No.18, No.17, No.16, No.15, No.14, No.13, No.12[7件]
束縛/ホンイサ
ぽんぽん派とセブン協会
おもむろにベッドから身を起こしたイサンが、無造作に床へと放り出された下着を拾い上げる。一夜の耽溺に身を委ねた後の彼は、酷くそっけない。閨を共にした相手を起こそうともせず――まあ、すでに自分が起きていることくらいはお見通しなのだろうけれど――目覚めのキスすら交わしてくれることなく、手早く身支度を整えるとまるで気ままな風のように、颯とこの場を立ち去ろうとしてしまうのだから。
「……イサンさんって」彼の細腰にしっかと腕を回し、無防備な肩へと顎を載せる。ほんの少しだけ、丸みを帯びた瞳孔が此方を見た。
「体にたくさんベルトを着けてますよね~」
見下ろせば、眼前に覗く足――無防備に晒された白い下腿とは対照的な黒の靴下を固定するように巻かれたベルトへ指を滑り込ませる。これだけではない。ベルトを引き抜き、スラックスを剥ぎ取った瞬間、太腿に食い込むベルト――イサン曰く「シャツガーター」というらしい。彼らしいといえば彼らしいが、遅々とした動作で金具にベルトにと外されていくものだから、だいぶ据え膳を食らわされてたことだけは覚えている――が視界に飛び込んできた時は、危うく思考を放棄しかけた。
「イサンさん、あまりこういうのを着けてるイメージがないというか~」
さして長くもない交流でこそあったとして、少なくともイサンという男は「見目を気にする」ような人柄とは対極にあるように思える。決してだらしがないというわけではないけれど、暴漢の鎮圧中にジャケットが返り血まみれになったところで、さほど気に留めることなく自分と面会するような彼が、はたしてたかがシャツの乱れ程度で頓着するだろうか。
「もしかして~……僕に会うからって張り切っちゃいました?」
「……寝言は寝て言いたまえ」
「あっ、酷い。人が折角勇気を出して聞いたのに~」
さめざめと目元を手で覆ったところで、慰めるような素振りも一切見せない――さすがに泣き真似くらいではすぐに看破されるか。
「装いしこそ動きやすければ」
なるほど。見目重視ではなく、飽くまで活動的機能性に重きを置いているならば、まだ納得出来るか。
そんな色気の「い」の字もないような男が、昨夜は自身と同じ男に組み敷かれ、普段の落ち着いた低音からは想像出来ぬほどの蕩めく高音を漏らしては、蹂躙されるがままにその扇情的な色香を際限なく咲かせていたのだから、人とは底知れないものだと改めて実感する。
「……さて、いつまでかくしたらむとすや?」
「ん~?」
自分よりも肉付きの悪い華奢な身を抱き竦めたまま、小首を傾げながら彼の言葉を吟味する――ああ、そろそろ離せと言いたいのか。
「う~ん……離してあげてもいいんですけど~……」
ふいと、床に放り出されたままの紐状のそれを一瞥して。
「……あれ、僕に着けさせてくれません?」
「イサンさんって、外勤をしてる割には細いですよね~。あまり筋肉がつかない方だったりします?」
なめらかな流線を描く太腿を撫ぜながら、口を衝いて出た言葉にイサンは僅かに目を細めた。
「この都市におきて、見目ほど信用に値せぬものやなからぬ?」
「まあ、仰る通りで~……あ、締め付けはきつくないですか?」
外骨格、生体施術、刺青、義体――等々。金さえあれば、この都市では身体強化を行う手段などごまんとある。もしかすると、目の前にいる彼も刺青の類でもどこかに入れているのだろうか。ふつふつと込み上げてくる好奇心を抑えるように、長さを調整したベルトを太腿に巻き付けた。
「今少しばかりゆとりを……うむ、さばかりに」
次は、ベルトから伸びる紐、その先端にある金具でシャツに一つ一つ挟んでいく。存外に緩めになったので問題ないのか疑問を抱いたものの、彼曰くこのくらいが動きやすいらしい――シャツの合間からちらちらと見切れる赤い鬱血痕。白皙に映える一等鮮やかなそれに、昨日の情事の余韻に思いを馳せつつ、左右それぞれ三つずつ、頭上から降り注ぐ言葉を頼りにようやく留め終えたそれがスラックスの下に消えていく様を最後まで見届けた。
「ほらほら、腕を出してくださ~い」
後は、アームバンドで袖丈を調整し、鼻歌交じりで皺を伸ばしておいたジャケットを羽織らせたところでようやく身支度が完了する。ネクタイと襟元を直していた指先で、まるで愛玩動物にするかのように擽ってやった白い喉元が、ふるりと震えた。
「ん、……?」
「ねえ、イサンさん。ベルトをたくさん身に着けている人って、束縛願望があるんだそうですよ?」
線を描くようにして首をなぞる――そう。それはまるで、彼に似合う枷でも思い描くかのように。
「……今度は、首輪でも用意しましょうか。イサンさん、黒がよく似合うと思うんですけど――」
イサンさんは、どんな首輪がいいと思います?
そうして、丁寧に結び直した布の上へと唇を落とした。
彼と再び相まみえることになる――確信めいた予感こそあったけれど、以前の賭けからしばらくして、彼が再び自分のもとに現れた時は心が舞い上がるほどの喜びに打ち震えたことを今でも覚えている。
彼とは様々な遊戯に興じた。ポーカー、チェス、将棋――そのどれにおいても彼は聡明で、これまでに挑んだ誰よりも強い。慢心する猶予すら与えてもらえなくて、危うく何度も負けそうになったけれど、持ち前の運と度胸でジャックポットを掴んでいった。
勝利の報酬として、唇を要求したことがある。震えながらも味わったそれはあたたかく、僅かに珈琲の味がした。
時には手を繋いで共に買い出しに出掛けたこともあった。贈った茶を喜んでもらえたならばいいのだけれど。
そして昨日は――彼のぬくもりを求めた。
彼は、拒絶はしなかった。
以前、確かに自分は言った。どうしても捜査に行き詰まったり、困ったりした時はいつでもここに来てくれと。与えた情報の報酬はまた「遊びにでも付き合ってくれればそれで良い」――と。
そう、自分との遊びに付き合いさえすれば、条件は達成される。
それ以外に提示された条件など、単なるきまぐれだ。生真面目に応じる必要はどこにもない――というのに、そうであるにもかかわらず、イサンは決してそれ等の条件を無視することはしなかった。
イサンという男は泰然自若として、何者にも縛られない。
けれど、彼は気付いているだろうか?
