の良い時間であることは確かだった。
 雑魚ばかりの相手にはもう飽きた。
 どうせ斬らなければならないのなら、もっと心躍るような相手が良い。
 そういえば、剣契の一握りには「殺手」と呼ばれる存在がいることを、以前小耳に挟んだことがあった。かれこれ剣契と殺り合うことようになってから随分経つというのに、未だ黒雲会内部で殺手に関する情報が噂程度にしか流布されていないのは、単純に相対する機会に恵まれなかったがゆえか。それとも――たとえ刃を交えていたとして、生きて帰る者自体がいなかったがゆえか。
 必要以上に人々を殺めることに悦びを見出すとされる、剣の鬼。
 はたして、彼等はどれほど強いのだろうか。
 再びちりちりと熾り始めた熱を誤魔化すように、手の中にある端末を見下ろす。現在の時刻は午前二時四八分。流石に、他の若衆は遊び疲れた頃だろう。かく言う自分も、そろそろ撤退を考慮しなければならない時間であることは確かなのだが。
「…………」
 ――どうやら、酔狂の度が越えた愚か者は自分だけではないらしい。
 全ての生命が息を潜める未明だからこそ、耳を澄ませなければ聞こえたかどうかすら怪しいほど、微かに響いた剣戟の音は、この路地裏の奥から聞こえてくるようだ。
 別に、自分が首を突っ込まなければならない謂れはどこにもない。ごみとして甘んじて掃除されるつもりだって、微塵もない。ここは触れずに無視を決め込むのが無難な選択である、が。それなのに、彼は一向にしてその暗闇から目を離そうとしなかった。頬を掠めていく、ひりつくような風が視線を離すことを許さない――否、本能的に視線を逸らすことを恐れている。固唾を飲み、導かれるがまま歩を進めるホンルの胸中には、ある種の確信めいた予感が芽生えていた。
 この先で、運命と呼ぶべき出会いに巡り合えるのではないか、と。
 頑なに月を掩蔽していた不定の雲がゆっくりと流れていく。鼻孔を抜ける、噎せ返るような鉄錆の匂いと、それに混じる仄甘い花の香。高揚する心に急かされ、知らず知らずのうちに速まる歩調で隘路を抜けた先の区画で目の当たりにしたのは――

 月下、茫洋と照らし出された月影が、組員を今まさに斬り伏せた光景だった。
 うっとりと目を奪われるほど流麗な太刀筋で、まるで剣舞の一つでも披露するかのように、身に着けた黒衣を風に遊ばせるその影は、笠を目深に被っているせいで表情どころか顔立ちすら窺い知ることは出来ない。
「――そなたも、黒き雲に組せし童なりや?」
 紡がれた気怠げな低音。僅かに押し上げられた笠の隙間から覗く暗い瞳が此方を一瞥した、刹那。
 冴え冴えとした刃が頸動脈へと添えられたような心地だった。少しでも気を逸らしてしまえば即座に首を落とされかねない緘黙の殺気が全身を駆け巡り、脊髄まで冷や水を流し込まれたような戦慄で肌膚を粟立たせながらも、瞬きも忘れて魅入るホンル自身は未だに気付いていない。
 知らず知らずのうち、彼の口角が愉悦で上がっていたことを。
 彼の心が、興奮に打ち震えていたことを。
 あの男と踊りたい。
 ――殺し合いたい。
 これまでに感じたことがない、快感にも似た甘い痺れが脳を強く揺さぶる。自制の箍などとっくに外れ、本能のままに伸ばした指先が得物の鯉口を切ろうとした。
「殺手」
 だが、抜刀するまでには至らなかった――外野から齎された声に、それは妨げられたから。殺手と呼ばれた男の意識が背後の暗がりに逸れ、己にのみ向けられていたはずの殺気が凪いでいく。
「じきに掃除屋がやって来る。撤退だ」
 凛々とした女の声は、有無を言わさぬ響きを以て告げる。
「……いと侘し」
 男はまるで嘆くように小さく吐息を零すと、夥しい赤色で濡れた白刃を振い、鞘に納めた。眼前で繰り広げられるやりとりを唖然と眺める視線へ一切の興味を示すことなく、身を翻した影はそのまま裏路地の闇に融け込むようにして消えていく。徐々に遠退いていく足音はやがて聞こえなくなると、再び死んだような静寂が訪れた。
「…………え~っ?」
 ただ一人、その場に取り残されたホンルは気の抜けた声を上げながら、落胆に心の底から肩を落とすしかなかった。

