No.16, No.15, No.14, No.13, No.12, No.11, No.10[7件]
君に落ちる孤独の融点について/ホンイサ
囚人と囚人
虫のささめきも息を潜める深き夜。耳を傾けるべき仲間達の語らいは、疾うに寝静まってしまった。鼓膜を鳴らす静寂の中、読書に耽ることすら難渋するほどの盲いたような 晦冥における唯一の暇潰しといえば、窓から覗く星彩を眺めることくらいだというのに。輝きの一粒たりとも見出せぬ、果てなく塗り潰された漆黒を仰ぎ見ては、暗々の内に零れ落ちた嘆息を夜気に溶かした。
不寝の番、長椅子に凭れたまま、一寸先さえ――己の輪郭さえも朧げな闇に身を委ねていると、もしやするとこの身はぐずぐずに融け果ててしまったのではないかという錯覚に陥る。ひとひらの光もない夜とは、ここまで心寒いものだったろうか。もはや目を開けているのか、瞑っているのかも曖昧な暗中において、触れることを許された座席の感触、硬質な硝子質の冷淡さ――抱え込んでいた自らの腕に、知らず知らず食い込む指の痛みだけが、自身が未だ人としての原型を留めているのだと教えてくれる証左となった。
思惟を途切れさせてはならない。ほんの瞬きの間でも自己を自己たりえる確固たるそれを「無」にしたが最後、ただでさえ薄弱としたこの意識は容易く呑まれ、漠然とした暗黒淵に沈むだろう。
声の出し方を忘れてしまった者の叫びなど、一体何人が聞き届けられよう。
「だ~れだ?」
両の目を覆った、柔らかなぬくもりがあった。不意打ちのように齎された自分以外の熱源に、途切れた思考は紡ぐべき言葉を見つけられずにいると、解放された視界のすぐ先で、犯人自ら浮かない面持ちで顔を覗き込んできた。
「イサンさん? 大丈夫ですか、さっきからずっとぼうっとしてますけど~」
指、何本あります? 眼前に三本の指――辛うじて、見える。先ほどまで何も見通せなかったはずなのに――を提示しながら小首を傾げている男をじい、と見つめる。
自分は、彼を知っている。
「……ホンル、くん」
「あ、気付きました? 良かったです~。近くまで来たのに全然反応してくれないから心配したんですよ~?」
脳裡に過った同僚の名を口にすると、いつもの人懐こい笑みを湛えたまま、さも当たり前のように長椅子の隣に腰掛ける青年はすらりと伸びた長い足を夜闇に悠々とぶらつかせながら、しかし心なしか優しい声色で続ける。
「何か、考え事でもしてたんです?」
――まるで、自分の考えていることは全てお見通しであると言わんばかりに。
これでは何も、だなんてとても言えなかった。
「……星に」
「うん?」
どのくらいの間、そうしていたのだろうか。おそらく瞑目していたのだろう眼瞼を上げた視界に、一等鮮やかに耀う光を見たような気がした。
「星に、会わまほし――と」
「星」反芻。ぱちり、瞬いた瞳が闇夜を仰ぐ。「……ああ、そういえば今日は全然見えませんね~」
星見ついでに星座の見方でも教えてもらおうと思ったのに、残念。そう言いながらもさほど落胆した素振りを見せない青年に、小さく頭を振る。
「されど、私の願いは叶いけり」
そうして――目の前の「星」に手を伸ばす。
指先を撫ぜた絹糸めいた漆黒はひやりと冷えていたけれど。
その先で触れた白皙の熱はじわりと、悴む指に染み入っていく。まるで溶けていくようだ――溶けてしまってもいい。
互いの息遣いすら共有出来る距離で、見つめ合う。
一瞬だけ動揺を映した双眸は、しばらくすると緩やかに細められる。
「……お目当てのものは見つかりました?」
「ああ、幸いにも態と其方より来たり」
「あははっ。……なら、もっと近くで見てもいいですよ?」
そう、戯けるように綻んだ彼の花唇に口付ける。触れるだけの接吻を一度、もう一度――一時の間を置いて、今度は彼から唇を寄せてきた。こういう時は目を瞑るのがマナーなのだと教えられていたものだから、彼が今、どのような顔をしているのか分からない――好奇心こそあったけれど、彼の矜持を暴くような禁忌を侵すのは憚られた。口付けを重ねるごとに、徐々に口唇を重ねている時間が長くなっていく。熱く蕩めくようなひと時。酸素が満足に行き渡らぬ脳髄は甘く痺れていた。
何よりも、決して離さぬとばかりに腰を掻き抱く腕の強さが――堪らなく、うれしい。
呼吸が弾み始めた頃、ようやく解放された身を、今度は強かに抱き竦められる。
「も~……何で不寝番の時に限って積極的なんですか?」
肩に埋められた彼の表情を窺うことは出来ない。
「不満なりや?」
「不満です~。こんな思いをして、この後一人で寝なきゃいけない僕の身にもなってくださいよ~」
それでも、普段に比べて余裕を欠いた彼の声色が――静寂の中だからこそ殊に、ひっきりなしに打ち慣らされる心音が、何よりも如実に彼の感情を表していて。
「……明日、皆さんが寝静まった夜に――待ってますから」
とうとう待ち焦がれた星の囁きに、年甲斐なく上気した顔をぎこちなく、しかしやおら縦に振った。
畳む
#LCB61
囚人と囚人
虫のささめきも息を潜める深き夜。耳を傾けるべき仲間達の語らいは、疾うに寝静まってしまった。鼓膜を鳴らす静寂の中、読書に耽ることすら難渋するほどの盲いたような 晦冥における唯一の暇潰しといえば、窓から覗く星彩を眺めることくらいだというのに。輝きの一粒たりとも見出せぬ、果てなく塗り潰された漆黒を仰ぎ見ては、暗々の内に零れ落ちた嘆息を夜気に溶かした。
不寝の番、長椅子に凭れたまま、一寸先さえ――己の輪郭さえも朧げな闇に身を委ねていると、もしやするとこの身はぐずぐずに融け果ててしまったのではないかという錯覚に陥る。ひとひらの光もない夜とは、ここまで心寒いものだったろうか。もはや目を開けているのか、瞑っているのかも曖昧な暗中において、触れることを許された座席の感触、硬質な硝子質の冷淡さ――抱え込んでいた自らの腕に、知らず知らず食い込む指の痛みだけが、自身が未だ人としての原型を留めているのだと教えてくれる証左となった。
思惟を途切れさせてはならない。ほんの瞬きの間でも自己を自己たりえる確固たるそれを「無」にしたが最後、ただでさえ薄弱としたこの意識は容易く呑まれ、漠然とした暗黒淵に沈むだろう。
声の出し方を忘れてしまった者の叫びなど、一体何人が聞き届けられよう。
「だ~れだ?」
両の目を覆った、柔らかなぬくもりがあった。不意打ちのように齎された自分以外の熱源に、途切れた思考は紡ぐべき言葉を見つけられずにいると、解放された視界のすぐ先で、犯人自ら浮かない面持ちで顔を覗き込んできた。
「イサンさん? 大丈夫ですか、さっきからずっとぼうっとしてますけど~」
指、何本あります? 眼前に三本の指――辛うじて、見える。先ほどまで何も見通せなかったはずなのに――を提示しながら小首を傾げている男をじい、と見つめる。
自分は、彼を知っている。
「……ホンル、くん」
「あ、気付きました? 良かったです~。近くまで来たのに全然反応してくれないから心配したんですよ~?」
脳裡に過った同僚の名を口にすると、いつもの人懐こい笑みを湛えたまま、さも当たり前のように長椅子の隣に腰掛ける青年はすらりと伸びた長い足を夜闇に悠々とぶらつかせながら、しかし心なしか優しい声色で続ける。
「何か、考え事でもしてたんです?」
――まるで、自分の考えていることは全てお見通しであると言わんばかりに。
これでは何も、だなんてとても言えなかった。
「……星に」
「うん?」
