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in the MIRROR
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性癖の煮凝り。

No.12, No.11, No.10, No.9, No.8, No.7, No.67件]

朝に照らされるだけの生命/イサファウ
囚人と囚人

 これは特段隠していたことではないのだけれど――とはいえ、告げたところで冗句か何かかと思われてまともに取り合われずに終わるだろう――かつてT社の巣にいた頃、懸想していた女性がいた。
 開け放たれた窓から覗く、使い古したスケッチブックと向き合いながら、デッサンに励む彼女の様子を興味本位で何気なく眺めていると、白皙――白黒に彩られた世界では本来の色こそ分らなかったものの、色素の薄い女性だったことは覚えている――の横顔が此方を向いた、瞬間。それが出会いの始まりだった。
 画家見習いだという彼女のスケッチを時折眺めながら、時折言葉を交わしたり。研究に没入するあまり、しばらく外出すらしない日々が続いた際は、いつの間にか己の所在を聞きつけた彼女が自室に押し入ったり。時には連れ出されて散歩や食事に付き合わされたりしたこともあった。
 生まれてこの方巣を出たことがないという彼女は、いつか各地を巡って色とりどりの世界をこの目で見てみたいのだという。自身が持って生まれた色がどのようなものなのか確かめたい。
 ――イサンさんは、どんな色をしているのでしょうね。
 首を傾げながら見つめてくる彼女に言葉が詰まる。自分の髪色は燃える紅葉を連想させる鮮烈な赤でもなければ、目だって宝石のような輝きを放つ青でもない。どちらも何の特徴もない黒色だ。楽しみにしていた分、かえって彼女を失望させてしまうのではないか。彼女がそういう人物ではないと知りながらも、後ろ向きな考えばかりに囚われて怖じ気付いては、ついぞ応えは返せなかった。
 四カ月という短い期間だった。結局、別れを告げる猶予さえなかった彼女は今頃どうしているだろう。共に過ごした日々が遠い過去の記憶となって色褪せたとして、せめて何事もなく息災でいてくれたならば、それで構わなかった。
 彼女の夢を応援したい。唯一の理解者でありたいと、傲慢にも思ってしまった対価だろうか――いや、意気地がなかっただけと言われば返す言葉がない。たとえ避けられぬ別れが訪れるとして、いずれ渡せたならばと買い求めた指輪は、九人会が瓦解し、白く四角い部屋で軟禁の日々を送り、そして奇しくも彼女の夢だった各地を巡る業務に携わるようになった現在に至るまで、未練がましくも捨てきれずに自分の手元に残っているのだから。
「……イサンさん、これは?」
 書物や走り書きで乱雑になった作業台へ置き去りにしてしまっていた悔恨の欠片とも呼ぶべきそれを拾い上げたのは、自らをリンバス・カンパニーに勧誘した張本人だった。あの頃の輝きを損なうことなく、ランプの灯りを映したそれを色素の薄い双眸で観察しながら、疑問を口にする彼女を一瞥した眼差しが、無意識のうちにそっと外れる。
「心に懸かりせば、持ちゆくべし」
「大切なものでは?」
「……今の私には要なきものなり」
 幸い、混じりけのない白金製の指輪だ。実験の触媒としての使い道だってあるだろうし、売却すれば雀の涙程度といえど経費の足しくらいにはなるだろう。何より、自ら手離すことが出来ずにいる執心との決別のきっかけになるのではないかと、自己本位な期待ばかりが頭の中で膨らんでいった。
 その一件以降、手元から離れたそれがどうなったのか知る由はない。自分に知る権利はないのだと言い聞かせながらも、視線は知らず知らずのうちに彼女の手元へと向けられる。
 ――そして、その白魚のような指にあえかな煌きを見出せぬたび、自分勝手な落胆が胸中で浮かび上がっては重くのしかかった。