   * * *

 黒雲会と剣契、二つの組織による抗争が繰り広げられた夜から、幾許かの月日が過ぎ去ろうとしていたにもかかわらず、自身の心に灯されてしまった炎は消えることなく、今もなお深い余韻を残し続けている。腕利きの剣契が現れたとされる場所は何度も訪れたし、時には情報屋に高い金を握らせて、殺手の情報を集めさせたことだってある。しかし、よもやあれは月が見せた幻なのではないかと勘繰ってしまうほど、裏路地での邂逅以来、あの殺手の姿を見出すことはついぞなかった。
 たとえあれが退屈に押し殺されていた己が見せた、都合の良い幻覚であったとして――あの日、あのまま斬りつけていれば、彼はその眼差しを再び自分に向けてくれたのだろうか。光を映さぬ漆黒の双眸に剣気を閃かせながら、自分だけを見つめて、自分のためだけに刃を振ってくれたのだろうか。そうなれば何と、幸福なことだったろう。後悔ばかりが胸裡を満たしては、深く嘆息を吐き出す。
 会いたいと、心が望んでいる。
 触れてみたいと、心が叫んでいる。
 他の誰かを斬る時でさえ、これが「彼」だったならばと考えずにはいられない。
 これでは、まるで恋煩いでもしているみたいじゃないか。そのように揶揄する若頭の戯言にさえ、今は悪態を吐く気分にはなれなかった。
 そうした態度が余計傷心であると認識されてしまったのかも知れない。保護費の徴収という名目で、半ば強制的に裏路地の繁華街へと連れ出された。本人曰く「仕事に精を出していれば嫌なことも忘れられるだろう」ということらしい。余計なお世話である――隣で絶え間なく喋っている若頭の言葉を適当に聞き流しながら、黄昏の喧騒を歩く。行き交う人々にほんの少しだけ注意を向けると、夕食に何を食べようか楽しそうに話し合っている者もいれば、絶えることのない裏路地の抗争について、口々に噂する物好きも少なくない。随分と呑気なものだと内心毒吐く。正直、さっさと用事を終わらせて帰りたい気持ちでいっぱいだった。
「――かの織物問屋、保護費の徴収は如何なるらむ?」
「すでに組員を数名向かわせている」
「何事もなく、応じてくれると良いんですが……」
 ああ、とうとう幻聴まで聞こえ始めてしまったのか。鼓膜が捉えた音のうち、二つは聞き覚えのある――しかも、一つは探し求めて止まなかったそれと寸分違わぬ声色だった。嘆きにも似た溜息を吐き、ふと横を通り過ぎようとした三つの影を、ホンルは何気なく横目で眺める。前方のみを見据える射干玉色の眼。呼吸が止まる。似ている、なんて言葉だけでは済まされなかった。まるで夜闇が人の形を取ったかのような艶やかな黒髪を、外套を風に揺らめかせる後ろ姿を、食い入るように見つめる。
 笠など被っていなくとも、口元を隠していなくとも、それが誰か一目で分かる。
「――みつけた」
 呟いたホンルが腰に提げた刀へと手を伸ばし、大地を蹴ったのはほぼ同時だった。
 抜き放たれた剣閃。其処彼処から上がる虚空を劈く悲鳴。拓かれた、彼に続く道。
 隠しきれぬ殺気を悟られたか、背後から叩きつけた刃は、振り向き際に翳された鞘によって阻まれる――初めて彼に触れられた。
 微かに吃驚の色を帯びた双眸が向けられる――彼が、自分だけを見つめてくれた。
 狂喜に舞い上がるまま、間合いを取るべく一歩退いた男へと振り落とした力任せの剣戟に、目の前でちかちかと火花が明滅する。甲高い金属音を響かせながら、今度は鍔で受け止められた。刀越しに伝う衝撃で腕が痺れそうだ。抜け落ちぬよう柄を握り直し、間髪入れずに再び斬りこんだ一撃も彼の肉を裂くことこそ叶わなかったが――
「……!」