どのくらいの間、そうしていたのだろうか。おそらく瞑目していたのだろう眼瞼を上げた視界に、一等鮮やかに耀う光を見たような気がした。
「星に、会わまほし――と」
「星」反芻。ぱちり、瞬いた瞳が闇夜を仰ぐ。「……ああ、そういえば今日は全然見えませんね~」
星見ついでに星座の見方でも教えてもらおうと思ったのに、残念。そう言いながらもさほど落胆した素振りを見せない青年に、小さく頭を振る。
「されど、私の願いは叶いけり」
そうして――目の前の「星」に手を伸ばす。
指先を撫ぜた絹糸めいた漆黒はひやりと冷えていたけれど。
その先で触れた白皙の熱はじわりと、悴む指に染み入っていく。まるで溶けていくようだ――溶けてしまってもいい。
互いの息遣いすら共有出来る距離で、見つめ合う。
一瞬だけ動揺を映した双眸は、しばらくすると緩やかに細められる。
「……お目当てのものは見つかりました?」
「ああ、幸いにも態と其方より来たり」
「あははっ。……なら、もっと近くで見てもいいですよ?」
そう、戯けるように綻んだ彼の花唇に口付ける。触れるだけの接吻を一度、もう一度――一時の間を置いて、今度は彼から唇を寄せてきた。こういう時は目を瞑るのがマナーなのだと教えられていたものだから、彼が今、どのような顔をしているのか分からない――好奇心こそあったけれど、彼の矜持を暴くような禁忌を侵すのは憚られた。口付けを重ねるごとに、徐々に口唇を重ねている時間が長くなっていく。熱く蕩めくようなひと時。酸素が満足に行き渡らぬ脳髄は甘く痺れていた。
何よりも、決して離さぬとばかりに腰を掻き抱く腕の強さが――堪らなく、うれしい。
呼吸が弾み始めた頃、ようやく解放された身を、今度は強かに抱き竦められる。
「も~……何で不寝番の時に限って積極的なんですか?」
肩に埋められた彼の表情を窺うことは出来ない。
「不満なりや?」
「不満です~。こんな思いをして、この後一人で寝なきゃいけない僕の身にもなってくださいよ~」
それでも、普段に比べて余裕を欠いた彼の声色が――静寂の中だからこそ殊に、ひっきりなしに打ち慣らされる心音が、何よりも如実に彼の感情を表していて。
「……明日、皆さんが寝静まった夜に――待ってますから」
とうとう待ち焦がれた星の囁きに、年甲斐なく上気した顔をぎこちなく、しかしやおら縦に振った。
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#LCB61
純愛には果てなく遠い恋慕/ホンイサ ※R-18
黒雲会と剣契
黒雲会と剣契
夜はさむいからそばにいて/イサファウ ※R-18
囚人と囚人 ※「朝に照らされるだけの生命」の続き
囚人と囚人 ※「朝に照らされるだけの生命」の続き
朝に照らされるだけの生命/イサファウ
囚人と囚人
これは特段隠していたことではないのだけれど――とはいえ、告げたところで冗句か何かかと思われてまともに取り合われずに終わるだろう――かつてT社の巣にいた頃、懸想していた女性がいた。
開け放たれた窓から覗く、使い古したスケッチブックと向き合いながら、デッサンに励む彼女の様子を興味本位で何気なく眺めていると、白皙――白黒に彩られた世界では本来の色こそ分らなかったものの、色素の薄い女性だったことは覚えている――の横顔が此方を向いた、瞬間。それが出会いの始まりだった。
画家見習いだという彼女のスケッチを時折眺めながら、時折言葉を交わしたり。研究に没入するあまり、しばらく外出すらしない日々が続いた際は、いつの間にか己の所在を聞きつけた彼女が自室に押し入ったり。時には連れ出されて散歩や食事に付き合わされたりしたこともあった。
生まれてこの方巣を出たことがないという彼女は、いつか各地を巡って色とりどりの世界をこの目で見てみたいのだという。自身が持って生まれた色がどのようなものなのか確かめたい。
――イサンさんは、どんな色をしているのでしょうね。
首を傾げながら見つめてくる彼女に言葉が詰まる。自分の髪色は燃える紅葉を連想させる鮮烈な赤でもなければ、目だって宝石のような輝きを放つ青でもない。どちらも何の特徴もない黒色だ。楽しみにしていた分、かえって彼女を失望させてしまうのではないか。彼女がそういう人物ではないと知りながらも、後ろ向きな考えばかりに囚われて怖じ気付いては、ついぞ応えは返せなかった。
四カ月という短い期間だった。結局、別れを告げる猶予さえなかった彼女は今頃どうしているだろう。共に過ごした日々が遠い過去の記憶となって色褪せたとして、せめて何事もなく息災でいてくれたならば、それで構わなかった。
彼女の夢を応援したい。唯一の理解者でありたいと、傲慢にも思ってしまった対価だろうか――いや、意気地がなかっただけと言われば返す言葉がない。たとえ避けられぬ別れが訪れるとして、いずれ渡せたならばと買い求めた指輪は、九人会が瓦解し、白く四角い部屋で軟禁の日々を送り、そして奇しくも彼女の夢だった各地を巡る業務に携わるようになった現在に至るまで、未練がましくも捨てきれずに自分の手元に残っているのだから。
「……イサンさん、これは?」
書物や走り書きで乱雑になった作業台へ置き去りにしてしまっていた悔恨の欠片とも呼ぶべきそれを拾い上げたのは、自らをリンバス・カンパニーに勧誘した張本人だった。あの頃の輝きを損なうことなく、ランプの灯りを映したそれを色素の薄い双眸で観察しながら、疑問を口にする彼女を一瞥した眼差しが、無意識のうちにそっと外れる。
「心に懸かりせば、持ちゆくべし」
「大切なものでは?」
「……今の私には要なきものなり」
幸い、混じりけのない白金製の指輪だ。実験の触媒としての使い道だってあるだろうし、売却すれば雀の涙程度といえど経費の足しくらいにはなるだろう。何より、自ら手離すことが出来ずにいる執心との決別のきっかけになるのではないかと、自己本位な期待ばかりが頭の中で膨らんでいった。
その一件以降、手元から離れたそれがどうなったのか知る由はない。自分に知る権利はないのだと言い聞かせながらも、視線は知らず知らずのうちに彼女の手元へと向けられる。
――そして、その白魚のような指にあえかな煌きを見出せぬたび、自分勝手な落胆が胸中で浮かび上がっては重くのしかかった。
* * *
幾許かの時が流れ、胸裡を蝕んでいた痛みは多少なりとも和らぎを見せ始めた。
鏡ダンジョン攻略も終盤にさしかかり、敵の練度は勿論、猛攻の勢いも増すばかりである。
「ぐ……っ」
腹部を打ち据える蹴打と同時に、骨の軋む鈍い音が響いた。食道が熱く焼ける感覚。胃酸の逆流をぐっと押しとどめ、振り下ろされた刃を得物で受け止める。火花を散らし、いなした隙をつくようにして懐に飛び込んだ勢いのまま、無防備な喉仏へと刃を突き立てた。力任せに抜き取った傷口から噴出した血潮で白かったはずのシャツが赤く染まったことも気に留めず、呼吸を整えている精神的な余裕も与えられず、次の標的に意識を向けるべく振り返る。
振り返り、目の当たりにしてしまった。
――引き裂かれた胸元からおびただしい血を流し、今にも崩れ落ちそうになるファウストの姿を。
「ファウスト嬢!」
咄嗟に彼女の名を叫んでいた。この身を蝕む痛みも忘れ、もはや無我夢中で駆け抜けたようとした隣から響いた、鋭い剣戟。怪我は――していない。すぐ傍らで打ち鳴らされた舌打ちに意識を向ける。視界の端で短い茶髪が揺らめく様を見た。