あたかも、目には見えない枷に繋がれでもしているかのように。
無自覚のうち、自分の下した命令に縛られていることに。
――けれど、きっと。誰よりも固執しているのは。
こうでもしなければ、彼を縛ることは出来ないと思っているのは。
イサンがいなくなった自室。柔らかくて広々としたベッドの上で、小さく膝を抱き寄せながら微かに残された熱の残渣に触れる。彼に繋がれた透明な鎖へと口付けするかのように、ホンルは熱を帯びた指先へと、切に唇を落とした。
畳む
#LCB61 #ぽんぽん派 #セブン協会
ぽんぽん派とセブン協会
おもむろにベッドから身を起こしたイサンが、無造作に床へと放り出された下着を拾い上げる。一夜の耽溺に身を委ねた後の彼は、酷くそっけない。閨を共にした相手を起こそうともせず――まあ、すでに自分が起きていることくらいはお見通しなのだろうけれど――目覚めのキスすら交わしてくれることなく、手早く身支度を整えるとまるで気ままな風のように、颯とこの場を立ち去ろうとしてしまうのだから。
「……イサンさんって」彼の細腰にしっかと腕を回し、無防備な肩へと顎を載せる。ほんの少しだけ、丸みを帯びた瞳孔が此方を見た。
「体にたくさんベルトを着けてますよね~」
見下ろせば、眼前に覗く足――無防備に晒された白い下腿とは対照的な黒の靴下を固定するように巻かれたベルトへ指を滑り込ませる。これだけではない。ベルトを引き抜き、スラックスを剥ぎ取った瞬間、太腿に食い込むベルト――イサン曰く「シャツガーター」というらしい。彼らしいといえば彼らしいが、遅々とした動作で金具にベルトにと外されていくものだから、だいぶ据え膳を食らわされてたことだけは覚えている――が視界に飛び込んできた時は、危うく思考を放棄しかけた。
「イサンさん、あまりこういうのを着けてるイメージがないというか~」
さして長くもない交流でこそあったとして、少なくともイサンという男は「見目を気にする」ような人柄とは対極にあるように思える。決してだらしがないというわけではないけれど、暴漢の鎮圧中にジャケットが返り血まみれになったところで、さほど気に留めることなく自分と面会するような彼が、はたしてたかがシャツの乱れ程度で頓着するだろうか。
「もしかして~……僕に会うからって張り切っちゃいました?」
「……寝言は寝て言いたまえ」
「あっ、酷い。人が折角勇気を出して聞いたのに~」
さめざめと目元を手で覆ったところで、慰めるような素振りも一切見せない――さすがに泣き真似くらいではすぐに看破されるか。
「装いしこそ動きやすければ」
なるほど。見目重視ではなく、飽くまで活動的機能性に重きを置いているならば、まだ納得出来るか。
そんな色気の「い」の字もないような男が、昨夜は自身と同じ男に組み敷かれ、普段の落ち着いた低音からは想像出来ぬほどの蕩めく高音を漏らしては、蹂躙されるがままにその扇情的な色香を際限なく咲かせていたのだから、人とは底知れないものだと改めて実感する。
「……さて、いつまでかくしたらむとすや?」
「ん~?」
自分よりも肉付きの悪い華奢な身を抱き竦めたまま、小首を傾げながら彼の言葉を吟味する――ああ、そろそろ離せと言いたいのか。
「う~ん……離してあげてもいいんですけど~……」
ふいと、床に放り出されたままの紐状のそれを一瞥して。
「……あれ、僕に着けさせてくれません?」
「イサンさんって、外勤をしてる割には細いですよね~。あまり筋肉がつかない方だったりします?」
なめらかな流線を描く太腿を撫ぜながら、口を衝いて出た言葉にイサンは僅かに目を細めた。
「この都市におきて、見目ほど信用に値せぬものやなからぬ?」
「まあ、仰る通りで~……あ、締め付けはきつくないですか?」
外骨格、生体施術、刺青、義体――等々。金さえあれば、この都市では身体強化を行う手段などごまんとある。もしかすると、目の前にいる彼も刺青の類でもどこかに入れているのだろうか。ふつふつと込み上げてくる好奇心を抑えるように、長さを調整したベルトを太腿に巻き付けた。
「今少しばかりゆとりを……うむ、さばかりに」
次は、ベルトから伸びる紐、その先端にある金具でシャツに一つ一つ挟んでいく。存外に緩めになったので問題ないのか疑問を抱いたものの、彼曰くこのくらいが動きやすいらしい――シャツの合間からちらちらと見切れる赤い鬱血痕。白皙に映える一等鮮やかなそれに、昨日の情事の余韻に思いを馳せつつ、左右それぞれ三つずつ、頭上から降り注ぐ言葉を頼りにようやく留め終えたそれがスラックスの下に消えていく様を最後まで見届けた。
「ほらほら、腕を出してくださ~い」
後は、アームバンドで袖丈を調整し、鼻歌交じりで皺を伸ばしておいたジャケットを羽織らせたところでようやく身支度が完了する。ネクタイと襟元を直していた指先で、まるで愛玩動物にするかのように擽ってやった白い喉元が、ふるりと震えた。
「ん、……?」
「ねえ、イサンさん。ベルトをたくさん身に着けている人って、束縛願望があるんだそうですよ?」
線を描くようにして首をなぞる――そう。それはまるで、彼に似合う枷でも思い描くかのように。
「……今度は、首輪でも用意しましょうか。イサンさん、黒がよく似合うと思うんですけど――」
イサンさんは、どんな首輪がいいと思います?
そうして、丁寧に結び直した布の上へと唇を落とした。
彼と再び相まみえることになる――確信めいた予感こそあったけれど、以前の賭けからしばらくして、彼が再び自分のもとに現れた時は心が舞い上がるほどの喜びに打ち震えたことを今でも覚えている。
彼とは様々な遊戯に興じた。ポーカー、チェス、将棋――そのどれにおいても彼は聡明で、これまでに挑んだ誰よりも強い。慢心する猶予すら与えてもらえなくて、危うく何度も負けそうになったけれど、持ち前の運と度胸でジャックポットを掴んでいった。
勝利の報酬として、唇を要求したことがある。震えながらも味わったそれはあたたかく、僅かに珈琲の味がした。
時には手を繋いで共に買い出しに出掛けたこともあった。贈った茶を喜んでもらえたならばいいのだけれど。
そして昨日は――彼のぬくもりを求めた。
彼は、拒絶はしなかった。
以前、確かに自分は言った。どうしても捜査に行き詰まったり、困ったりした時はいつでもここに来てくれと。与えた情報の報酬はまた「遊びにでも付き合ってくれればそれで良い」――と。
そう、自分との遊びに付き合いさえすれば、条件は達成される。
それ以外に提示された条件など、単なるきまぐれだ。生真面目に応じる必要はどこにもない――というのに、そうであるにもかかわらず、イサンは決してそれ等の条件を無視することはしなかった。
イサンという男は泰然自若として、何者にも縛られない。
けれど、彼は気付いているだろうか?
あたかも、目には見えない枷に繋がれでもしているかのように。
無自覚のうち、自分の下した命令に縛られていることに。
――けれど、きっと。誰よりも固執しているのは。
こうでもしなければ、彼を縛ることは出来ないと思っているのは。
イサンがいなくなった自室。柔らかくて広々としたベッドの上で、小さく膝を抱き寄せながら微かに残された熱の残渣に触れる。彼に繋がれた透明な鎖へと口付けするかのように、ホンルは熱を帯びた指先へと、切に唇を落とした。
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#LCB61 #ぽんぽん派 #セブン協会
博戯に秘す/ホンイサ
ぽんぽん派とセブン協会
「はい、これがご所望だった情報です」
さも当たり前のように眼前に提示された紙束を見つめる。一向に受け取る気配のない相手を不思議に思ったのだろうか。満面の笑みを、どこか童めいた面持ちに変えて、向かい合う青年はきょとんと首を傾げた。
「……あ、もしかして偽物だって疑ってます? それなら、ゆぅっくりと吟味してくれて構いませんよ~」
そうして、半ば強引に握らされたそれの表紙へと、気が進まないながらも手を伸ばす。ぽんぽん派――何度聞いても巫山戯た名だが、これでもれっきとしたJ社裏路地のカジノを牛耳るマフィアの一つだ――の傘下にある組織によって密かに売買されているという違法薬物の入手および流通経路の詳細、顧客名簿、等々。情報の正確性については実際に調査、精査してみない限りはいかんとも言い難いが、中には慎重を期すためにも公にしていないはずの――自身も情報収集に携わった売人達のリストまでご丁寧に纏められていて、虚偽と切り捨ててしまうにはあまりに内容が緻密過ぎた。