 鍔迫り合い。口付けすら届きそうな距離で見つめ合った男が眉根を寄せ、その能面のような顔に初めて感情を滲ませた姿に、激しい鼓動の高鳴りを感じる。何度か斬りつけたことで分かったことだが、どうやら彼は力で捩じ伏せるよりも、その洗練とした技巧で正確無比に急所を狙う方が得手らしい。前者に関しては、強化施術を受けた此方に分がある。受け止めた刀を膂力で押し返し、僅かに体勢を崩した腹部に目がけて、鋭い蹴打を叩きつける。加減はしたつもりが、存外に遠くまで飛ばされてしまった。肋骨まで折れてなければ良いのだが。
「イサンさん……!」
 取るに足らない騒音が響く中で、不意に何者かの上げた叫びが耳に届いた。なるほど、彼はイサンというのか――忘れてしまわぬよう頭の片隅に名を刻みながら、店先の壁へと打ちつけられた男を見下ろす。もたらされた苦痛に咳き込むも、なおも手を伸ばそうとした先に転がっている彼の得物を足蹴で遠ざけ、掴み上げた胸倉の拘束を解くことなく、頽れたイサンを堅く冷たい壁に押しつけた。
「ぐ、……っ」
 足元には褥の如く広がる外套。手にしていた刀をぞんざいに突き立て、その外套ごと彼を地面に縫い留めてやる。ようやく空いた手で、そうっと触れた頬から伝わる人肌の体温。震え。あの日に見上げた月光を映したような、滑らかな皮膚に刻まれた無数の傷跡を指先で撫で――そうして。
 自由を奪う形で跨った彼の、呻吟を漏らした薄い口唇に、己のそれを重ねた。
「ん、んぅ……っ」
 唖然と、薄く開かれたままの口蓋を食み、舌先でなぞる。擽るように撫で上げた歯列をこじ開け、やっとのこと侵入した舌が彼のそれに触れると、いじらしく逃げようとする熱を容赦なく絡め取った。互いの唾液が混ざり合うたび、重ねた唇の隙間から漏れる水音に、くぐもった艶めく呻きに、ちりちりと首筋が総毛立つのを感じる。本来、唾液は無味であるはずだ。しかし、何故彼のものはこうも甘く感じるのだろう。
 相手の呼吸すら奪う、噛みつくような口付け。鼻で息をしていない時点で薄々勘付いてはいたが、舌遣いの拙さに意外性を見出し、思いの外初心な抵抗を示す彼にある種の神聖性を突き崩すような背徳感を覚えつつ、間近にある頬がほのかに上気していく様にただただ見入っていた。惚けていたと言われれば、反論の余地はない。
 次の瞬間、硬いものが食い込む衝撃。次いで、咥内に広がる鉄の味。焼かれるような疼きが痛みであり、舌を噛まれたのだと頭が認識するよりも先にイサンの肩を引き剥がしていた。組み敷かれたまま、青白い皮膚を紅潮させて荒い呼吸を繰り返していた彼の口から吐き捨てられた、鮮紅に染まる唾を見て――己の一部たる血肉が、彼を形作る一部になれたかも知れないのに。
 そう、ほんの一瞬だけ「勿体ない」と思ってしまった。
「う~ん……壁ドンしてから唇を奪ってしまえば、大概の人は骨抜きになるものだって聞いてたんだけどなぁ。まあ、そういうものだよね」
 やはりおじさんの言うことは当てにならないものだと、飄々とした調子で肩を竦めたけれど、己の行動自体には後悔はしていない。
 それは何故か。こんなこと、決まっている。
「……そなたは誰そ?」
 この身を刺し貫くような底冷えする殺気と共に、イサンの――殺手の眼差しが自分自身に対してのみ、向けられたのだから。
 何人にも侵すことの出来ない黒い瞳は氷のように冷ややかであるのに、その奥底では炎の如き激情が爛々とした昏い輝きを放っている。
 その輝きが自身を映すだけで、狂おしいほどの炎に焼かれるようだった。
「僕ですか? ……僕はホンルっていいます」
 心から慕う相手の前では「紳士的」に振舞うべきだ。そのためだったら、普段は使う理由を見出せない敬語だって喜んで使おう。
 強く握り込まれたままの手指を解きほぐすように、己の指で絡め取りながら。
 どこかうっそりとした美しい微笑を湛えたホンルは、言葉を続ける。