心の内で礼を述べながら、危うく地面に頽れかけた華奢な肢体を抱き留める。ただでさえ白い肌は、止め処なく溢れた血のせいで殊更に色味を喪失している。大きく裂かれた衣服の隙間から覗く傷は、一目で致命傷であると判断出来るほど広く、深い。たとえダンテの時計が巻き戻されれば元通りになる身であれ、失血で震える彼女の様子を指を咥えて見守っているわけにもいかない。
少しでも凍える身を温めるべく自身の外套へと手をかけたところで――
「……あ」
此方を捉えた、焦点の合わない瞳。その顔色が、一層青褪める姿を見た。
「っ……見ないで……ください……!」
赤く染まった胸元を隠すようにして、普段であればほとんど感情を窺わせない声を震わせて懇願する彼女に動揺するも――は、と我に返る。許しもなく女性の柔肌に触れるのみにとどまらず、晒された乳房をまじまじと見つめるのは気が引けるが、今はそんなことを言っていられる状況ではないのは確かだ。後で誠心誠意謝るとして――彼女から許しを得られるかどうかについては別として――制止を振り切るように抱き寄せた。
恐怖か、それとも傷みゆえか。一層震えた柔い身体。その拍子に、谷間へと滑り落ちた――赤いぬめりを帯びてこそいたものの――細鎖に繋がれた見覚えのある輝きに、思考が止まってしまったのは流石に想定外だったが。
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#LCB0102
囚人と囚人
これは特段隠していたことではないのだけれど――とはいえ、告げたところで冗句か何かかと思われてまともに取り合われずに終わるだろう――かつてT社の巣にいた頃、懸想していた女性がいた。
開け放たれた窓から覗く、使い古したスケッチブックと向き合いながら、デッサンに励む彼女の様子を興味本位で何気なく眺めていると、白皙――白黒に彩られた世界では本来の色こそ分らなかったものの、色素の薄い女性だったことは覚えている――の横顔が此方を向いた、瞬間。それが出会いの始まりだった。
画家見習いだという彼女のスケッチを時折眺めながら、時折言葉を交わしたり。研究に没入するあまり、しばらく外出すらしない日々が続いた際は、いつの間にか己の所在を聞きつけた彼女が自室に押し入ったり。時には連れ出されて散歩や食事に付き合わされたりしたこともあった。
生まれてこの方巣を出たことがないという彼女は、いつか各地を巡って色とりどりの世界をこの目で見てみたいのだという。自身が持って生まれた色がどのようなものなのか確かめたい。
――イサンさんは、どんな色をしているのでしょうね。
首を傾げながら見つめてくる彼女に言葉が詰まる。自分の髪色は燃える紅葉を連想させる鮮烈な赤でもなければ、目だって宝石のような輝きを放つ青でもない。どちらも何の特徴もない黒色だ。楽しみにしていた分、かえって彼女を失望させてしまうのではないか。彼女がそういう人物ではないと知りながらも、後ろ向きな考えばかりに囚われて怖じ気付いては、ついぞ応えは返せなかった。
四カ月という短い期間だった。結局、別れを告げる猶予さえなかった彼女は今頃どうしているだろう。共に過ごした日々が遠い過去の記憶となって色褪せたとして、せめて何事もなく息災でいてくれたならば、それで構わなかった。
彼女の夢を応援したい。唯一の理解者でありたいと、傲慢にも思ってしまった対価だろうか――いや、意気地がなかっただけと言われば返す言葉がない。たとえ避けられぬ別れが訪れるとして、いずれ渡せたならばと買い求めた指輪は、九人会が瓦解し、白く四角い部屋で軟禁の日々を送り、そして奇しくも彼女の夢だった各地を巡る業務に携わるようになった現在に至るまで、未練がましくも捨てきれずに自分の手元に残っているのだから。
「……イサンさん、これは?」
書物や走り書きで乱雑になった作業台へ置き去りにしてしまっていた悔恨の欠片とも呼ぶべきそれを拾い上げたのは、自らをリンバス・カンパニーに勧誘した張本人だった。あの頃の輝きを損なうことなく、ランプの灯りを映したそれを色素の薄い双眸で観察しながら、疑問を口にする彼女を一瞥した眼差しが、無意識のうちにそっと外れる。
「心に懸かりせば、持ちゆくべし」
「大切なものでは?」
「……今の私には要なきものなり」
幸い、混じりけのない白金製の指輪だ。実験の触媒としての使い道だってあるだろうし、売却すれば雀の涙程度といえど経費の足しくらいにはなるだろう。何より、自ら手離すことが出来ずにいる執心との決別のきっかけになるのではないかと、自己本位な期待ばかりが頭の中で膨らんでいった。
その一件以降、手元から離れたそれがどうなったのか知る由はない。自分に知る権利はないのだと言い聞かせながらも、視線は知らず知らずのうちに彼女の手元へと向けられる。
――そして、その白魚のような指にあえかな煌きを見出せぬたび、自分勝手な落胆が胸中で浮かび上がっては重くのしかかった。
* * *
幾許かの時が流れ、胸裡を蝕んでいた痛みは多少なりとも和らぎを見せ始めた。
鏡ダンジョン攻略も終盤にさしかかり、敵の練度は勿論、猛攻の勢いも増すばかりである。
「ぐ……っ」
腹部を打ち据える蹴打と同時に、骨の軋む鈍い音が響いた。食道が熱く焼ける感覚。胃酸の逆流をぐっと押しとどめ、振り下ろされた刃を得物で受け止める。火花を散らし、いなした隙をつくようにして懐に飛び込んだ勢いのまま、無防備な喉仏へと刃を突き立てた。力任せに抜き取った傷口から噴出した血潮で白かったはずのシャツが赤く染まったことも気に留めず、呼吸を整えている精神的な余裕も与えられず、次の標的に意識を向けるべく振り返る。
振り返り、目の当たりにしてしまった。
――引き裂かれた胸元からおびただしい血を流し、今にも崩れ落ちそうになるファウストの姿を。
「ファウスト嬢!」
咄嗟に彼女の名を叫んでいた。この身を蝕む痛みも忘れ、もはや無我夢中で駆け抜けたようとした隣から響いた、鋭い剣戟。怪我は――していない。すぐ傍らで打ち鳴らされた舌打ちに意識を向ける。視界の端で短い茶髪が揺らめく様を見た。
心の内で礼を述べながら、危うく地面に頽れかけた華奢な肢体を抱き留める。ただでさえ白い肌は、止め処なく溢れた血のせいで殊更に色味を喪失している。大きく裂かれた衣服の隙間から覗く傷は、一目で致命傷であると判断出来るほど広く、深い。たとえダンテの時計が巻き戻されれば元通りになる身であれ、失血で震える彼女の様子を指を咥えて見守っているわけにもいかない。
少しでも凍える身を温めるべく自身の外套へと手をかけたところで――
「……あ」
此方を捉えた、焦点の合わない瞳。その顔色が、一層青褪める姿を見た。
「っ……見ないで……ください……!」
赤く染まった胸元を隠すようにして、普段であればほとんど感情を窺わせない声を震わせて懇願する彼女に動揺するも――は、と我に返る。許しもなく女性の柔肌に触れるのみにとどまらず、晒された乳房をまじまじと見つめるのは気が引けるが、今はそんなことを言っていられる状況ではないのは確かだ。後で誠心誠意謝るとして――彼女から許しを得られるかどうかについては別として――制止を振り切るように抱き寄せた。
恐怖か、それとも傷みゆえか。一層震えた柔い身体。その拍子に、谷間へと滑り落ちた――赤いぬめりを帯びてこそいたものの――細鎖に繋がれた見覚えのある輝きに、思考が止まってしまったのは流石に想定外だったが。
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#LCB0102
その指で灯してくれよ/ホンイサ ※R-18