「……確かに、私の欲せし情報と違わず」
「ふふっ、なら良かったです~。中々の力作でしょう?」
だが――それならば、なおのこと理解に苦しむと言わざるを得ない。
「これでは、そなたの言出でし条件と矛盾せずや?」
条件。そう、条件。多少のリスクを冒してでも意図的にぽんぽん派の目につくように行動したのも、連行されるようにして赴いた本拠地でマフィアのボスとの賭けポーカーの誘いに応じたのも、全ては意味があってのことだ。
自分が勝てば、傘下組織の情報が手に入る。
ボスが勝てば、曰く「僕の好きにさせてもらいます」――有り体に言えば、拒否出来ない絶対条件を一つ、己に対して提示するつもりなのだろう。
明らかに釣り合いの取れていない条件だが、それでも探し求めていた情報を前にしてどうして背を向けられようか。
結果として、自分は賭けに負けた。しかし、負けたにもかかわらず、賭けの報酬は確かにこの手の内にある。
「あ~……」間延びした、暢気な声を上げながらボスは続ける。「僕が勝ったら、好きにさせてもらうと言ったでしょう? だから『好き』にさせてもらいました」
それが当然の行いであるかのように、あっけらかんとした微笑を湛えながら言うのだから、その言葉の真意を咀嚼するまでに些かの時間を要してしまった。
一寸して、ようやく自分が彼の手のひらで転がされていたのだと悟る。
「……始めより、セブン協会に情報を渡さむとせりや」
「ご明察」
色違いの目を細める美しい男は、たおやかに笑みを深めた。
おそらく、この件に関しては我々が調査するよりもずっと前から、内々で調査を進めていたのだろう。ぽんぽん派が手中に置いている組織の情報を易々と口外するとは思っていない。そんなことをしてしまえば折角の資金源を失うことになる上、情報漏洩への関与をまっさきに嫌疑の目を向けられるリスクを鑑みたならば、当然と言えば当然だろう。ましてや今回の自分のように、何処ぞより紛れ込み、周囲を嗅ぎ回っている「ネズミ」は迅速に片付けてしまった方が組織にとっても益だろうに――まあ、手荒な真似をしてきたその時は、こちらも相応の対処を講じてでも本拠地の在所を吐かせるつもりだったが――彼はそうしなかった。
「――彼の組織を潰す気かね?」
その理由に対する解答は明白だった。
「あいつら、さすがにやり過ぎましたからね~」
首を竦めながら、仰々しい嘆息が一つ、零れ落ちる。
「調査した限りだと、一部の巣の連中にまで蔓延し始めているみたいですし……このまま放置して、頭や爪に目を付けられでもしたら大変じゃないですか。でもあからさまに自分達が調べました~ってばれても、それはそれで面倒ですし?」
それならば、敢えて他の組織が調査し、事実を白日の下に晒してしまった方がヘイトを他者へ逸らすことが出来る。加えて、晴れてぽんぽん派は裏切者を粛清するための「口実」を得られるという仕組みだ。
「別に勝とうが負けようが、どちらでも良かったんです……あっ、別にあなたを貶してるわけじゃないですよ? 寧ろ、久々に楽しくって……ついつい本気を出しちゃいました」
どこまでも悪意のない笑顔で告げた男の手が、やにわに頬へと触れる。まるで水のようにひやりと冷たい感触。誘導されるがまま、見据えた双眸は笑っているように見えて、その奥底には捕らえた獲物を逃がさんとばかりに爛爛とした輝きを宿していた。
「……それよりも、良かったんですか? こんなに簡単に提案を飲んじゃって。僕が望めば、あなたの首を飛ばすことだって……四肢をバラバラにして、死ぬより苦しい目に遭わせることだって出来たんですけど?」
そんなんじゃ長生き出来ませんよ。するりとなぞるようにして滑り落ちた指先が、喉元を捉えた。真綿で包むように緩やかに、潰れたまめとたこで厚くなった、想像していたよりもずっと硬い彼の皮膚が、徐々に首の肉へ食い込んでいく。瞬きが出来ない。許されていないから。
「っ、……然らば、地に還りしその時まで、知識を蓄積するのみよ」
「わぁ、惚れ惚れするような返事をありがとうございます~」
感嘆を乗せた言葉は、どこまでも空虚な響きだった。
「……でも、僕がいかさまをしているとか、考えもしなかったんですか?」
いかさま。囁くように紡がれた単語を脳裏に反芻しながら、テーブルに残されたままのトランプに今一度、視線を向ける。彼が何を意図してそのようなことを口にしたのか、その真意までは計り知れない――それでも、確信をもって断ずることは出来た。
「そなたは如何なる不正もしたらざらむ」
刹那、捕食者めいた眼差しがきょとんと丸みを帯びた。同時に緩められた拘束を離れ、ちょうど彼の座っていた椅子、そのすぐ傍らに置かれたままの彼の手札を見下ろす。ストレートフラッシュ――どのカードを注意深く観察し、直に表面を触れてみたところで、案の定目印になりそうな傷は一つたりとも見当たらない。
勿論、最初から疑わなかったと言えば嘘になる。実際、ぽんぽん派の構成員がカードを切る「ふり」をしている姿をこの目で目撃している。ボスに勝利をもたらすべく用意された山札――それを崩したのは、他でもないボス本人だった。彼は山札に手を伸ばすと、おもむろにそれを何度も何度も、念入りにシャッフルし始めたのだ。構成員達の反応を見るに、誰しも想定していなかった出来事なのだろう。
周囲の思惑から外れ、勝敗の決まりきった出来高レースではなく、張り詰めた緊張感の中でどちらが勝つとも分からぬ、互いの心理と心理、運と運がぶつかり合う戦場。
――その中で、今回は自分に少しばかり運が足りなかっただけだ。
「随分はっきりと言い切りますね」
「違うや?」
「それは……う~ん、ご想像にお任せします」
曖昧な応えを返した青年の笑みが、心なしか晴れやかなあどけなさを孕んでいるように思えたのは、果たして自分だけだろうか。一歩、一歩とまた近付く足音。伸ばされた指先が、幾許かの優しさをもって頬を撫ぜる。
「渡した情報の使い道についてはお任せします。……それと、どうしても行き詰まったり、困ったりした時はいつでもここに来てください。お代は……そうだな~……またポーカーにでも付き合ってくれれば、それで良いので」
さらりと音を立て、揺らめいた黒絹が頬に触れる。高価な宝石とも見紛うような双眸に見入られたまま――あたたかい何かが口唇に触れ、すぐに離れていった。
「ふふっ、次にまた会える日を楽しみにしてますよ――『イサン』さん」
何の気なしに紡がれた自身の名。
――はて、自分は彼の前でこの名を一度でも口にしたことがあったろうか。
* * *
「……あのさぁ」
あのイサンとかいうセブン協会のフィクサーがここを去った後、無断でいかさまを働いた者達の「後始末」を終えてソファで寛いでいた彼が、どこか遠くを見つめるような眼差しで柔らかな湯気を立てる水面――ボスは酒よりも茶を好んで飲用する傾向があった――を眺めながら、不意打ちのように口を開く。
「運命って信じる?」
「は……う、運命ですか?」
やたらシリアスな口ぶりだと思えば、ボスの口からそのようなメルヘンな単語が出てくるとは想像もしなかった。思わず噴出しそうになるのをぐっと堪える。ここで笑ってしまえばどうなるか、火を見るよりも明らかだったからだ。
ボスによると、最近似たような夢を見るのだという。見たことのない場所で、時には見知った場所で、自身を管理人だとのたまう時計頭に指示されながら、自分と同じように指示を受ける者達と共に見たことのない化け物と戦う夢――その中で、あのフィクサーと同じ顔、同じ声、そして同じ名を持つ青年と相まみえたことがあるらしい。
「扱っていたのはナイフだったし、こっちの彼より幼く見えたけど」そう、付け加えながら。「なんだか面白くてさ、つい話してみたくなったんだよね~」
戦闘の合間にどのような会話があったとか、その際に浮かべた表情がどうだったとか、夢の中で起きた出来事を楽しげに語るボスは、どこか楽しげで。
「……それ、まるで恋でもしているみたいじゃないですか」
思わず、口を衝いて出た言葉を呑み込もうとしたが、もう遅い。
「恋、かぁ……そうだな~」
鳩が豆鉄砲でも食らったかのような顔でこちらを凝視していたボスの口元が、しかし先程の失言など気にする素振りも見せず、ゆるり弧を描く。緩慢な動作でシャンデリアから大窓に見える裏路地の夜景へと細めた視線を移したその人は茶杯を呷ると、薄ら濡れた自身の唇をそ、といとおしげになぞって。