「イサンさん――あなたに一目惚れした男です」
畳む

#LCB61 #黒雲会 #剣契

LimbusCompany,

灯る情に解けてしまえ/ホンイサ
囚人と囚人

 横に薙いだ短剣の鋒が弾かれ、体勢を大きく崩した青年の視界へと映り込んだのは、自身に向けて振り翳される、グロテスクに脈動する肉塊だった。ぎょろりと見開かれた目玉は、目の前にいる獲物を捉えて決して離さない――蛇に睨まれた蛙の気持ちとは、まさにこのような状態を指すのだろうか。恐ろしく冷たい汗が滑り落ちる背中で、何者かが何かを叫んでいるような気がしたけれど、生憎彼の耳には届かなかった。
「イサンさん!」
 不意に、強い力で腕を引かれた青年――イサンの身体がしたたかに打ちつけられる。満足に受け身を取ることも出来ず、衝撃に呻くことも痛みを感じる暇すら与えられず、瞬きを忘れたまま見上げた視界の端で長い黒髪が軽やかに揺れた、刹那。
 柔らかいものが裂け、硬いものが砕ける醜怪な音。同時に撒き散らされた赤く生温かいものが、頬を濡らした。へたり込んだ身体は、影が縫い付けられたかのように動かない。本来であれば自分がそうなるはずだった――けれど、そうはならなかった結果と向き合うことさえ脳が拒んだ。
〈ホンル!〉
 鼓膜を揺さぶるような秒針の刻みは、悲鳴めいた叫びを成していた。
「――あ」
 脳裏を過るのは、自身の名を呼んだ、いつもと異なる同僚の声色。悠久にも似た須臾の間、辛うじて拾い上げた思考が結論へと辿り着いてようやく、虚空を見つめていた瞳は緩慢な動作でこそあったが動くことを許された。目の当たりにした光景に対して「惨状」と呼ぶ他に相応しい言葉が思いつかない。背まで刺し貫かれた傷から止め処なく滴り落ちる血によって、地面が赤々と染められていく。対照的に、か細い吐息と呻きを零す形の良い口唇から、珠の汗を浮かべた白皙からみるみるうちに色味が喪失していく様に、イサンは息を詰まらせた。
「……っイサン、さん……」
 しかし、それでもなおホンルの足が頽れることはなかった。それどころか、渾身の力をもって自身を貫く肉塊を握り締め、異端審問官の動きを封じているではないか。
「……はやく、とどめを」
 咳き込んだ唇から、まるで命が零れ落ちるようにして鮮やかな赤を吐き出しながらも、いつもの微笑を絶やすことはなかった。
「…………っ」
 普段であれば、いついかなる時でも表情を変えることのなかったイサンがとうとう強く眉を顰める。近くに転がっていた得物を掴むと、その後はほとんど無我夢中だった。己を縛りつけていた大地を蹴り、一息に距離を詰める。反射的に振り上げられた左手の釘と、それをいなした短剣の間で火花を散らしながら、そのまま懐へと入り込んだ。間合いを取ろうとしても、まさに「その身をもってして」拘束された状態では、距離を取ることすらままならない。深々と、逆手で突き刺した刃から筋繊維を引き千切る音を響かせながら、両断した腕ごと手負いの同僚を解放すると、そのまま身を翻した勢いを乗せて耳を劈くような奇声を上げる喉元へと短剣を突き立てた。
 彼の――少なくとも彼本来の「人格」からは想像出来ないほど、乱雑に蹴り転がされた異端審問官はくぐもった断末魔を発し、しばらく痙攣を繰り返していたが、やがてぴくりとも動かなくなった。敵が事切れたことを確認したことで、やっと振り返ることの出来たイサンは幾分か足早に歩を進めると、血溜まりに沈んだホンルの上体を血塗れになることも厭わず抱き上げる。
「……ホンル君」
 自ずと震える声で名を呼ぼうとも、彼は応えなかった。すでに呼吸は頼りないほど弱々しく、色彩の異なる宝玉の如き双眸は本来の輝きを失い、焦点も定まらない。これまでに流れた血の量も、心臓まで貫いたであろう傷の深さも、寧ろ即死していないこと自体が奇跡であるほど、致命傷であることは目に見えて明らかだった。
「――管理人」
 まさに今、苦痛に蝕まれているのはホンル本人であるにもかかわらず。
「そなたの時計が動かねばならぬ」
 ――何故、自分の胸までもがこれほど痛みを訴えて止まないのだろう。
 イサンには、疑問を感じずにいられなかった。