   * * *
 
 幾許かの時が流れ、胸裡を蝕んでいた痛みは多少なりとも和らぎを見せ始めた。
 鏡ダンジョン攻略も終盤にさしかかり、敵の練度は勿論、猛攻の勢いも増すばかりである。
「ぐ……っ」
 腹部を打ち据える蹴打と同時に、骨の軋む鈍い音が響いた。食道が熱く焼ける感覚。胃酸の逆流をぐっと押しとどめ、振り下ろされた刃を得物で受け止める。火花を散らし、いなした隙をつくようにして懐に飛び込んだ勢いのまま、無防備な喉仏へと刃を突き立てた。力任せに抜き取った傷口から噴出した血潮で白かったはずのシャツが赤く染まったことも気に留めず、呼吸を整えている精神的な余裕も与えられず、次の標的に意識を向けるべく振り返る。
 振り返り、目の当たりにしてしまった。
 ――引き裂かれた胸元からおびただしい血を流し、今にも崩れ落ちそうになるファウストの姿を。
「ファウスト嬢!」
 咄嗟に彼女の名を叫んでいた。この身を蝕む痛みも忘れ、もはや無我夢中で駆け抜けたようとした隣から響いた、鋭い剣戟。怪我は――していない。すぐ傍らで打ち鳴らされた舌打ちに意識を向ける。視界の端で短い茶髪が揺らめく様を見た。
 心の内で礼を述べながら、危うく地面に頽れかけた華奢な肢体を抱き留める。ただでさえ白い肌は、止め処なく溢れた血のせいで殊更に色味を喪失している。大きく裂かれた衣服の隙間から覗く傷は、一目で致命傷であると判断出来るほど広く、深い。たとえダンテの時計が巻き戻されれば元通りになる身であれ、失血で震える彼女の様子を指を咥えて見守っているわけにもいかない。
 少しでも凍える身を温めるべく自身の外套へと手をかけたところで――
「……あ」
 此方を捉えた、焦点の合わない瞳。その顔色が、一層青褪める姿を見た。
「っ……見ないで……ください……!」
 赤く染まった胸元を隠すようにして、普段であればほとんど感情を窺わせない声を震わせて懇願する彼女に動揺するも――は、と我に返る。許しもなく女性の柔肌に触れるのみにとどまらず、晒された乳房をまじまじと見つめるのは気が引けるが、今はそんなことを言っていられる状況ではないのは確かだ。後で誠心誠意謝るとして――彼女から許しを得られるかどうかについては別として――制止を振り切るように抱き寄せた。
 恐怖か、それとも傷みゆえか。一層震えた柔い身体。その拍子に、谷間へと滑り落ちた――赤いぬめりを帯びてこそいたものの――細鎖に繋がれた見覚えのある輝きに、思考が止まってしまったのは流石に想定外だったが。
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#LCB0102