「……また会いたいなぁ」
ぽつり、甘やかな呟きを空に溶かした。
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#LCB61 #ぽんぽん派 #セブン協会
ぽんぽん派とセブン協会
「はい、これがご所望だった情報です」
さも当たり前のように眼前に提示された紙束を見つめる。一向に受け取る気配のない相手を不思議に思ったのだろうか。満面の笑みを、どこか童めいた面持ちに変えて、向かい合う青年はきょとんと首を傾げた。
「……あ、もしかして偽物だって疑ってます? それなら、ゆぅっくりと吟味してくれて構いませんよ~」
そうして、半ば強引に握らされたそれの表紙へと、気が進まないながらも手を伸ばす。ぽんぽん派――何度聞いても巫山戯た名だが、これでもれっきとしたJ社裏路地のカジノを牛耳るマフィアの一つだ――の傘下にある組織によって密かに売買されているという違法薬物の入手および流通経路の詳細、顧客名簿、等々。情報の正確性については実際に調査、精査してみない限りはいかんとも言い難いが、中には慎重を期すためにも公にしていないはずの――自身も情報収集に携わった売人達のリストまでご丁寧に纏められていて、虚偽と切り捨ててしまうにはあまりに内容が緻密過ぎた。
「……確かに、私の欲せし情報と違わず」
「ふふっ、なら良かったです~。中々の力作でしょう?」
だが――それならば、なおのこと理解に苦しむと言わざるを得ない。
「これでは、そなたの言出でし条件と矛盾せずや?」
条件。そう、条件。多少のリスクを冒してでも意図的にぽんぽん派の目につくように行動したのも、連行されるようにして赴いた本拠地でマフィアのボスとの賭けポーカーの誘いに応じたのも、全ては意味があってのことだ。
自分が勝てば、傘下組織の情報が手に入る。
ボスが勝てば、曰く「僕の好きにさせてもらいます」――有り体に言えば、拒否出来ない絶対条件を一つ、己に対して提示するつもりなのだろう。
明らかに釣り合いの取れていない条件だが、それでも探し求めていた情報を前にしてどうして背を向けられようか。
結果として、自分は賭けに負けた。しかし、負けたにもかかわらず、賭けの報酬は確かにこの手の内にある。
「あ~……」間延びした、暢気な声を上げながらボスは続ける。「僕が勝ったら、好きにさせてもらうと言ったでしょう? だから『好き』にさせてもらいました」
それが当然の行いであるかのように、あっけらかんとした微笑を湛えながら言うのだから、その言葉の真意を咀嚼するまでに些かの時間を要してしまった。
一寸して、ようやく自分が彼の手のひらで転がされていたのだと悟る。
「……始めより、セブン協会に情報を渡さむとせりや」
「ご明察」
色違いの目を細める美しい男は、たおやかに笑みを深めた。
おそらく、この件に関しては我々が調査するよりもずっと前から、内々で調査を進めていたのだろう。ぽんぽん派が手中に置いている組織の情報を易々と口外するとは思っていない。そんなことをしてしまえば折角の資金源を失うことになる上、情報漏洩への関与をまっさきに嫌疑の目を向けられるリスクを鑑みたならば、当然と言えば当然だろう。ましてや今回の自分のように、何処ぞより紛れ込み、周囲を嗅ぎ回っている「ネズミ」は迅速に片付けてしまった方が組織にとっても益だろうに――まあ、手荒な真似をしてきたその時は、こちらも相応の対処を講じてでも本拠地の在所を吐かせるつもりだったが――彼はそうしなかった。
「――彼の組織を潰す気かね?」
その理由に対する解答は明白だった。
「あいつら、さすがにやり過ぎましたからね~」
首を竦めながら、仰々しい嘆息が一つ、零れ落ちる。
「調査した限りだと、一部の巣の連中にまで蔓延し始めているみたいですし……このまま放置して、頭や爪に目を付けられでもしたら大変じゃないですか。でもあからさまに自分達が調べました~ってばれても、それはそれで面倒ですし?」
それならば、敢えて他の組織が調査し、事実を白日の下に晒してしまった方がヘイトを他者へ逸らすことが出来る。加えて、晴れてぽんぽん派は裏切者を粛清するための「口実」を得られるという仕組みだ。
「別に勝とうが負けようが、どちらでも良かったんです……あっ、別にあなたを貶してるわけじゃないですよ? 寧ろ、久々に楽しくって……ついつい本気を出しちゃいました」
どこまでも悪意のない笑顔で告げた男の手が、やにわに頬へと触れる。まるで水のようにひやりと冷たい感触。誘導されるがまま、見据えた双眸は笑っているように見えて、その奥底には捕らえた獲物を逃がさんとばかりに爛爛とした輝きを宿していた。
「……それよりも、良かったんですか? こんなに簡単に提案を飲んじゃって。僕が望めば、あなたの首を飛ばすことだって……四肢をバラバラにして、死ぬより苦しい目に遭わせることだって出来たんですけど?」
そんなんじゃ長生き出来ませんよ。するりとなぞるようにして滑り落ちた指先が、喉元を捉えた。真綿で包むように緩やかに、潰れたまめとたこで厚くなった、想像していたよりもずっと硬い彼の皮膚が、徐々に首の肉へ食い込んでいく。瞬きが出来ない。許されていないから。
「っ、……然らば、地に還りしその時まで、知識を蓄積するのみよ」
「わぁ、惚れ惚れするような返事をありがとうございます~」
感嘆を乗せた言葉は、どこまでも空虚な響きだった。
「……でも、僕がいかさまをしているとか、考えもしなかったんですか?」
いかさま。囁くように紡がれた単語を脳裏に反芻しながら、テーブルに残されたままのトランプに今一度、視線を向ける。彼が何を意図してそのようなことを口にしたのか、その真意までは計り知れない――それでも、確信をもって断ずることは出来た。
「そなたは如何なる不正もしたらざらむ」
刹那、捕食者めいた眼差しがきょとんと丸みを帯びた。同時に緩められた拘束を離れ、ちょうど彼の座っていた椅子、そのすぐ傍らに置かれたままの彼の手札を見下ろす。ストレートフラッシュ――どのカードを注意深く観察し、直に表面を触れてみたところで、案の定目印になりそうな傷は一つたりとも見当たらない。
勿論、最初から疑わなかったと言えば嘘になる。実際、ぽんぽん派の構成員がカードを切る「ふり」をしている姿をこの目で目撃している。ボスに勝利をもたらすべく用意された山札――それを崩したのは、他でもないボス本人だった。彼は山札に手を伸ばすと、おもむろにそれを何度も何度も、念入りにシャッフルし始めたのだ。構成員達の反応を見るに、誰しも想定していなかった出来事なのだろう。
周囲の思惑から外れ、勝敗の決まりきった出来高レースではなく、張り詰めた緊張感の中でどちらが勝つとも分からぬ、互いの心理と心理、運と運がぶつかり合う戦場。
――その中で、今回は自分に少しばかり運が足りなかっただけだ。
「随分はっきりと言い切りますね」
「違うや?」
「それは……う~ん、ご想像にお任せします」
曖昧な応えを返した青年の笑みが、心なしか晴れやかなあどけなさを孕んでいるように思えたのは、果たして自分だけだろうか。一歩、一歩とまた近付く足音。伸ばされた指先が、幾許かの優しさをもって頬を撫ぜる。
「渡した情報の使い道についてはお任せします。……それと、どうしても行き詰まったり、困ったりした時はいつでもここに来てください。お代は……そうだな~……またポーカーにでも付き合ってくれれば、それで良いので」
さらりと音を立て、揺らめいた黒絹が頬に触れる。高価な宝石とも見紛うような双眸に見入られたまま――あたたかい何かが口唇に触れ、すぐに離れていった。
「ふふっ、次にまた会える日を楽しみにしてますよ――『イサン』さん」
何の気なしに紡がれた自身の名。
――はて、自分は彼の前でこの名を一度でも口にしたことがあったろうか。
* * *
「……あのさぁ」
あのイサンとかいうセブン協会のフィクサーがここを去った後、無断でいかさまを働いた者達の「後始末」を終えてソファで寛いでいた彼が、どこか遠くを見つめるような眼差しで柔らかな湯気を立てる水面――ボスは酒よりも茶を好んで飲用する傾向があった――を眺めながら、不意打ちのように口を開く。
「運命って信じる?」
「は……う、運命ですか?」