   * * *

「……あれ?」
「目覚めたりや?」
 ホンルが目を覚ましたのは、麗らかな木漏れ日が射し込むメフィストフェレスの内部だった。どうやら横向き座席に寝かしつけられていたらしい――宙に放り出されていた足は微かに痺れを覚えてこそいたが――呼吸が乱れていなければ、心臓も規則正しく動いている。手のひらで胸を叩いてみると、先ほどまでぽっかりと空いてしまっていた空洞は、まるでそんなものなど最初からなかったように、見事に塞がっていた。座席の傍らに佇んでいたイサンも自身の目覚めに気付いたらしい。手にしていた書物を閉じ、視線をホンルへと移した。
 起きがけの目で軽く見渡してみたものの、二人以外の人影は見当たらない。話を聞くところによると、他の乗員達は鏡ダンジョンを脱した後、昼食を済ませるために一旦バスを下車しているのだという。そう語ったイサン自身は、蘇生後もしばらく気を失っていたホンルを介抱するため、どうやら自主的にバス内に残ったらしい。
「にわかに立ち上がるはいと体に悪き。今はゆるゆると休みたまえ」
「大丈夫ですよ~。傷もばっちり塞がりましたし」
 いつもの快活な笑顔を浮かべては、勢いをつけて座席から起き上がるホンルの姿に、案じるような眼差しを向けながらも安堵とも取れる吐息を漏らしたイサンの口元はそこはかとなく緩んだのも束の間、すぐに苦しげに引き結ばれる。
「……先刻は、かたじけなし」
「あ~……もしかして、僕が庇ったこと、まだ気にしてます?」
「彼の戦闘、私の生死は重要にはあらざりき」
 彼等「囚人」と呼ばれる存在は、たとえ死の淵に立たされたところでダンテが時を引き戻しさえすれば何度でも甦ることが可能である。しかし、そうとはいえもたらされた苦痛までは記憶からなかったことにすることは出来ない。何より、ホンルの戦闘能力をもってすれば、自分があの場で倒れたところで難なく異端審問官を撃破し得たはずだと、イサン本人は考えているのだろう。事実、二人のどちらが死のうが、先刻の戦闘には何ら支障はなかったに違いない。それゆえに殊更、何故、と疑問を抱いてしまう。何故、耐え難い苦痛を肩代わりしてまで――
「……何故、私を庇いけり?」
 もしかすると彼の癖なのかも知れない。視線を斜めに逸らしたまま、イサンは問う。体感よりも何倍にも長く感じてしまいそうな沈黙が二人の間に訪れた。
「ん~……そうですねぇ……」
 顎に指を添えながら、どう応えたものか思索に耽っていたホンルだったが、しばらくしてその誰よりも端正な顔を楽しげに輝かせたかと思えば、隣の座席をぽんぽんと叩き始めたのだ。そのような同僚の様子に、一瞬思考を停止させたかのように、はたまた鳩が豆鉄砲でも食らったかのように、イサンは目を瞬かせる。
「…………」
「いいからいいから~。どうせなら、お互い座った状態でお話しましょう~?」
 残念ながら、ホンルには一歩も引く気はなかった。有無を言わさぬ言動にそのことを察したのか、知らず知らずのうちに零れ落ちた溜息へ諦念を滲ませ、勧められるがままにイサンの定位置である座席に腰を下ろす。