囚人と囚人
囚人と囚人
傷のひめごと/イサファウ
囚人と囚人
新たに発見された鏡ダンジョンから戻る頃には、すでに太陽はとっぷりと暮れ始めていた。黄昏の色に染まる空を見上げては、全員が五体満足での帰還を果たしたことに内心胸を撫で下ろす。今回の探索は想定した以上に長丁場になってしまった。どっと押し寄せる疲労感の中、今日はバスに戻り次第、そのまま本日の業務終了を宣言してしまおうか――そのようなことを考えながら、先程まで激しい攻防を繰り広げていた囚人達の様子を密かに窺う。戦闘時に纏っていた人格を剥ぎ取り、本来の姿に戻ったばかりの彼等は疲れた、腹が減った等と思い思いの言葉を口にしている。もはや狂信と呼んで相違ない信仰を説いて回ることもなければ、常に自身を苛み続ける頭痛と精神汚染に呻き苦しむこともない。いっそ安堵すら覚えるほど、いつも通りの光景だ。
「……――」
――音を成さぬ呟きを虚空に溶かした、囚人一名を除いて。
〈イサン?〉
一見した限りでは沈思黙考に耽っているようにも見えて、口元を押さえたまま俯く青年の名を呼んだ。ただでさえ血色の悪い白皙の顔は目に見えて青褪めてしまっている。
〈イサン、大丈夫?〉
もう一度彼の名を呼ぶと、今度こそ緩慢な動作で此方を捉えた射干玉色の双眸が動揺に揺れ動いた――その直前、一瞬だけ見せた視線を見逃すことはなかった。無防備に晒された心臓を刃で斬り裂かれるような、混じりけのない純然たる殺意が籠ったそれに、脊髄に冷水を注ぎ込まれる感覚に気圧されかけた心を奮い立たせ、時針を鳴らす。
〈……辛いようだったら、アフターチームを呼んでもらおうか?〉
「否……否」イサンは頭を振る。頭の痛みを堪え忍ぶように深く息を吸い、吐い、ようやく上げた顔は努めて感情を排除していたけれど、隠しきれない疲労と憂いが滲んでいることは明らかだった。「大事なし。すなわち癒ゆ」
まるで過去に逆戻りしてしまったのではないかと錯覚するほど、イサンは何人との接触からも距離を置こうとしている。彼が何故そうすべきだと判断したのか、確信めいたものがあったからこそ、ダンテはこれ以上彼にかけるべき言葉を言いあぐねていた。
きっと、対象は何だって構わない。行く手に立ちはだかる幻想体でも、面談のために派遣されたアフターチームでも、苦楽を共にしてきた囚人でも――それこそ、管理人たるダンテでさえ例外ではないのかも知れない。
足りぬのだと。あの時、紡がれた呟きこそ聞こえなかったけれど、彼の唇はそう模られていた。
彼は彼自身の意思とは関係なく、何かをくだくだに斬り刻みたくて仕方がないのだ。
だからこそ、イサンは自身に孤独であることを強要しようとしている。
皆に対して誰よりも心を砕くような優しい彼が、誰かを傷つける行為をよしとするはずなどなかった。
〈……とりあえず、今はバスへ戻ろう。歩ける?〉
とはいえ、この状態の彼をそうそう放置出来るわけもない。何か己に出来ることはないのだろうかと思索を巡らせる傍ら、込み上げる無力感を呑み下しながら、投げかけた問いを肯定するようにイサンは小さく頷いた。
――もし幸いがあるとしたら、彼を気にかけていたのがダンテだけではなかったという事実だろうか。
* * *
本来、囚人の管理、統率は管理人であるダンテの管轄であり、案内人ならば兎も角として他の囚人が踏み込むべきでない領分であることは確かだ。しかし、身の安全を優先すべき管理人を害する可能性があるというのならば、その限りではない。
――それに、剣契の人格から元に戻った後、垣間見せた彼の精神状態が気にならなかったのかと問われれば、確かにそれは嘘になった。
「イサンさん、ファウストです」
収容室めいた扉の前に立ったファウストは、備え付けられた照明が茫洋と輪郭を映し出すそれを叩きながら、部屋の主たる囚人の名を呼ぶ。返事はなく、沈黙ばかりが返ってくる扉のノブに手をかけると、僅かに力を籠めただけでそれは抵抗もなく回り、いとも容易く向こう側へと繋がった。鍵をかけ忘れるとは、あまりに不用心ではなかろうか。それとも、施錠するだけの余裕が彼に残されていなかったのか――頭を過る一抹の不安が杞憂であれば良いと願った。
しかし、鼻について離れない鉄の臭いに、これが現実であることを嫌というほどに突きつけた。開け放たれた扉から射し込む灯りのみが照らす薄暗い室内、足の踏み場がないほど乱雑に散らばった書類と書物の中、頽れるように座り込んだ青年の後ろ姿を視線が捉える。一歩、一歩と歩み寄るたび、イサンが手にしているものが彼の得物であることが分かった。
もう一歩、近付く。とうとう自我を取り戻した彼の顔が、ゆっくりと此方を振り向いた。
「……ファウスト嬢?」
はっきりと、見てしまった。すっかり憔悴しきった彼の顔を。
左手首に刻まれた切り傷から、目を焼くほど鮮やかな赤い色が止め処なく滲み出る様を。
右手に握られたままの短剣の刃に血が付着している状況から、イサン本人が自らを傷付けたことは明白だった。屈み込みながら彼の左手に触れた途端、怯えにも似た震えが皮膚越しに伝わってくる。まるで壊れ物でも扱うかのように、体温の低い手のひらをそうっと包み込むようにして、今しがた刻まれたばかりの傷口を診た。傷自体はやや深めでこそあるが、真皮までは達していない。この程度で死に至るようなことはまずないに等しいが、たとえ彼が失血死したところで、ダンテが時計の針を巻き戻しさえすれば済む話だ。
「……しびれはありませんか?」
イサンはやおら首肯する。
「動かしにくさは?」
「……否」
自分の手の中で、男性にしては華奢な指が開き、閉じられる。動きに問題はない。幸い、神経までは傷付けていないようだ。恐らく、混濁する意識の中でありながら敢えて外したのだろう――流石は天才と言ったところか。
「とりあえずダンテのところへ行きましょう」
ハンカチで押さえた創部を強く圧迫すると、耐え忍ぶように僅かに息を詰める声が鼓膜を震わせる。今日はダンテが不寝番だ。彼の能力があれば、イサンが付けた傷は即座に「なかった」ものにされる。そうすれば、精神面は兎も角として、身体面で明日の業務に支障が出ることはない。しかし当の彼は俯いたまま、頑なに首を縦に振ろうとはしなかった。
「業務のために必要なことです。どうかご理解ください」
「しかし」
「……このまま傷が化膿する可能性もあります。痕が残ってしまうかも知れません」
イサンがダンテに対して、この件に関する報告を躊躇っているのは、単に自分自身を傷付けてしまった事実を秘匿したいだけではないことは理解に容易い。彼はただ、ダンテを含めた囚人全員に――この光景を目撃していなければ、その中にファウスト本人も含まれていたに違いない――自身の危うい状態を見られたくなかった。皆に心配をさせまいという一心だっただけだ。
たとえ我が身が苦痛に蝕まれようとも、イサンという囚人は声を上げることなく、全てをひた隠しにしようとすることだろう。それほどの器用さと演技力を持ち合わせていない事実は、彼自身が一番知っているだろうに。
だからこそ、切実な色を帯びた黒い眼差しに見つめられると、己が執るべき判断を見誤りそうになる。
無言で逡巡を重ねている間にも、布地に滲む彼の血は刻一刻と乾き、黒く変色していく。
「……ついてきてください」
ファウストは廊下を一瞥し、誰もいないことを確認すると、イサンの手を引いて部屋を飛び出した。
* * *
辿り着いたのは、静寂に包まれた医務室だった。
「このまま押さえていてください」