やたらシリアスな口ぶりだと思えば、ボスの口からそのようなメルヘンな単語が出てくるとは想像もしなかった。思わず噴出しそうになるのをぐっと堪える。ここで笑ってしまえばどうなるか、火を見るよりも明らかだったからだ。
ボスによると、最近似たような夢を見るのだという。見たことのない場所で、時には見知った場所で、自身を管理人だとのたまう時計頭に指示されながら、自分と同じように指示を受ける者達と共に見たことのない化け物と戦う夢――その中で、あのフィクサーと同じ顔、同じ声、そして同じ名を持つ青年と相まみえたことがあるらしい。
「扱っていたのはナイフだったし、こっちの彼より幼く見えたけど」そう、付け加えながら。「なんだか面白くてさ、つい話してみたくなったんだよね~」
戦闘の合間にどのような会話があったとか、その際に浮かべた表情がどうだったとか、夢の中で起きた出来事を楽しげに語るボスは、どこか楽しげで。
「……それ、まるで恋でもしているみたいじゃないですか」
思わず、口を衝いて出た言葉を呑み込もうとしたが、もう遅い。
「恋、かぁ……そうだな~」
鳩が豆鉄砲でも食らったかのような顔でこちらを凝視していたボスの口元が、しかし先程の失言など気にする素振りも見せず、ゆるり弧を描く。緩慢な動作でシャンデリアから大窓に見える裏路地の夜景へと細めた視線を移したその人は茶杯を呷ると、薄ら濡れた自身の唇をそ、といとおしげになぞって。
「……また会いたいなぁ」
ぽつり、甘やかな呟きを空に溶かした。
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#LCB61 #ぽんぽん派 #セブン協会
君に落ちる孤独の融点について/ホンイサ
囚人と囚人
虫のささめきも息を潜める深き夜。耳を傾けるべき仲間達の語らいは、疾うに寝静まってしまった。鼓膜を鳴らす静寂の中、読書に耽ることすら難渋するほどの盲いたような 晦冥における唯一の暇潰しといえば、窓から覗く星彩を眺めることくらいだというのに。輝きの一粒たりとも見出せぬ、果てなく塗り潰された漆黒を仰ぎ見ては、暗々の内に零れ落ちた嘆息を夜気に溶かした。
不寝の番、長椅子に凭れたまま、一寸先さえ――己の輪郭さえも朧げな闇に身を委ねていると、もしやするとこの身はぐずぐずに融け果ててしまったのではないかという錯覚に陥る。ひとひらの光もない夜とは、ここまで心寒いものだったろうか。もはや目を開けているのか、瞑っているのかも曖昧な暗中において、触れることを許された座席の感触、硬質な硝子質の冷淡さ――抱え込んでいた自らの腕に、知らず知らず食い込む指の痛みだけが、自身が未だ人としての原型を留めているのだと教えてくれる証左となった。
思惟を途切れさせてはならない。ほんの瞬きの間でも自己を自己たりえる確固たるそれを「無」にしたが最後、ただでさえ薄弱としたこの意識は容易く呑まれ、漠然とした暗黒淵に沈むだろう。
声の出し方を忘れてしまった者の叫びなど、一体何人が聞き届けられよう。
「だ~れだ?」
両の目を覆った、柔らかなぬくもりがあった。不意打ちのように齎された自分以外の熱源に、途切れた思考は紡ぐべき言葉を見つけられずにいると、解放された視界のすぐ先で、犯人自ら浮かない面持ちで顔を覗き込んできた。
「イサンさん? 大丈夫ですか、さっきからずっとぼうっとしてますけど~」
指、何本あります? 眼前に三本の指――辛うじて、見える。先ほどまで何も見通せなかったはずなのに――を提示しながら小首を傾げている男をじい、と見つめる。
自分は、彼を知っている。
「……ホンル、くん」
「あ、気付きました? 良かったです~。近くまで来たのに全然反応してくれないから心配したんですよ~?」
脳裡に過った同僚の名を口にすると、いつもの人懐こい笑みを湛えたまま、さも当たり前のように長椅子の隣に腰掛ける青年はすらりと伸びた長い足を夜闇に悠々とぶらつかせながら、しかし心なしか優しい声色で続ける。
「何か、考え事でもしてたんです?」
――まるで、自分の考えていることは全てお見通しであると言わんばかりに。
これでは何も、だなんてとても言えなかった。
「……星に」
「うん?」
どのくらいの間、そうしていたのだろうか。おそらく瞑目していたのだろう眼瞼を上げた視界に、一等鮮やかに耀う光を見たような気がした。
「星に、会わまほし――と」
「星」反芻。ぱちり、瞬いた瞳が闇夜を仰ぐ。「……ああ、そういえば今日は全然見えませんね~」
星見ついでに星座の見方でも教えてもらおうと思ったのに、残念。そう言いながらもさほど落胆した素振りを見せない青年に、小さく頭を振る。
「されど、私の願いは叶いけり」
そうして――目の前の「星」に手を伸ばす。
指先を撫ぜた絹糸めいた漆黒はひやりと冷えていたけれど。
その先で触れた白皙の熱はじわりと、悴む指に染み入っていく。まるで溶けていくようだ――溶けてしまってもいい。
互いの息遣いすら共有出来る距離で、見つめ合う。
一瞬だけ動揺を映した双眸は、しばらくすると緩やかに細められる。
「……お目当てのものは見つかりました?」
「ああ、幸いにも態と其方より来たり」
「あははっ。……なら、もっと近くで見てもいいですよ?」
そう、戯けるように綻んだ彼の花唇に口付ける。触れるだけの接吻を一度、もう一度――一時の間を置いて、今度は彼から唇を寄せてきた。こういう時は目を瞑るのがマナーなのだと教えられていたものだから、彼が今、どのような顔をしているのか分からない――好奇心こそあったけれど、彼の矜持を暴くような禁忌を侵すのは憚られた。口付けを重ねるごとに、徐々に口唇を重ねている時間が長くなっていく。熱く蕩めくようなひと時。酸素が満足に行き渡らぬ脳髄は甘く痺れていた。
何よりも、決して離さぬとばかりに腰を掻き抱く腕の強さが――堪らなく、うれしい。
呼吸が弾み始めた頃、ようやく解放された身を、今度は強かに抱き竦められる。
「も~……何で不寝番の時に限って積極的なんですか?」
肩に埋められた彼の表情を窺うことは出来ない。
「不満なりや?」
「不満です~。こんな思いをして、この後一人で寝なきゃいけない僕の身にもなってくださいよ~」
それでも、普段に比べて余裕を欠いた彼の声色が――静寂の中だからこそ殊に、ひっきりなしに打ち慣らされる心音が、何よりも如実に彼の感情を表していて。
「……明日、皆さんが寝静まった夜に――待ってますから」
とうとう待ち焦がれた星の囁きに、年甲斐なく上気した顔をぎこちなく、しかしやおら縦に振った。
畳む
#LCB61
囚人と囚人
虫のささめきも息を潜める深き夜。耳を傾けるべき仲間達の語らいは、疾うに寝静まってしまった。鼓膜を鳴らす静寂の中、読書に耽ることすら難渋するほどの盲いたような 晦冥における唯一の暇潰しといえば、窓から覗く星彩を眺めることくらいだというのに。輝きの一粒たりとも見出せぬ、果てなく塗り潰された漆黒を仰ぎ見ては、暗々の内に零れ落ちた嘆息を夜気に溶かした。
不寝の番、長椅子に凭れたまま、一寸先さえ――己の輪郭さえも朧げな闇に身を委ねていると、もしやするとこの身はぐずぐずに融け果ててしまったのではないかという錯覚に陥る。ひとひらの光もない夜とは、ここまで心寒いものだったろうか。もはや目を開けているのか、瞑っているのかも曖昧な暗中において、触れることを許された座席の感触、硬質な硝子質の冷淡さ――抱え込んでいた自らの腕に、知らず知らず食い込む指の痛みだけが、自身が未だ人としての原型を留めているのだと教えてくれる証左となった。
思惟を途切れさせてはならない。ほんの瞬きの間でも自己を自己たりえる確固たるそれを「無」にしたが最後、ただでさえ薄弱としたこの意識は容易く呑まれ、漠然とした暗黒淵に沈むだろう。
声の出し方を忘れてしまった者の叫びなど、一体何人が聞き届けられよう。
「だ~れだ?」
両の目を覆った、柔らかなぬくもりがあった。不意打ちのように齎された自分以外の熱源に、途切れた思考は紡ぐべき言葉を見つけられずにいると、解放された視界のすぐ先で、犯人自ら浮かない面持ちで顔を覗き込んできた。
「イサンさん? 大丈夫ですか、さっきからずっとぼうっとしてますけど~」
指、何本あります? 眼前に三本の指――辛うじて、見える。先ほどまで何も見通せなかったはずなのに――を提示しながら小首を傾げている男をじい、と見つめる。
自分は、彼を知っている。
「……ホンル、くん」
「あ、気付きました? 良かったです~。近くまで来たのに全然反応してくれないから心配したんですよ~?」