「えいっ」
 そんな彼の太腿へと狙いを定めて、ホンルの頭部が重力に従うように落とされた。
「――な、」
 さすがに想定外の事態だったのだろう。自分の起こした奇行に対して、普段の冷静沈着な振舞いからは想像がつかないほど、目を白黒させて動揺している同僚が何だかおかしくて、ホンルは耐えきれずにくつりと喉を鳴らした。
「う~ん、それにしても……」
 腿の上で寝返りを打ちながら、続ける。
「寝心地はあまり良くないですね~」
 まあ、細身の男の太腿に心地好さを求める方が見当違いなのだろうけれど。
「も、尤もならむ」
「ふふっ。……でも、ようやくちゃんと僕の方を見てくれました」
 指摘するや否や、居心地の悪そうに泳いだ視線を、両手で頬を挟むことで固定した。
「僕、一度でいいからイサンさんの目をじっくり見てみたかったんですよ~」
 戯けた口調で笑いながら、改めて観察する彼の瞳は、黒曜石や黒瑪瑙かと見紛うほど、とても綺麗な輝きを宿している。それは硬質で、どこか冷たく感じるけれど、目の前にあるものを嘘偽りなくと映す「鏡」を連想させるその輝きを、もうしばらく見つめていたいとすら思えた。
「ホンル君……そろそろ、戯言は止めたまえ」
 自身を映していた黒色が、困惑に揺れ動く。包み込んだままのイサンの頬へと、あえかにでこそあるけれど、ありありと朱の差す様が見て取れた。
「あ~、そう来ます? 僕としては冗談のつもりじゃなかったんですけど」
 少しばかり血色の良くなった頬を軽く抓ってやると、今度は心なしかむっとした表情に変わった。出会った当初こそ何を考えているのか分からない、掴みどころのない雲のような存在だと思っていたけれど、その実存外に分かりやすい人なのだと、内心少しだけ楽しくなってしまったのは秘密にしておこう。
「イサンさん、何かと皆さんを庇っていることが多いでしょう?」
 痛いことは極力御免被りたいが、リンバス・カンパニーに就職して以来、少なくとも自身にとっての死の概念が曖昧になっていることは否定出来なかった。多少の無理をして四肢がもげようと、心臓に鉄釘が穿たれようと、どのような致命傷を受けようとも、管理人さえ生き残っていれば全てが元通りになる。幾度となく巻き戻される命に、死に対する恐怖が徐々に希薄になっていくのが当たり前の日常――それは、他の囚人とて例外ではないのだろう。
 だからこそ、不思議で仕方がなかった。
 イサンが囚人の身代わりとして事切れる瞬間。
 心なしか、安穏にも似た表情を見せたことも。
 そして――時計が巻き戻された瞬間、その瞳に絶望で彩られたかのような暗澹とした光を覗かせていたことも。
「同じことをすれば、イサンさんの気持ちが分かるかな~……なんて思ったんです」
 まあ、結局は分からず仕舞いでしたけど。
 飄々とした同僚の応えに、伏せられたイサンの瞼を縁取る長い睫毛がふるりと震える。そのようなことで、と頭上の彼に憤られるだろうか。いや、心優しい彼のことだ。他者を非難するよりも先に、自分自身が招いたことへの罪悪感に圧し潰されてしまいかねない。どちらにせよ、ホンル自身にはこの同僚の本心までは窺い知れない。
「僕、イサンさんが苦しそうだと思いの外ダメージが入るみたいなんですよ~。なので、今後はもう少し自愛してくださいね?」
 それならば、最後まで自己本位な意見を述べてしまおう。今の自分ならばそれが許されると高を括って、戯れに握り締めたイサンの指先は、氷のように冷たかった。