LimbusCompany,

傷のひめごと/イサファウ
囚人と囚人

 新たに発見された鏡ダンジョンから戻る頃には、すでに太陽はとっぷりと暮れ始めていた。黄昏の色に染まる空を見上げては、全員が五体満足での帰還を果たしたことに内心胸を撫で下ろす。今回の探索は想定した以上に長丁場になってしまった。どっと押し寄せる疲労感の中、今日はバスに戻り次第、そのまま本日の業務終了を宣言してしまおうか――そのようなことを考えながら、先程まで激しい攻防を繰り広げていた囚人達の様子を密かに窺う。戦闘時に纏っていた人格を剥ぎ取り、本来の姿に戻ったばかりの彼等は疲れた、腹が減った等と思い思いの言葉を口にしている。もはや狂信と呼んで相違ない信仰を説いて回ることもなければ、常に自身を苛み続ける頭痛と精神汚染に呻き苦しむこともない。いっそ安堵すら覚えるほど、いつも通りの光景だ。
「……――」
 ――音を成さぬ呟きを虚空に溶かした、囚人一名を除いて。
〈イサン?〉
 一見した限りでは沈思黙考に耽っているようにも見えて、口元を押さえたまま俯く青年の名を呼んだ。ただでさえ血色の悪い白皙の顔は目に見えて青褪めてしまっている。
〈イサン、大丈夫?〉
 もう一度彼の名を呼ぶと、今度こそ緩慢な動作で此方を捉えた射干玉(ぬばたま)色の双眸が動揺に揺れ動いた――その直前、一瞬だけ見せた視線を見逃すことはなかった。無防備に晒された心臓を刃で斬り裂かれるような、混じりけのない純然たる殺意が籠ったそれに、脊髄に冷水を注ぎ込まれる感覚に気圧されかけた心を奮い立たせ、時針を鳴らす。
〈……辛いようだったら、アフターチームを呼んでもらおうか?〉
「否……否」イサンは頭を振る。頭の痛みを堪え忍ぶように深く息を吸い、吐い、ようやく上げた顔は努めて感情を排除していたけれど、隠しきれない疲労と憂いが滲んでいることは明らかだった。「大事なし。すなわち癒ゆ」
 まるで過去に逆戻りしてしまったのではないかと錯覚するほど、イサンは何人との接触からも距離を置こうとしている。彼が何故そうすべきだと判断したのか、確信めいたものがあったからこそ、ダンテはこれ以上彼にかけるべき言葉を言いあぐねていた。
 きっと、対象は何だって構わない。行く手に立ちはだかる幻想体でも、面談のために派遣されたアフターチームでも、苦楽を共にしてきた囚人でも――それこそ、管理人たるダンテでさえ例外ではないのかも知れない。
 足りぬのだと。あの時、紡がれた呟きこそ聞こえなかったけれど、彼の唇はそう模られていた。
 彼は彼自身の意思とは関係なく、何かをくだくだに斬り刻みたくて仕方がないのだ。
 だからこそ、イサンは自身に孤独であることを強要しようとしている。
 皆に対して誰よりも心を砕くような優しい彼が、誰かを傷つける行為をよしとするはずなどなかった。
〈……とりあえず、今はバスへ戻ろう。歩ける?〉
 とはいえ、この状態の彼をそうそう放置出来るわけもない。何か己に出来ることはないのだろうかと思索を巡らせる傍ら、込み上げる無力感を呑み下しながら、投げかけた問いを肯定するようにイサンは小さく頷いた。
 ――もし幸いがあるとしたら、彼を気にかけていたのがダンテだけではなかったという事実だろうか。

   * * *

 本来、囚人の管理、統率は管理人であるダンテの管轄であり、案内人ならば兎も角として他の囚人が踏み込むべきでない領分であることは確かだ。しかし、身の安全を優先すべき管理人を害する可能性があるというのならば、その限りではない。
 ――それに、剣契(コムゲ)の人格から元に戻った後、垣間見せた彼の精神状態が気にならなかったのかと問われれば、確かにそれは嘘になった。
「イサンさん、ファウストです」
 収容室めいた扉の前に立ったファウストは、備え付けられた照明が茫洋と輪郭を映し出すそれを叩きながら、部屋の主たる囚人の名を呼ぶ。返事はなく、沈黙ばかりが返ってくる扉のノブに手をかけると、僅かに力を籠めただけでそれは抵抗もなく回り、いとも容易く向こう側へと繋がった。鍵をかけ忘れるとは、あまりに不用心ではなかろうか。それとも、施錠するだけの余裕が彼に残されていなかったのか――頭を過る一抹の不安が杞憂であれば良いと願った。
 しかし、鼻について離れない鉄の臭いに、これが現実であることを嫌というほどに突きつけた。開け放たれた扉から射し込む灯りのみが照らす薄暗い室内、足の踏み場がないほど乱雑に散らばった書類と書物の中、頽れるように座り込んだ青年の後ろ姿を視線が捉える。一歩、一歩と歩み寄るたび、イサンが手にしているものが彼の得物であることが分かった。
 もう一歩、近付く。とうとう自我を取り戻した彼の顔が、ゆっくりと此方を振り向いた。
「……ファウスト嬢?」
 はっきりと、見てしまった。すっかり憔悴しきった彼の顔を。
 左手首に刻まれた切り傷から、目を焼くほど鮮やかな赤い色が止め処なく滲み出る様を。
 右手に握られたままの短剣の刃に血が付着している状況から、イサン本人が自らを傷付けたことは明白だった。屈み込みながら彼の左手に触れた途端、怯えにも似た震えが皮膚越しに伝わってくる。まるで壊れ物でも扱うかのように、体温の低い手のひらをそうっと包み込むようにして、今しがた刻まれたばかりの傷口を診た。傷自体はやや深めでこそあるが、真皮までは達していない。この程度で死に至るようなことはまずないに等しいが、たとえ彼が失血死したところで、ダンテが時計の針を巻き戻しさえすれば済む話だ。
「……しびれはありませんか?」
 イサンはやおら首肯する。
「動かしにくさは?」
「……否」
 自分の手の中で、男性にしては華奢な指が開き、閉じられる。動きに問題はない。幸い、神経までは傷付けていないようだ。恐らく、混濁する意識の中でありながら敢えて外したのだろう――流石は天才と言ったところか。
「とりあえずダンテのところへ行きましょう」
 ハンカチで押さえた創部を強く圧迫すると、耐え忍ぶように僅かに息を詰める声が鼓膜を震わせる。今日はダンテが不寝番だ。彼の能力があれば、イサンが付けた傷は即座に「なかった」ものにされる。そうすれば、精神面は兎も角として、身体面で明日の業務に支障が出ることはない。しかし当の彼は俯いたまま、頑なに首を縦に振ろうとはしなかった。
「業務のために必要なことです。どうかご理解ください」
「しかし」
「……このまま傷が化膿する可能性もあります。痕が残ってしまうかも知れません」
 イサンがダンテに対して、この件に関する報告を躊躇っているのは、単に自分自身を傷付けてしまった事実を秘匿したいだけではないことは理解に容易い。彼はただ、ダンテを含めた囚人全員に――この光景を目撃していなければ、その中にファウスト本人も含まれていたに違いない――自身の危うい状態を見られたくなかった。皆に心配をさせまいという一心だっただけだ。
 たとえ我が身が苦痛に蝕まれようとも、イサンという囚人は声を上げることなく、全てをひた隠しにしようとすることだろう。それほどの器用さと演技力を持ち合わせていない事実は、彼自身が一番知っているだろうに。
 だからこそ、切実な色を帯びた黒い眼差しに見つめられると、己が執るべき判断を見誤りそうになる。
 無言で逡巡を重ねている間にも、布地に滲む彼の血は刻一刻と乾き、黒く変色していく。
「……ついてきてください」
 ファウストは廊下を一瞥し、誰もいないことを確認すると、イサンの手を引いて部屋を飛び出した。