脳裡に過った同僚の名を口にすると、いつもの人懐こい笑みを湛えたまま、さも当たり前のように長椅子の隣に腰掛ける青年はすらりと伸びた長い足を夜闇に悠々とぶらつかせながら、しかし心なしか優しい声色で続ける。
「何か、考え事でもしてたんです?」
――まるで、自分の考えていることは全てお見通しであると言わんばかりに。
これでは何も、だなんてとても言えなかった。
「……星に」
「うん?」
どのくらいの間、そうしていたのだろうか。おそらく瞑目していたのだろう眼瞼を上げた視界に、一等鮮やかに耀う光を見たような気がした。
「星に、会わまほし――と」
「星」反芻。ぱちり、瞬いた瞳が闇夜を仰ぐ。「……ああ、そういえば今日は全然見えませんね~」
星見ついでに星座の見方でも教えてもらおうと思ったのに、残念。そう言いながらもさほど落胆した素振りを見せない青年に、小さく頭を振る。
「されど、私の願いは叶いけり」
そうして――目の前の「星」に手を伸ばす。
指先を撫ぜた絹糸めいた漆黒はひやりと冷えていたけれど。
その先で触れた白皙の熱はじわりと、悴む指に染み入っていく。まるで溶けていくようだ――溶けてしまってもいい。
互いの息遣いすら共有出来る距離で、見つめ合う。
一瞬だけ動揺を映した双眸は、しばらくすると緩やかに細められる。
「……お目当てのものは見つかりました?」
「ああ、幸いにも態と其方より来たり」
「あははっ。……なら、もっと近くで見てもいいですよ?」
そう、戯けるように綻んだ彼の花唇に口付ける。触れるだけの接吻を一度、もう一度――一時の間を置いて、今度は彼から唇を寄せてきた。こういう時は目を瞑るのがマナーなのだと教えられていたものだから、彼が今、どのような顔をしているのか分からない――好奇心こそあったけれど、彼の矜持を暴くような禁忌を侵すのは憚られた。口付けを重ねるごとに、徐々に口唇を重ねている時間が長くなっていく。熱く蕩めくようなひと時。酸素が満足に行き渡らぬ脳髄は甘く痺れていた。
何よりも、決して離さぬとばかりに腰を掻き抱く腕の強さが――堪らなく、うれしい。
呼吸が弾み始めた頃、ようやく解放された身を、今度は強かに抱き竦められる。
「も~……何で不寝番の時に限って積極的なんですか?」
肩に埋められた彼の表情を窺うことは出来ない。
「不満なりや?」
「不満です~。こんな思いをして、この後一人で寝なきゃいけない僕の身にもなってくださいよ~」
それでも、普段に比べて余裕を欠いた彼の声色が――静寂の中だからこそ殊に、ひっきりなしに打ち慣らされる心音が、何よりも如実に彼の感情を表していて。
「……明日、皆さんが寝静まった夜に――待ってますから」
とうとう待ち焦がれた星の囁きに、年甲斐なく上気した顔をぎこちなく、しかしやおら縦に振った。
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#LCB61
純愛には果てなく遠い恋慕/ホンイサ ※R-18
黒雲会と剣契
黒雲会と剣契
夜はさむいからそばにいて/イサファウ ※R-18
囚人と囚人 ※「朝に照らされるだけの生命」の続き
囚人と囚人 ※「朝に照らされるだけの生命」の続き
朝に照らされるだけの生命/イサファウ
囚人と囚人
これは特段隠していたことではないのだけれど――とはいえ、告げたところで冗句か何かかと思われてまともに取り合われずに終わるだろう――かつてT社の巣にいた頃、懸想していた女性がいた。
開け放たれた窓から覗く、使い古したスケッチブックと向き合いながら、デッサンに励む彼女の様子を興味本位で何気なく眺めていると、白皙――白黒に彩られた世界では本来の色こそ分らなかったものの、色素の薄い女性だったことは覚えている――の横顔が此方を向いた、瞬間。それが出会いの始まりだった。
画家見習いだという彼女のスケッチを時折眺めながら、時折言葉を交わしたり。研究に没入するあまり、しばらく外出すらしない日々が続いた際は、いつの間にか己の所在を聞きつけた彼女が自室に押し入ったり。時には連れ出されて散歩や食事に付き合わされたりしたこともあった。
生まれてこの方巣を出たことがないという彼女は、いつか各地を巡って色とりどりの世界をこの目で見てみたいのだという。自身が持って生まれた色がどのようなものなのか確かめたい。
――イサンさんは、どんな色をしているのでしょうね。
首を傾げながら見つめてくる彼女に言葉が詰まる。自分の髪色は燃える紅葉を連想させる鮮烈な赤でもなければ、目だって宝石のような輝きを放つ青でもない。どちらも何の特徴もない黒色だ。楽しみにしていた分、かえって彼女を失望させてしまうのではないか。彼女がそういう人物ではないと知りながらも、後ろ向きな考えばかりに囚われて怖じ気付いては、ついぞ応えは返せなかった。
四カ月という短い期間だった。結局、別れを告げる猶予さえなかった彼女は今頃どうしているだろう。共に過ごした日々が遠い過去の記憶となって色褪せたとして、せめて何事もなく息災でいてくれたならば、それで構わなかった。
彼女の夢を応援したい。唯一の理解者でありたいと、傲慢にも思ってしまった対価だろうか――いや、意気地がなかっただけと言われば返す言葉がない。たとえ避けられぬ別れが訪れるとして、いずれ渡せたならばと買い求めた指輪は、九人会が瓦解し、白く四角い部屋で軟禁の日々を送り、そして奇しくも彼女の夢だった各地を巡る業務に携わるようになった現在に至るまで、未練がましくも捨てきれずに自分の手元に残っているのだから。
「……イサンさん、これは?」
書物や走り書きで乱雑になった作業台へ置き去りにしてしまっていた悔恨の欠片とも呼ぶべきそれを拾い上げたのは、自らをリンバス・カンパニーに勧誘した張本人だった。あの頃の輝きを損なうことなく、ランプの灯りを映したそれを色素の薄い双眸で観察しながら、疑問を口にする彼女を一瞥した眼差しが、無意識のうちにそっと外れる。
「心に懸かりせば、持ちゆくべし」
「大切なものでは?」
「……今の私には要なきものなり」
幸い、混じりけのない白金製の指輪だ。実験の触媒としての使い道だってあるだろうし、売却すれば雀の涙程度といえど経費の足しくらいにはなるだろう。何より、自ら手離すことが出来ずにいる執心との決別のきっかけになるのではないかと、自己本位な期待ばかりが頭の中で膨らんでいった。
その一件以降、手元から離れたそれがどうなったのか知る由はない。自分に知る権利はないのだと言い聞かせながらも、視線は知らず知らずのうちに彼女の手元へと向けられる。
――そして、その白魚のような指にあえかな煌きを見出せぬたび、自分勝手な落胆が胸中で浮かび上がっては重くのしかかった。
* * *
幾許かの時が流れ、胸裡を蝕んでいた痛みは多少なりとも和らぎを見せ始めた。
鏡ダンジョン攻略も終盤にさしかかり、敵の練度は勿論、猛攻の勢いも増すばかりである。
「ぐ……っ」
腹部を打ち据える蹴打と同時に、骨の軋む鈍い音が響いた。食道が熱く焼ける感覚。胃酸の逆流をぐっと押しとどめ、振り下ろされた刃を得物で受け止める。火花を散らし、いなした隙をつくようにして懐に飛び込んだ勢いのまま、無防備な喉仏へと刃を突き立てた。力任せに抜き取った傷口から噴出した血潮で白かったはずのシャツが赤く染まったことも気に留めず、呼吸を整えている精神的な余裕も与えられず、次の標的に意識を向けるべく振り返る。
振り返り、目の当たりにしてしまった。
――引き裂かれた胸元からおびただしい血を流し、今にも崩れ落ちそうになるファウストの姿を。
「ファウスト嬢!」
咄嗟に彼女の名を叫んでいた。この身を蝕む痛みも忘れ、もはや無我夢中で駆け抜けたようとした隣から響いた、鋭い剣戟。怪我は――していない。すぐ傍らで打ち鳴らされた舌打ちに意識を向ける。視界の端で短い茶髪が揺らめく様を見た。
心の内で礼を述べながら、危うく地面に頽れかけた華奢な肢体を抱き留める。ただでさえ白い肌は、止め処なく溢れた血のせいで殊更に色味を喪失している。大きく裂かれた衣服の隙間から覗く傷は、一目で致命傷であると判断出来るほど広く、深い。たとえダンテの時計が巻き戻されれば元通りになる身であれ、失血で震える彼女の様子を指を咥えて見守っているわけにもいかない。
少しでも凍える身を温めるべく自身の外套へと手をかけたところで――