消毒液の臭いばかりが漂うその場所で、イサンを適当な椅子に座らせるや否や、備え付けられた棚を物色し始める。ここならば、傷の処置に必要な物品は大抵揃うはずだ。滅菌済みの縫合糸、縫合針、持針器にピンセット――良かった、局所麻酔薬のアンプルも見つけられた。消毒した手指を手袋で覆う。開放した切創を生理食塩液で可能な限り洗浄し、周辺皮膚まで入念に消毒液を塗布し終えた後、医務室にあるもので最も細い注射針を取り付けたシリンジに薬液を充填する様子を、僅かに眉を顰めながらも彼は黙って見ていた。
「今から麻酔を施します。少し痛むと思いますが、耐えてください」
「……言うに及ばず」
イサンの応えに頷くと、ファウストはおもむろに針先を傷に向ける。消毒液が乾燥していることを目視で確認し、創部の端に注射針を刺入した瞬間、押さえていた手が微かに震えた。緩慢な速度で局所麻酔を注入するたび、呻きを漏らしそうになる口唇は強く結ばれ、注入が一段落するたびに綻びては、細い吐息を零す。しばらくすると少しずつ麻酔が効いてきたのか、それとも断続的に与えられる痛みに知覚が鈍麻してきたのか――固く強ばっていた表情が徐々に凪いでいく様を見て、無意識のうちに寄せていた愁眉を開いた。
慎重に創へと縫合針を通し、縫い、結ぶ。刺入部から珠のように浮かび上がる血を滅菌ガーゼで時折拭いながら、一連の動作を粛々と繰り返していく。
ようやく折り返し地点に到達したところで、ふと目線を彼に向けてみた。
「……痛みはありませんか?」
「大事なし」
「そうですか」
少なくとも、嘘を言っているようには見えない――それなら良かったですと、口を衝いて出かけた言葉を喉奥にしまい、目の前の作業に集中することとした。
「……ファウスト嬢。その技術、如何にして?」
「ファウストは優秀なので」
頭上から不意打ちのように投げかけられた問いへ、目も合わせぬまま紡ぎ出した言葉は――たとえそれが事実であるとはいえ――とても回答の体を成していなかっただろうに。
「成程……さなり」
ふ、と噴出された笑い。右手で隠した口角をあえかに緩めながら、彼が紡ぐ言葉には決して嘲りも憐憫も含まれていない。ただただ純粋な賞賛に、あたたかいものが灯るような感覚を覚えた。
些か不格好であることは否めないが、丁寧に閉じ終えた縫合創へフィルムドレッシング剤を貼り付ける。
「後ほど抗菌薬と鎮痛薬を用意しましょう。一日三回、忘れずに内服してください」
「かたじけなし」
青年の眼差しが、処置を終えたばかりの傷から治療器具の片付けを行う同僚へと移された。深い感謝の念を惜しまぬそれに、当然の成果であると自負しながらもまんざらでもない心地を抱いたことに対して否定はしないが――己を律するように咳払いをひとつ。
「ファウストが行ったのは、飽くまで創の処置だけです。今回の件については、管理人様への報告は必ず行ってもらいますよう」
「無論、承知せり」
囚人が業務遂行にあたり何らかのトラブルが生じた場合、管理人であるダンテへの報告義務が発生する。今回の人格混濁の件といい、自傷の件といい、いずれも可及的速やかに管理人への報告がなされて然るべき「トラブル」だが、囚人本人の精神状態を鑑みて此方も最大限譲渡したのだ。彼にも最低限の規則だけは遵守してもらわなければならない。
それに――他でもないイサン自身から報告を受けた方が、彼の件で随分と気を揉んでいた様子のダンテも安心するだろう。少なくとも、彼が嘘を吐くことはないだろうけれど、後日改めてダンテに確認をすることにして、洗浄した器具を消毒液で満たされた槽に沈めた。
「……明日の業務終了後、傷の確認に伺います」
「うむ。――時に、ファウスト嬢」
「はい」
まだ他に話すべき事項はあったろうか。小首を傾げながら、続く言葉を待った。
「カウヒイと茶……そなたはいずかたや好みなるや?」
「……ファウストはお茶をしにいくわけではないのですが」
――やはり、彼を前にすると調子を狂わされてしまう。
* * *
傷の処置を施した夜から、すでに数日が経過していた。創部の治癒過程も問題なく、多少の傷跡は残るものの、それも徐々に目立たない程度には消失していくだろう。そういえば本日の業務行動中に裏路地の露店前で、真剣な眼差しをしたイサンがロージャと話している姿を見かけたものの、果たしてどのような会話をしているのか、会話の内容までは聞き取れなかった。
「ダンテ」
〈……うん?〉
業務自体に支障が出るわけではないが、ほんの僅かな疎外感を頭の外に追いやり、あの夜と同じように不寝番をしていた管理人のもとへと歩を進める。近付く足音に気付いたのだろう、ゆるりと振り返った時計頭が小さく傾いた。当然のように隣の座席へ腰かけながら、彼が持つLCB-PDAを覗き込む。今日も記録をしたためていたのだろうか。
二人の間に訪れた、しばしの静寂。さすがに沈黙に耐えかねたのか、頻りに此方の様子を窺ってくる視線――目もないのに「視線」と称していいものかまでは疑問だけれど――を意に介さず、自身のペースを崩さず口を開く。
「……今回の件、イサンさんからの報告はありましたか?」
〈今回、と言うと傷のこと?〉ダンテは首を縦に振る。〈数日前にね。自分で傷つけたって聞いた時は驚いたけれど……傷は勿論、精神的にもだいぶ持ち直したみたいで安心した〉
「そうですか」
〈ファウストさんが処置してくれたんだろう? イサンも感謝してたよ〉
改めて、それも本人以外の第三者からそのように言葉にされると、多少なりとも面映いものがある。悟られぬようポーカーフェイスに努めようとする傍ら。
〈……そういえば〉
端末に視線を落としていたダンテが、唐突に何かを思い出したかのように顔を上げ、ダンテは続けた。
〈イサンに傷を見せてもらおうと思ったら、断られたんだ――これは二人だけの秘密だからって〉
思いも寄らぬ発言。一体自分は今、どのような顔をしているのだろう。
不意に、圧迫止血の際に用いたハンカチのことが脳裡を過る。イサンの血で黒く変色してしまったため、やむを得ず破棄したそれを、いずれは弁償させて欲しいとイサン本人が話していたことを何故、今思い出したのだろう。
「イサンさんがそう言ったのでしょう?」
ロージャ。露店。まさかとは思うが。
「……ならば、秘密です」
――本当に。彼のことになると調子を狂わされてしまう。
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#LCB0102
囚人と囚人
新たに発見された鏡ダンジョンから戻る頃には、すでに太陽はとっぷりと暮れ始めていた。黄昏の色に染まる空を見上げては、全員が五体満足での帰還を果たしたことに内心胸を撫で下ろす。今回の探索は想定した以上に長丁場になってしまった。どっと押し寄せる疲労感の中、今日はバスに戻り次第、そのまま本日の業務終了を宣言してしまおうか――そのようなことを考えながら、先程まで激しい攻防を繰り広げていた囚人達の様子を密かに窺う。戦闘時に纏っていた人格を剥ぎ取り、本来の姿に戻ったばかりの彼等は疲れた、腹が減った等と思い思いの言葉を口にしている。もはや狂信と呼んで相違ない信仰を説いて回ることもなければ、常に自身を苛み続ける頭痛と精神汚染に呻き苦しむこともない。いっそ安堵すら覚えるほど、いつも通りの光景だ。
「……――」
――音を成さぬ呟きを虚空に溶かした、囚人一名を除いて。
〈イサン?〉