   * * *

 辿り着いたのは、静寂に包まれた医務室だった。
「このまま押さえていてください」
 消毒液の臭いばかりが漂うその場所で、イサンを適当な椅子に座らせるや否や、備え付けられた棚を物色し始める。ここならば、傷の処置に必要な物品は大抵揃うはずだ。滅菌済みの縫合糸、縫合針、持針器にピンセット――良かった、局所麻酔薬のアンプルも見つけられた。消毒した手指を手袋で覆う。開放した切創を生理食塩液で可能な限り洗浄し、周辺皮膚まで入念に消毒液を塗布し終えた後、医務室にあるもので最も細い注射針を取り付けたシリンジに薬液を充填する様子を、僅かに眉を顰めながらも彼は黙って見ていた。
「今から麻酔を施します。少し痛むと思いますが、耐えてください」
「……言うに及ばず」
 イサンの応えに頷くと、ファウストはおもむろに針先を傷に向ける。消毒液が乾燥していることを目視で確認し、創部の端に注射針を刺入した瞬間、押さえていた手が微かに震えた。緩慢な速度で局所麻酔を注入するたび、呻きを漏らしそうになる口唇は強く結ばれ、注入が一段落するたびに綻びては、細い吐息を零す。しばらくすると少しずつ麻酔が効いてきたのか、それとも断続的に与えられる痛みに知覚が鈍麻してきたのか――固く強ばっていた表情が徐々に凪いでいく様を見て、無意識のうちに寄せていた愁眉を開いた。
 慎重に創へと縫合針を通し、縫い、結ぶ。刺入部から珠のように浮かび上がる血を滅菌ガーゼで時折拭いながら、一連の動作を粛々と繰り返していく。
 ようやく折り返し地点に到達したところで、ふと目線を彼に向けてみた。
「……痛みはありませんか?」
「大事なし」
「そうですか」
 少なくとも、嘘を言っているようには見えない――それなら良かったですと、口を衝いて出かけた言葉を喉奥にしまい、目の前の作業に集中することとした。
「……ファウスト嬢。その技術、如何にして?」
「ファウストは優秀なので」
 頭上から不意打ちのように投げかけられた問いへ、目も合わせぬまま紡ぎ出した言葉は――たとえそれが事実であるとはいえ――とても回答の体を成していなかっただろうに。
「成程……さなり」
 ふ、と噴出された笑い。右手で隠した口角をあえかに緩めながら、彼が紡ぐ言葉には決して嘲りも憐憫も含まれていない。ただただ純粋な賞賛に、あたたかいものが灯るような感覚を覚えた。