「……あ」
此方を捉えた、焦点の合わない瞳。その顔色が、一層青褪める姿を見た。
「っ……見ないで……ください……!」
赤く染まった胸元を隠すようにして、普段であればほとんど感情を窺わせない声を震わせて懇願する彼女に動揺するも――は、と我に返る。許しもなく女性の柔肌に触れるのみにとどまらず、晒された乳房をまじまじと見つめるのは気が引けるが、今はそんなことを言っていられる状況ではないのは確かだ。後で誠心誠意謝るとして――彼女から許しを得られるかどうかについては別として――制止を振り切るように抱き寄せた。
恐怖か、それとも傷みゆえか。一層震えた柔い身体。その拍子に、谷間へと滑り落ちた――赤いぬめりを帯びてこそいたものの――細鎖に繋がれた見覚えのある輝きに、思考が止まってしまったのは流石に想定外だったが。
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#LCB0102
囚人と囚人
これは特段隠していたことではないのだけれど――とはいえ、告げたところで冗句か何かかと思われてまともに取り合われずに終わるだろう――かつてT社の巣にいた頃、懸想していた女性がいた。
開け放たれた窓から覗く、使い古したスケッチブックと向き合いながら、デッサンに励む彼女の様子を興味本位で何気なく眺めていると、白皙――白黒に彩られた世界では本来の色こそ分らなかったものの、色素の薄い女性だったことは覚えている――の横顔が此方を向いた、瞬間。それが出会いの始まりだった。
画家見習いだという彼女のスケッチを時折眺めながら、時折言葉を交わしたり。研究に没入するあまり、しばらく外出すらしない日々が続いた際は、いつの間にか己の所在を聞きつけた彼女が自室に押し入ったり。時には連れ出されて散歩や食事に付き合わされたりしたこともあった。
生まれてこの方巣を出たことがないという彼女は、いつか各地を巡って色とりどりの世界をこの目で見てみたいのだという。自身が持って生まれた色がどのようなものなのか確かめたい。
――イサンさんは、どんな色をしているのでしょうね。
首を傾げながら見つめてくる彼女に言葉が詰まる。自分の髪色は燃える紅葉を連想させる鮮烈な赤でもなければ、目だって宝石のような輝きを放つ青でもない。どちらも何の特徴もない黒色だ。楽しみにしていた分、かえって彼女を失望させてしまうのではないか。彼女がそういう人物ではないと知りながらも、後ろ向きな考えばかりに囚われて怖じ気付いては、ついぞ応えは返せなかった。
四カ月という短い期間だった。結局、別れを告げる猶予さえなかった彼女は今頃どうしているだろう。共に過ごした日々が遠い過去の記憶となって色褪せたとして、せめて何事もなく息災でいてくれたならば、それで構わなかった。
彼女の夢を応援したい。唯一の理解者でありたいと、傲慢にも思ってしまった対価だろうか――いや、意気地がなかっただけと言われば返す言葉がない。たとえ避けられぬ別れが訪れるとして、いずれ渡せたならばと買い求めた指輪は、九人会が瓦解し、白く四角い部屋で軟禁の日々を送り、そして奇しくも彼女の夢だった各地を巡る業務に携わるようになった現在に至るまで、未練がましくも捨てきれずに自分の手元に残っているのだから。
「……イサンさん、これは?」
書物や走り書きで乱雑になった作業台へ置き去りにしてしまっていた悔恨の欠片とも呼ぶべきそれを拾い上げたのは、自らをリンバス・カンパニーに勧誘した張本人だった。あの頃の輝きを損なうことなく、ランプの灯りを映したそれを色素の薄い双眸で観察しながら、疑問を口にする彼女を一瞥した眼差しが、無意識のうちにそっと外れる。
「心に懸かりせば、持ちゆくべし」
「大切なものでは?」
「……今の私には要なきものなり」
幸い、混じりけのない白金製の指輪だ。実験の触媒としての使い道だってあるだろうし、売却すれば雀の涙程度といえど経費の足しくらいにはなるだろう。何より、自ら手離すことが出来ずにいる執心との決別のきっかけになるのではないかと、自己本位な期待ばかりが頭の中で膨らんでいった。
その一件以降、手元から離れたそれがどうなったのか知る由はない。自分に知る権利はないのだと言い聞かせながらも、視線は知らず知らずのうちに彼女の手元へと向けられる。
――そして、その白魚のような指にあえかな煌きを見出せぬたび、自分勝手な落胆が胸中で浮かび上がっては重くのしかかった。
* * *
幾許かの時が流れ、胸裡を蝕んでいた痛みは多少なりとも和らぎを見せ始めた。
鏡ダンジョン攻略も終盤にさしかかり、敵の練度は勿論、猛攻の勢いも増すばかりである。
「ぐ……っ」
腹部を打ち据える蹴打と同時に、骨の軋む鈍い音が響いた。食道が熱く焼ける感覚。胃酸の逆流をぐっと押しとどめ、振り下ろされた刃を得物で受け止める。火花を散らし、いなした隙をつくようにして懐に飛び込んだ勢いのまま、無防備な喉仏へと刃を突き立てた。力任せに抜き取った傷口から噴出した血潮で白かったはずのシャツが赤く染まったことも気に留めず、呼吸を整えている精神的な余裕も与えられず、次の標的に意識を向けるべく振り返る。
振り返り、目の当たりにしてしまった。
――引き裂かれた胸元からおびただしい血を流し、今にも崩れ落ちそうになるファウストの姿を。
「ファウスト嬢!」
咄嗟に彼女の名を叫んでいた。この身を蝕む痛みも忘れ、もはや無我夢中で駆け抜けたようとした隣から響いた、鋭い剣戟。怪我は――していない。すぐ傍らで打ち鳴らされた舌打ちに意識を向ける。視界の端で短い茶髪が揺らめく様を見た。
心の内で礼を述べながら、危うく地面に頽れかけた華奢な肢体を抱き留める。ただでさえ白い肌は、止め処なく溢れた血のせいで殊更に色味を喪失している。大きく裂かれた衣服の隙間から覗く傷は、一目で致命傷であると判断出来るほど広く、深い。たとえダンテの時計が巻き戻されれば元通りになる身であれ、失血で震える彼女の様子を指を咥えて見守っているわけにもいかない。
少しでも凍える身を温めるべく自身の外套へと手をかけたところで――
「……あ」
此方を捉えた、焦点の合わない瞳。その顔色が、一層青褪める姿を見た。
「っ……見ないで……ください……!」
赤く染まった胸元を隠すようにして、普段であればほとんど感情を窺わせない声を震わせて懇願する彼女に動揺するも――は、と我に返る。許しもなく女性の柔肌に触れるのみにとどまらず、晒された乳房をまじまじと見つめるのは気が引けるが、今はそんなことを言っていられる状況ではないのは確かだ。後で誠心誠意謝るとして――彼女から許しを得られるかどうかについては別として――制止を振り切るように抱き寄せた。
恐怖か、それとも傷みゆえか。一層震えた柔い身体。その拍子に、谷間へと滑り落ちた――赤いぬめりを帯びてこそいたものの――細鎖に繋がれた見覚えのある輝きに、思考が止まってしまったのは流石に想定外だったが。
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#LCB0102
W社整理要員
イサンという人物がどのような人物なのか問われたところで、彼と接点がないに等しい自分が答えられることは限られている。
たとえば、彼が自分よりも階級の高い三級整理要員であることとか。
新人の頃、彼が新人研修の師範役として教鞭を執っていたこととか。
普段は風に吹かれればそのまま飛んでいきそうなほどぼうっとしているのに、整理業務中の立ち居振る舞いは敏捷で無駄がないこととか。
あとは――W社で勤務し始めてそこそこの時間が経ったが、彼が怒る場面はおろか、微笑む姿すら一度たりとも見たことはなかったように思う。ただただ粛々と業務をこなし、取り乱すことなく冷静に、いや、まるで心をどこかに落としてきたかのような――とはいえ、新人研修の時はどこか楽しげだったかも知れない。人にものを教えるのが好きなのだろうか――能面めいた無表情を崩すことのなかった彼は、存外にも他者に対して寛容らしい。時には整理業務中に負傷した整理要員の代打として、時にはどうしても外せない用事があると頭を下げる社員の代わりとして、夜間及び終電の整理業務に従事する様子をこれまでにそれなりの頻度で見てきた。勿論、彼が加わることで作業効率は飛躍的に向上するので共に仕事をする側としてはありがたい限りだが、その次の日も自分が出勤する頃にはすでに業務の支度をしているイサンの姿を見かけるせいで、はたして彼は人間に必要な睡眠をまともに取れているかどうかすら不思議に思うことがあった――ふとした疑問に対する回答は、目の下に拵えた隈が如実に物語っているだろう。