一見した限りでは沈思黙考に耽っているようにも見えて、口元を押さえたまま俯く青年の名を呼んだ。ただでさえ血色の悪い白皙の顔は目に見えて青褪めてしまっている。
〈イサン、大丈夫?〉
もう一度彼の名を呼ぶと、今度こそ緩慢な動作で此方を捉えた射干玉色の双眸が動揺に揺れ動いた――その直前、一瞬だけ見せた視線を見逃すことはなかった。無防備に晒された心臓を刃で斬り裂かれるような、混じりけのない純然たる殺意が籠ったそれに、脊髄に冷水を注ぎ込まれる感覚に気圧されかけた心を奮い立たせ、時針を鳴らす。
〈……辛いようだったら、アフターチームを呼んでもらおうか?〉
「否……否」イサンは頭を振る。頭の痛みを堪え忍ぶように深く息を吸い、吐い、ようやく上げた顔は努めて感情を排除していたけれど、隠しきれない疲労と憂いが滲んでいることは明らかだった。「大事なし。すなわち癒ゆ」
まるで過去に逆戻りしてしまったのではないかと錯覚するほど、イサンは何人との接触からも距離を置こうとしている。彼が何故そうすべきだと判断したのか、確信めいたものがあったからこそ、ダンテはこれ以上彼にかけるべき言葉を言いあぐねていた。
きっと、対象は何だって構わない。行く手に立ちはだかる幻想体でも、面談のために派遣されたアフターチームでも、苦楽を共にしてきた囚人でも――それこそ、管理人たるダンテでさえ例外ではないのかも知れない。
足りぬのだと。あの時、紡がれた呟きこそ聞こえなかったけれど、彼の唇はそう模られていた。
彼は彼自身の意思とは関係なく、何かをくだくだに斬り刻みたくて仕方がないのだ。
だからこそ、イサンは自身に孤独であることを強要しようとしている。
皆に対して誰よりも心を砕くような優しい彼が、誰かを傷つける行為をよしとするはずなどなかった。
〈……とりあえず、今はバスへ戻ろう。歩ける?〉
とはいえ、この状態の彼をそうそう放置出来るわけもない。何か己に出来ることはないのだろうかと思索を巡らせる傍ら、込み上げる無力感を呑み下しながら、投げかけた問いを肯定するようにイサンは小さく頷いた。
――もし幸いがあるとしたら、彼を気にかけていたのがダンテだけではなかったという事実だろうか。
* * *
本来、囚人の管理、統率は管理人であるダンテの管轄であり、案内人ならば兎も角として他の囚人が踏み込むべきでない領分であることは確かだ。しかし、身の安全を優先すべき管理人を害する可能性があるというのならば、その限りではない。
――それに、剣契の人格から元に戻った後、垣間見せた彼の精神状態が気にならなかったのかと問われれば、確かにそれは嘘になった。
「イサンさん、ファウストです」
収容室めいた扉の前に立ったファウストは、備え付けられた照明が茫洋と輪郭を映し出すそれを叩きながら、部屋の主たる囚人の名を呼ぶ。返事はなく、沈黙ばかりが返ってくる扉のノブに手をかけると、僅かに力を籠めただけでそれは抵抗もなく回り、いとも容易く向こう側へと繋がった。鍵をかけ忘れるとは、あまりに不用心ではなかろうか。それとも、施錠するだけの余裕が彼に残されていなかったのか――頭を過る一抹の不安が杞憂であれば良いと願った。
しかし、鼻について離れない鉄の臭いに、これが現実であることを嫌というほどに突きつけた。開け放たれた扉から射し込む灯りのみが照らす薄暗い室内、足の踏み場がないほど乱雑に散らばった書類と書物の中、頽れるように座り込んだ青年の後ろ姿を視線が捉える。一歩、一歩と歩み寄るたび、イサンが手にしているものが彼の得物であることが分かった。
もう一歩、近付く。とうとう自我を取り戻した彼の顔が、ゆっくりと此方を振り向いた。
「……ファウスト嬢?」
はっきりと、見てしまった。すっかり憔悴しきった彼の顔を。
左手首に刻まれた切り傷から、目を焼くほど鮮やかな赤い色が止め処なく滲み出る様を。
右手に握られたままの短剣の刃に血が付着している状況から、イサン本人が自らを傷付けたことは明白だった。屈み込みながら彼の左手に触れた途端、怯えにも似た震えが皮膚越しに伝わってくる。まるで壊れ物でも扱うかのように、体温の低い手のひらをそうっと包み込むようにして、今しがた刻まれたばかりの傷口を診た。傷自体はやや深めでこそあるが、真皮までは達していない。この程度で死に至るようなことはまずないに等しいが、たとえ彼が失血死したところで、ダンテが時計の針を巻き戻しさえすれば済む話だ。
「……しびれはありませんか?」
イサンはやおら首肯する。
「動かしにくさは?」
「……否」
自分の手の中で、男性にしては華奢な指が開き、閉じられる。動きに問題はない。幸い、神経までは傷付けていないようだ。恐らく、混濁する意識の中でありながら敢えて外したのだろう――流石は天才と言ったところか。
「とりあえずダンテのところへ行きましょう」
ハンカチで押さえた創部を強く圧迫すると、耐え忍ぶように僅かに息を詰める声が鼓膜を震わせる。今日はダンテが不寝番だ。彼の能力があれば、イサンが付けた傷は即座に「なかった」ものにされる。そうすれば、精神面は兎も角として、身体面で明日の業務に支障が出ることはない。しかし当の彼は俯いたまま、頑なに首を縦に振ろうとはしなかった。
「業務のために必要なことです。どうかご理解ください」
「しかし」
「……このまま傷が化膿する可能性もあります。痕が残ってしまうかも知れません」
イサンがダンテに対して、この件に関する報告を躊躇っているのは、単に自分自身を傷付けてしまった事実を秘匿したいだけではないことは理解に容易い。彼はただ、ダンテを含めた囚人全員に――この光景を目撃していなければ、その中にファウスト本人も含まれていたに違いない――自身の危うい状態を見られたくなかった。皆に心配をさせまいという一心だっただけだ。
たとえ我が身が苦痛に蝕まれようとも、イサンという囚人は声を上げることなく、全てをひた隠しにしようとすることだろう。それほどの器用さと演技力を持ち合わせていない事実は、彼自身が一番知っているだろうに。
だからこそ、切実な色を帯びた黒い眼差しに見つめられると、己が執るべき判断を見誤りそうになる。
無言で逡巡を重ねている間にも、布地に滲む彼の血は刻一刻と乾き、黒く変色していく。
「……ついてきてください」
ファウストは廊下を一瞥し、誰もいないことを確認すると、イサンの手を引いて部屋を飛び出した。
* * *
辿り着いたのは、静寂に包まれた医務室だった。
「このまま押さえていてください」
消毒液の臭いばかりが漂うその場所で、イサンを適当な椅子に座らせるや否や、備え付けられた棚を物色し始める。ここならば、傷の処置に必要な物品は大抵揃うはずだ。滅菌済みの縫合糸、縫合針、持針器にピンセット――良かった、局所麻酔薬のアンプルも見つけられた。消毒した手指を手袋で覆う。開放した切創を生理食塩液で可能な限り洗浄し、周辺皮膚まで入念に消毒液を塗布し終えた後、医務室にあるもので最も細い注射針を取り付けたシリンジに薬液を充填する様子を、僅かに眉を顰めながらも彼は黙って見ていた。
「今から麻酔を施します。少し痛むと思いますが、耐えてください」
「……言うに及ばず」
イサンの応えに頷くと、ファウストはおもむろに針先を傷に向ける。消毒液が乾燥していることを目視で確認し、創部の端に注射針を刺入した瞬間、押さえていた手が微かに震えた。緩慢な速度で局所麻酔を注入するたび、呻きを漏らしそうになる口唇は強く結ばれ、注入が一段落するたびに綻びては、細い吐息を零す。しばらくすると少しずつ麻酔が効いてきたのか、それとも断続的に与えられる痛みに知覚が鈍麻してきたのか――固く強ばっていた表情が徐々に凪いでいく様を見て、無意識のうちに寄せていた愁眉を開いた。