   * * *

 K社で起きたいざこざが終止符を迎えて以来、ホンルは以前に比べて、イサンと互いに言葉を交わす機会が増えたように感じていた。時にはどちらかの個室に招き、招かれ、凍えた指先へと熱を与えるように、あたたかな茶を肴にして――提供される高級茶葉の数々に、イサンがぎょっとすることはあれど――話に花を咲かせることもしばしばあった。談笑の最中、ほんのささやかな変化ではあったものの、唇に弧を描いて微笑む彼を見るたび、未だにあの空間で演じた「役」に引きずられているのかも知れない――ホンル自身も胸にあたたかなもので満たされていたのは確かだ。
 そんな、忙しくも穏やかだったある日のこと。
「あれ?」
 本日の業務も恙なく終え、ホンルの個室で茶を啜っているイサンは普段と少しばかり雰囲気が違った。ただの気のせいだろうかと首を傾げると、その視線に気付いたのだろう。倣うように小首を傾げながら、幾分丸みの増した黒い瞳が此方を捉える。
「……私の顔に、何か付けりや?」
「う~ん……付いてるというか……」
 ホンルは抱いた「違和感」をしげしげと観察し、吟味した後――隣に座る友人へと寄りかかるようにして、自身の体重を預けた。何の前触れもなく行われた不意打ちに、手にしていた茶器を茶ごと落としてしまう事態は辛くも避けられたが、ホンル本人にとってはさほど高価な代物ではなくとも「あなや……」と焦りを見せるイサンの様子を見るに、どうやら常人にとっては心臓が口から飛び出しかねない暴挙だったらしい。
「ほ、ホンル君……?」
「ん~……何か、いつもよりあたたかいような……というか土臭い?」
「土……」
 茫然とした眼差しが見つめていることも意に介さず、ホンルは続ける。
「でも土というよりは草……いや、花かな? ……う~ん」
 尖らせた唇を隠しもせず、詰め寄る。
「もしかして、僕がいないところで日向ぼっこでもしてたんです?」
 ホンルの問いに、イサンは沈黙を保ったまま――もはやいっそ清々しいほど、図星を衝かれたことだけは一目瞭然である視線を虚空に漂わせていたが、やがて観念したようにぽつぽつと語り始めた。
「……ドンキホーテ嬢が、花を愛づに適せしスポットありと言うものなれば」
「二人で行ったんですか?」
「否」
 イサンが首を横に振る。
「シンクレア君も共に」
「いいなぁ。僕も誘ってくれれば良かったのに」
 同じ座席を割り当てられた彼等が時折チェスをするほど仲が良いことは知っていたが、心に抱いたのはほんの少しの疎外感。頬を膨らませるホンルの様子に、しばらくそれを眺めていたイサンは目を屡叩かせると、思わず噴出しながら、ホンルの頭に手を置いた。まるで不貞腐れる子をあやすように髪を撫で梳く指先がこそばゆく、自ずと羞恥の念が込み上げるのに、生憎それが存外に心地好くて、どうにも拒めずにいる。
「……次は、必ずや」
「出来ることなら、今度は二人だけの秘密でお願いしますね~」
「無論、心得たり」
 花の綻ぶような微笑に釣られるように自身も相好を崩しながら、ホンルはイサンの太腿へと頭を預ける。同性である彼の腿は相変わらず硬くて貧相で、決して快適なものではなかったものの、躊躇いがちに頬を撫でた指先も含めて、あの時よりも確かなぬくもりを感じられた。
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#LCB61