彼がそこまで身を粉にして働いている理由など、皆目見当もつかない。身近な知人――良秀のように整理業務という天職に喜びを見出しているとは、とてもではないが考えにくい。それならば困った人を見過ごせないというただの純然たる親切心か、はたまた自分の方が仕事を効率的に済ませられるという自信や傲りと言われた方がまだ納得出来る。
第一、自分から接点がないと言いきったはずの男について、何故今更になって、その上柄にもなくああでもないこうでもないと延々と思考と推論を繰り返しているのか。
おそらく、雑談に花を咲かせる同僚達の会話を小耳に挟んでしまったのが原因だ。業務中、「乗客」の暴走によって整理職員数名が全治数週間の負傷を被ったという。しかも件の乗客を取り押さえられず、やむなく三級整理要員が増援に向かったと聞いた。今日は珍しく良秀が上機嫌だったことから、列車整理に宛てがわれたのだと察しはついていたが――なるほど、その内の一人にイサンも含まれていたらしい。
二級から三級への昇格はそう簡単なことではない。無論、彼等が口々に三級整理要員の戦闘能力に対して賞賛の声を贈っていたことは確かだが、中には謂れのない中傷も含まれているものだ。
イサンさんは何を考えているのか分からない――気味が悪い、と。
「……っと、いけないいけない」
これ以上思考を引きずられたところでろくなことはない。本日最後の整理業務はすでに完了した。時計を確認すると、定時まであと少しだ。帰宅する途中で気になっていたレストランにでも立ち寄って、あたたかい夕食で腹を満たせば、多少なりとも思考だってリセット出来るに違いない。ぐっと伸びを一つ、足取り軽く廊下の角を抜けようとした目前で、不意に誰かの話し声が鼓膜を打つ。この先には更衣室があるはずだが、近くで同じく定時を迎えようとしている社員達が話でもしているのだろうか。首をもたげる好奇心の赴くまま、角からこそりと顔を覗かせると、まず視界に入ったのは整理職員と――確か、彼も三級整理要員だったことを覚えている――そして、その手前にイサンの後ろ姿があった。
「今日のトラブルで終電勤務だった整理要員が不足しててな……悪いんだがイサン、代わりに入れないか?」
うわあ、と知らず知らずのうちに声が漏れてしまっていた。よりによって、こんな時に限ってタイミングが悪い。口ぶりからして人手が足りていないのは事実だろうけれど、彼とまたどうせイサンならば断りきれないと踏んで声をかけたのだろう。こんなところにいては、下手をすれば自分まで巻き込まれる形で夜間残業を言い渡されかねない。ここは勘付かれる前に、距離を取って適当に時間を潰した方が良さそうだ。
細心の注意を払いながら踵を返そうとして――ふと、これまでまじまじと見ることのなかったイサンの横顔を一瞥する。普段と変わらない、生気の抜けた無表情。どこか遠くへと向けられているような昏い眼差しから垣間見えた感情は悲観ではなく、かといって達観の境地に達しているわけでもない。
きっとそれは――諦観。
「ちょっとイサンさ~ん!」
手足を動かすよりも先に、気付けば口を開いていた。一歩遅れる形で勢いをつけて背後からのしかかるようにして抱き竦めると、分かりやすいほど吃驚の色に染まった双眸がこちらへ向けられる。
「もぅ、僕との約束のこと忘れちゃったんですか~?」
状況が理解出来ていないのだろう。忙しなく目を白黒させているイサンの耳元で――合わせて――彼にのみ聞こえるように囁きを落とすと、ぱっと人好きのする笑みを顔を貼り付けた。
「すみません~。お手伝いしたいのは山々なんですけど、今日はイサンさんとご飯を食べに行く約束をしてまして~」
そうですよね~、と同意を求めたならば、時が止まったかのように微動だにしなかったイサンが弾かれたように、ぎこちない動きながら首を縦に振る。
「何だお前ら、そんなに仲良かったのか?」
「それはもう~。イサンさん、最近残業続きだったのでたまには美味しいものでも食べて英気を養ってもらおうと思って~」
我ながら、思いつきの即興が次から次へと口を衝いて出るものだと感心する。今日イサンを助けたところで、明日には晴れて、何の接点もない他人同士なのだから。そうなると分かっていながら、どうしてこれほど彼の肩を持とうとしたのか、今更考えたところで明確な理由は浮かんでこない。
いや、もし、あるとするならば――
「何だ、随分楽しそうなことを話しているじゃないか。俺も仲間に入れてくれないか?」
刹那、背中越しに届いた声があった。
「……げっ」
心なしか聞き覚えのある凛としたそれに、目の前に立っている男の表情が露骨なまでに歪んでいく様に目を瞬かせながら、恐る恐ると振り返ってみる。切れ長の赤い双眸を楽しげに細めたその人は、しかし茶番劇に興ずる自分達の存在など気にも留めず、淀みない足取りで職員の前へと歩み寄った。
「ちょうど暇していたところなんだ。人手が足りないって言うなら、夜間だけなんて言わずに今からでも構わないぞ。何、遠慮するな」
普段であればほとんど見せることのない喜色を湛える彼女に詰め寄られる職員の顔色は、もはや蝋のように生気を失ってしまっている。何とかしてこの状況から逃げる術を模索しているのだろう。まるで助けを求めるように視線を泳がせている姿があまりに憐れで、心ともなく同情してしまった。
「あ、ああ悪い用事を思い出した! お前ら、遊ぶのはいいが羽目を外しすぎないように気を付けて帰れよ!」
挙句の果てには脇目も振らずに走り去っていく背中を見送る傍ら。
「ちっ、腰抜けが」
肝心の良秀はといえば、先ほどと打って変わり、自身の不機嫌を隠す気などなく舌を打った。これは――彼女の思惑は別にあるして――彼女に助けられたと考えていいだろう。
「おぉ……流石です、良秀さん。おかげで助かりました~」
満面の笑みを伴い、両手を叩きながら近付く。案の定、鋭い眼光に睨めつけられた。
「何だ、まだいたのか?」
いつものように紫煙を燻らせながら、普段と変わらないぞんざいな彼女の応えに、寧ろ安心感さえ芽生えてくる。
「だって、お礼がまだでしたし~」
「ホンル君の言う通りなり」追随するようにしてイサンはようやく口を開く。「私からも礼を言わせなむ。……二人とも、此度はかたじけなし」
「礼の一つを寄越すくらいなら、一件でも多く俺に整理業務を割り振るよう掛け合ってくれよ」
俺はより多くの芸術と出会いたいだけだからな――煙を吐き出しながら続けられた彼女の言葉は、どこまでも自分自身に正直だった。まあ、そこが彼女らしいと言えばらしいのだが。
「あは、どういたしまして~。それにしても……ん~……気が抜けたら一気に小腹が空いてきちゃいました」伸びの動作に合わせて時計を見上げる。就業時間はとっくに過ぎていた。「折角ですし、このまま何か食べに行きませんか?」
そう言って、覗き込んだイサンの丸みを帯びた瞳にあえかな光が宿る瞬間を見た。まさか、本当に誘われるとは夢にも思っていなかったのだろうか。接してみてようやく気付いたことだが、確かにほとんど表情に変化は見られないとはいえ、彼は存外に驚きやすく、動揺しやすい。
「あ、もしかしてこのまま帰ろうって思ってました? え~……僕、夕食を食べに行こうって約束したじゃないですか~。酷いなあ」
その証拠として、いっそわざとらしく頬を膨らませると、慌てふためくイサンの挙動が面白くて、思わず噴出しそうになるのを何とか堪える。
「あ、あれや演技ならざりける?」
「演技じゃないですよ~。今、演技じゃなくなりました」
子どもの屁理屈だが、このまま別れるには惜しい――もう少しだけ、彼と話してみたいと思ってしまったことは確かだ。
「勿論、良秀さんもご一緒しますよね?」
「おいイサン、断っていいぞ。俺も帰るからな」
「そんな~。僕と良秀さんの仲じゃないですか~」
「気・悪・言。叩き斬るぞ?」
いつも通りの言葉の応酬。ただ、いつもと違うことがあるとすれば。
「…………ふふ、」
その中に、堪えきれずにとうとう零れ落ちた笑声が一つ、混じったことくらい。
――それはきっと、これから何かが芽吹く予兆。
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