慎重に創へと縫合針を通し、縫い、結ぶ。刺入部から珠のように浮かび上がる血を滅菌ガーゼで時折拭いながら、一連の動作を粛々と繰り返していく。
ようやく折り返し地点に到達したところで、ふと目線を彼に向けてみた。
「……痛みはありませんか?」
「大事なし」
「そうですか」
少なくとも、嘘を言っているようには見えない――それなら良かったですと、口を衝いて出かけた言葉を喉奥にしまい、目の前の作業に集中することとした。
「……ファウスト嬢。その技術、如何にして?」
「ファウストは優秀なので」
頭上から不意打ちのように投げかけられた問いへ、目も合わせぬまま紡ぎ出した言葉は――たとえそれが事実であるとはいえ――とても回答の体を成していなかっただろうに。
「成程……さなり」
ふ、と噴出された笑い。右手で隠した口角をあえかに緩めながら、彼が紡ぐ言葉には決して嘲りも憐憫も含まれていない。ただただ純粋な賞賛に、あたたかいものが灯るような感覚を覚えた。
些か不格好であることは否めないが、丁寧に閉じ終えた縫合創へフィルムドレッシング剤を貼り付ける。
「後ほど抗菌薬と鎮痛薬を用意しましょう。一日三回、忘れずに内服してください」
「かたじけなし」
青年の眼差しが、処置を終えたばかりの傷から治療器具の片付けを行う同僚へと移された。深い感謝の念を惜しまぬそれに、当然の成果であると自負しながらもまんざらでもない心地を抱いたことに対して否定はしないが――己を律するように咳払いをひとつ。
「ファウストが行ったのは、飽くまで創の処置だけです。今回の件については、管理人様への報告は必ず行ってもらいますよう」
「無論、承知せり」
囚人が業務遂行にあたり何らかのトラブルが生じた場合、管理人であるダンテへの報告義務が発生する。今回の人格混濁の件といい、自傷の件といい、いずれも可及的速やかに管理人への報告がなされて然るべき「トラブル」だが、囚人本人の精神状態を鑑みて此方も最大限譲渡したのだ。彼にも最低限の規則だけは遵守してもらわなければならない。
それに――他でもないイサン自身から報告を受けた方が、彼の件で随分と気を揉んでいた様子のダンテも安心するだろう。少なくとも、彼が嘘を吐くことはないだろうけれど、後日改めてダンテに確認をすることにして、洗浄した器具を消毒液で満たされた槽に沈めた。
「……明日の業務終了後、傷の確認に伺います」
「うむ。――時に、ファウスト嬢」
「はい」
まだ他に話すべき事項はあったろうか。小首を傾げながら、続く言葉を待った。
「カウヒイと茶……そなたはいずかたや好みなるや?」
「……ファウストはお茶をしにいくわけではないのですが」
――やはり、彼を前にすると調子を狂わされてしまう。
* * *
傷の処置を施した夜から、すでに数日が経過していた。創部の治癒過程も問題なく、多少の傷跡は残るものの、それも徐々に目立たない程度には消失していくだろう。そういえば本日の業務行動中に裏路地の露店前で、真剣な眼差しをしたイサンがロージャと話している姿を見かけたものの、果たしてどのような会話をしているのか、会話の内容までは聞き取れなかった。
「ダンテ」
〈……うん?〉
業務自体に支障が出るわけではないが、ほんの僅かな疎外感を頭の外に追いやり、あの夜と同じように不寝番をしていた管理人のもとへと歩を進める。近付く足音に気付いたのだろう、ゆるりと振り返った時計頭が小さく傾いた。当然のように隣の座席へ腰かけながら、彼が持つLCB-PDAを覗き込む。今日も記録をしたためていたのだろうか。
二人の間に訪れた、しばしの静寂。さすがに沈黙に耐えかねたのか、頻りに此方の様子を窺ってくる視線――目もないのに「視線」と称していいものかまでは疑問だけれど――を意に介さず、自身のペースを崩さず口を開く。
「……今回の件、イサンさんからの報告はありましたか?」
〈今回、と言うと傷のこと?〉ダンテは首を縦に振る。〈数日前にね。自分で傷つけたって聞いた時は驚いたけれど……傷は勿論、精神的にもだいぶ持ち直したみたいで安心した〉
「そうですか」
〈ファウストさんが処置してくれたんだろう? イサンも感謝してたよ〉
改めて、それも本人以外の第三者からそのように言葉にされると、多少なりとも面映いものがある。悟られぬようポーカーフェイスに努めようとする傍ら。
〈……そういえば〉
端末に視線を落としていたダンテが、唐突に何かを思い出したかのように顔を上げ、ダンテは続けた。
〈イサンに傷を見せてもらおうと思ったら、断られたんだ――これは二人だけの秘密だからって〉
思いも寄らぬ発言。一体自分は今、どのような顔をしているのだろう。
不意に、圧迫止血の際に用いたハンカチのことが脳裡を過る。イサンの血で黒く変色してしまったため、やむを得ず破棄したそれを、いずれは弁償させて欲しいとイサン本人が話していたことを何故、今思い出したのだろう。
「イサンさんがそう言ったのでしょう?」
ロージャ。露店。まさかとは思うが。
「……ならば、秘密です」
――本当に。彼のことになると調子を狂わされてしまう。
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#LCB0102
ぽんぽん派とセブン協会
「はい、これがご所望だった情報です」
さも当たり前のように眼前に提示された紙束を見つめる。一向に受け取る気配のない相手を不思議に思ったのだろうか。満面の笑みを、どこか童めいた面持ちに変えて、向かい合う青年はきょとんと首を傾げた。
「……あ、もしかして偽物だって疑ってます? それなら、ゆぅっくりと吟味してくれて構いませんよ~」
そうして、半ば強引に握らされたそれの表紙へと、気が進まないながらも手を伸ばす。ぽんぽん派――何度聞いても巫山戯た名だが、これでもれっきとしたJ社裏路地のカジノを牛耳るマフィアの一つだ――の傘下にある組織によって密かに売買されているという違法薬物の入手および流通経路の詳細、顧客名簿、等々。情報の正確性については実際に調査、精査してみない限りはいかんとも言い難いが、中には慎重を期すためにも公にしていないはずの――自身も情報収集に携わった売人達のリストまでご丁寧に纏められていて、虚偽と切り捨ててしまうにはあまりに内容が緻密過ぎた。
「……確かに、私の欲せし情報と違わず」
「ふふっ、なら良かったです~。中々の力作でしょう?」
だが――それならば、なおのこと理解に苦しむと言わざるを得ない。
「これでは、そなたの言出でし条件と矛盾せずや?」
条件。そう、条件。多少のリスクを冒してでも意図的にぽんぽん派の目につくように行動したのも、連行されるようにして赴いた本拠地でマフィアのボスとの賭けポーカーの誘いに応じたのも、全ては意味があってのことだ。
自分が勝てば、傘下組織の情報が手に入る。
ボスが勝てば、曰く「僕の好きにさせてもらいます」――有り体に言えば、拒否出来ない絶対条件を一つ、己に対して提示するつもりなのだろう。
明らかに釣り合いの取れていない条件だが、それでも探し求めていた情報を前にしてどうして背を向けられようか。
結果として、自分は賭けに負けた。しかし、負けたにもかかわらず、賭けの報酬は確かにこの手の内にある。