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闇路を照らすは妙なる指先/イサファウ
囚人と囚人

 青年がその部屋を抜け出してから、どれほどが経っただろう。
 着ていた服は、降りそぼつ雨で重く濡れ、体温を奪っていく。裸のままの(あうら)は無我夢中に走ったせいで、いつの間にかあちらこちらに傷が出来てしまっていたことに、もつれた足に躓き、泥濘(ぬかる)む地面へ叩きつけられてようやく気付いた。
 飲食を忘れ、酷い疲労感で動かすことすら億劫になる身体とは対照的に、満足にまとまらない頭は、しかしより深く思考へと沈む。これまでに多くを失ってきた青年には、すでに帰るべき場所も、己の帰りを待つ朋もいない。このまま、そこら辺に転がっている路傍の石のように、誰にも看取られぬまま野垂れ死ぬか――はたまた運が良ければ、かつての同胞が彼の消息を掴み、再びあの四角形の内部へと連れ戻される可能性も有り得るのだろうか。
 彼は、鏡の中で微笑む「彼」のように、自由にどこへでも羽ばたいていける翼を持ち合わせていない。長い年月を過ごした牢獄めいた白い場所で、望まれるがまま――自身の行いが齎す結果の全てから目を背けていれば、少なくとも身の安全くらいは保障されたことだろう。
 呼吸のひとつすら難しい、この生き苦しいこの「都市」で選択出来るのは――奪うか、奪われるかの二択のみ。
 死と生、果たしてどちらが「救済」であるかも曖昧になってしまうほどに、ささやかな幸せさえ掴むのが困難なこの世こそ、まさに地獄と呼ばずして何と呼べばいい。
 柔い心を打ちひしぐ絶望の中で、それでも青年は緩慢でこそあったけれど、泥にまみれたその身を起こした。もはや棒と化した足をひきずり、皮膚に食い込む冷たく鋭い痛みに耐えながら、歩を進める。
 頑なに歩みを止めようとしなかったのは、ひとえに彼は心のどこかで願って止まなかったから。
 無様でもあがいて、もがいて――そうして、
「……っ」
 不意に、眩い光が青年の視界を染め上げた。
 目を焼かんとばかりの光量に、思わずかざした手の隙間から見えたのは、きらきらと煌めく雨粒。その奥で、傘をさすシルエットがひとつ、細長い影を落とす。
「最初の囚人、イサン」
 感情の窺い知れない、淡々とした声だった。
「お待ちしておりました」
 同時に、惹き寄せられるような美しい声から語られたのは「リンバス・カンパニー」という新興企業の存在。
 入社すれば、喪われたものを取り戻せると嘯くその影は、さもそうすることが当たり前であるように、拒絶されることはないと確信しているかのように、白魚めいた手を青年へと差し伸べる。
 耳触りの良い甘言のようでありながら、しかし、有無を言わせぬ強制力を孕んだ言の葉。
 ああ、これは魔女なのだと、青年の理性が警鐘を鳴らし続けていた。
 少なくとも、この出会いは決して偶然と呼べるものではないのだろう。この先、接触を図ってきた企業が何を求めるのか、彼には推し量ることしか出来ない。
 一を得るため、多くを奪わなければならないかも知れない。
 死でさえ生温い絶望が、未来永劫続くことになるかも知れない。 
 ――けれど。

「――」
「……戻られましたか?」
 ようやく、我に返った青年の眼前に広がっていたのは、陰鬱とした雨景色ではなく、いつしか見慣れたバスの内装だった。自身に割り当てられた座席に腰かけたまま、茫洋と「魔女」を見つめていた黒曜石の眼差しが、緩やかに周囲へと向けられる。
 彼等、二人以外には誰もいない。
 常ならば、率先して不寝番を担っているはずの管理人の姿すらも、だ。
「……管理人は、」
「変動可能性のある最大一二時間の就寝および休息を開始した際、複数の囚人に連行されていきました。仕方がないので、ダンテが戻るまではファウストが不寝番を担当しています」
「さりか」
 青年は再び彼女を一瞥したものの、視線はすぐに虚空へと投げられた。
「何か、懸念すべき事柄でも?」
「……否」
 窓の外、夜の帳が降りようとしている黄昏の空には、巣から多少離れているとはいえ、都市を彩る光で一粒の明星でさえ確認することは叶わない。栄光の輝きを抱きながら、その実、どこまでも(めし)いた闇が広がっているような、漠然とした不安感。
「――ファウスト嬢」
「何でしょうか」
「手を」
 不意打ちでもたらされた言葉に、氷めいた魔女の面持ちがとうとう僅かに崩れる。色素の薄い目を瞬かせながらも、心なしか躊躇いがちに差し出された、己のものよりも幾分も華奢な手――それを、青年はおもむろに頬へと寄せたのだった。
「イサンさん?」
「……今暫く、このままに」
 それはあの時、彼女と出会った時と変わらない。
 彼はついに、差し伸べられた手を振り払えなかった――彼女の手は、魔女と呼ぶにはあまりにあたたかくて、染み入るようなぬくもりだったのだから。
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#LCB0102

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