「あ~……」間延びした、暢気な声を上げながらボスは続ける。「僕が勝ったら、好きにさせてもらうと言ったでしょう? だから『好き』にさせてもらいました」
それが当然の行いであるかのように、あっけらかんとした微笑を湛えながら言うのだから、その言葉の真意を咀嚼するまでに些かの時間を要してしまった。
一寸して、ようやく自分が彼の手のひらで転がされていたのだと悟る。
「……始めより、セブン協会に情報を渡さむとせりや」
「ご明察」
色違いの目を細める美しい男は、たおやかに笑みを深めた。
おそらく、この件に関しては我々が調査するよりもずっと前から、内々で調査を進めていたのだろう。ぽんぽん派が手中に置いている組織の情報を易々と口外するとは思っていない。そんなことをしてしまえば折角の資金源を失うことになる上、情報漏洩への関与をまっさきに嫌疑の目を向けられるリスクを鑑みたならば、当然と言えば当然だろう。ましてや今回の自分のように、何処ぞより紛れ込み、周囲を嗅ぎ回っている「ネズミ」は迅速に片付けてしまった方が組織にとっても益だろうに――まあ、手荒な真似をしてきたその時は、こちらも相応の対処を講じてでも本拠地の在所を吐かせるつもりだったが――彼はそうしなかった。
「――彼の組織を潰す気かね?」
その理由に対する解答は明白だった。
「あいつら、さすがにやり過ぎましたからね~」
首を竦めながら、仰々しい嘆息が一つ、零れ落ちる。
「調査した限りだと、一部の巣の連中にまで蔓延し始めているみたいですし……このまま放置して、頭や爪に目を付けられでもしたら大変じゃないですか。でもあからさまに自分達が調べました~ってばれても、それはそれで面倒ですし?」
それならば、敢えて他の組織が調査し、事実を白日の下に晒してしまった方がヘイトを他者へ逸らすことが出来る。加えて、晴れてぽんぽん派は裏切者を粛清するための「口実」を得られるという仕組みだ。
「別に勝とうが負けようが、どちらでも良かったんです……あっ、別にあなたを貶してるわけじゃないですよ? 寧ろ、久々に楽しくって……ついつい本気を出しちゃいました」
どこまでも悪意のない笑顔で告げた男の手が、やにわに頬へと触れる。まるで水のようにひやりと冷たい感触。誘導されるがまま、見据えた双眸は笑っているように見えて、その奥底には捕らえた獲物を逃がさんとばかりに爛爛とした輝きを宿していた。
「……それよりも、良かったんですか? こんなに簡単に提案を飲んじゃって。僕が望めば、あなたの首を飛ばすことだって……四肢をバラバラにして、死ぬより苦しい目に遭わせることだって出来たんですけど?」
そんなんじゃ長生き出来ませんよ。するりとなぞるようにして滑り落ちた指先が、喉元を捉えた。真綿で包むように緩やかに、潰れたまめとたこで厚くなった、想像していたよりもずっと硬い彼の皮膚が、徐々に首の肉へ食い込んでいく。瞬きが出来ない。許されていないから。
「っ、……然らば、地に還りしその時まで、知識を蓄積するのみよ」
「わぁ、惚れ惚れするような返事をありがとうございます~」
感嘆を乗せた言葉は、どこまでも空虚な響きだった。
「……でも、僕がいかさまをしているとか、考えもしなかったんですか?」
いかさま。囁くように紡がれた単語を脳裏に反芻しながら、テーブルに残されたままのトランプに今一度、視線を向ける。彼が何を意図してそのようなことを口にしたのか、その真意までは計り知れない――それでも、確信をもって断ずることは出来た。
「そなたは如何なる不正もしたらざらむ」
刹那、捕食者めいた眼差しがきょとんと丸みを帯びた。同時に緩められた拘束を離れ、ちょうど彼の座っていた椅子、そのすぐ傍らに置かれたままの彼の手札を見下ろす。ストレートフラッシュ――どのカードを注意深く観察し、直に表面を触れてみたところで、案の定目印になりそうな傷は一つたりとも見当たらない。
勿論、最初から疑わなかったと言えば嘘になる。実際、ぽんぽん派の構成員がカードを切る「ふり」をしている姿をこの目で目撃している。ボスに勝利をもたらすべく用意された山札――それを崩したのは、他でもないボス本人だった。彼は山札に手を伸ばすと、おもむろにそれを何度も何度も、念入りにシャッフルし始めたのだ。構成員達の反応を見るに、誰しも想定していなかった出来事なのだろう。
周囲の思惑から外れ、勝敗の決まりきった出来高レースではなく、張り詰めた緊張感の中でどちらが勝つとも分からぬ、互いの心理と心理、運と運がぶつかり合う戦場。
――その中で、今回は自分に少しばかり運が足りなかっただけだ。
「随分はっきりと言い切りますね」
「違うや?」
「それは……う~ん、ご想像にお任せします」
曖昧な応えを返した青年の笑みが、心なしか晴れやかなあどけなさを孕んでいるように思えたのは、果たして自分だけだろうか。一歩、一歩とまた近付く足音。伸ばされた指先が、幾許かの優しさをもって頬を撫ぜる。
「渡した情報の使い道についてはお任せします。……それと、どうしても行き詰まったり、困ったりした時はいつでもここに来てください。お代は……そうだな~……またポーカーにでも付き合ってくれれば、それで良いので」
さらりと音を立て、揺らめいた黒絹が頬に触れる。高価な宝石とも見紛うような双眸に見入られたまま――あたたかい何かが口唇に触れ、すぐに離れていった。
「ふふっ、次にまた会える日を楽しみにしてますよ――『イサン』さん」
何の気なしに紡がれた自身の名。
――はて、自分は彼の前でこの名を一度でも口にしたことがあったろうか。
* * *
「……あのさぁ」
あのイサンとかいうセブン協会のフィクサーがここを去った後、無断でいかさまを働いた者達の「後始末」を終えてソファで寛いでいた彼が、どこか遠くを見つめるような眼差しで柔らかな湯気を立てる水面――ボスは酒よりも茶を好んで飲用する傾向があった――を眺めながら、不意打ちのように口を開く。
「運命って信じる?」
「は……う、運命ですか?」
やたらシリアスな口ぶりだと思えば、ボスの口からそのようなメルヘンな単語が出てくるとは想像もしなかった。思わず噴出しそうになるのをぐっと堪える。ここで笑ってしまえばどうなるか、火を見るよりも明らかだったからだ。
ボスによると、最近似たような夢を見るのだという。見たことのない場所で、時には見知った場所で、自身を管理人だとのたまう時計頭に指示されながら、自分と同じように指示を受ける者達と共に見たことのない化け物と戦う夢――その中で、あのフィクサーと同じ顔、同じ声、そして同じ名を持つ青年と相まみえたことがあるらしい。
「扱っていたのはナイフだったし、こっちの彼より幼く見えたけど」そう、付け加えながら。「なんだか面白くてさ、つい話してみたくなったんだよね~」
戦闘の合間にどのような会話があったとか、その際に浮かべた表情がどうだったとか、夢の中で起きた出来事を楽しげに語るボスは、どこか楽しげで。
「……それ、まるで恋でもしているみたいじゃないですか」
思わず、口を衝いて出た言葉を呑み込もうとしたが、もう遅い。
「恋、かぁ……そうだな~」
鳩が豆鉄砲でも食らったかのような顔でこちらを凝視していたボスの口元が、しかし先程の失言など気にする素振りも見せず、ゆるり弧を描く。緩慢な動作でシャンデリアから大窓に見える裏路地の夜景へと細めた視線を移したその人は茶杯を呷ると、薄ら濡れた自身の唇をそ、といとおしげになぞって。
「……また会いたいなぁ」
ぽつり、甘やかな呟きを空に溶かした。
畳む
#LCB61 #ぽんぽん派 #セブン協会