 些か不格好であることは否めないが、丁寧に閉じ終えた縫合創へフィルムドレッシング剤を貼り付ける。
「後ほど抗菌薬と鎮痛薬を用意しましょう。一日三回、忘れずに内服してください」
「かたじけなし」
 青年の眼差しが、処置を終えたばかりの傷から治療器具の片付けを行う同僚へと移された。深い感謝の念を惜しまぬそれに、当然の成果であると自負しながらもまんざらでもない心地を抱いたことに対して否定はしないが――己を律するように咳払いをひとつ。
「ファウストが行ったのは、飽くまで創の処置だけです。今回の件については、管理人様への報告は必ず行ってもらいますよう」
「無論、承知せり」
 囚人が業務遂行にあたり何らかのトラブルが生じた場合、管理人であるダンテへの報告義務が発生する。今回の人格混濁の件といい、自傷の件といい、いずれも可及的速やかに管理人への報告がなされて然るべき「トラブル」だが、囚人本人の精神状態を鑑みて此方も最大限譲渡したのだ。彼にも最低限の規則だけは遵守してもらわなければならない。
 それに――他でもないイサン自身から報告を受けた方が、彼の件で随分と気を揉んでいた様子のダンテも安心するだろう。少なくとも、彼が嘘を吐くことはないだろうけれど、後日改めてダンテに確認をすることにして、洗浄した器具を消毒液で満たされた槽に沈めた。
「……明日の業務終了後、傷の確認に伺います」
「うむ。――時に、ファウスト嬢」
「はい」
 まだ他に話すべき事項はあったろうか。小首を傾げながら、続く言葉を待った。
「カウヒイと茶……そなたはいずかたや好みなるや?」
「……ファウストはお茶をしにいくわけではないのですが」
 ――やはり、彼を前にすると調子を狂わされてしまう。

     * * *
 
 傷の処置を施した夜から、すでに数日が経過していた。創部の治癒過程も問題なく、多少の傷跡は残るものの、それも徐々に目立たない程度には消失していくだろう。そういえば本日の業務行動中に裏路地の露店前で、真剣な眼差しをしたイサンがロージャと話している姿を見かけたものの、果たしてどのような会話をしているのか、会話の内容までは聞き取れなかった。
「ダンテ」
〈……うん?〉
 業務自体に支障が出るわけではないが、ほんの僅かな疎外感(不純物)を頭の外に追いやり、あの夜と同じように不寝番をしていた管理人のもとへと歩を進める。近付く足音に気付いたのだろう、ゆるりと振り返った時計頭が小さく傾いた。当然のように隣の座席へ腰かけながら、彼が持つLCB-PDAを覗き込む。今日も記録をしたためていたのだろうか。
 二人の間に訪れた、しばしの静寂。さすがに沈黙に耐えかねたのか、頻りに此方の様子を窺ってくる視線――目もないのに「視線」と称していいものかまでは疑問だけれど――を意に介さず、自身のペースを崩さず口を開く。
「……今回の件、イサンさんからの報告はありましたか?」
〈今回、と言うと傷のこと?〉ダンテは首を縦に振る。〈数日前にね。自分で傷つけたって聞いた時は驚いたけれど……傷は勿論、精神的にもだいぶ持ち直したみたいで安心した〉
「そうですか」
〈ファウストさんが処置してくれたんだろう? イサンも感謝してたよ〉
 改めて、それも本人以外の第三者からそのように言葉にされると、多少なりとも面映いものがある。悟られぬようポーカーフェイスに努めようとする傍ら。
〈……そういえば〉
 端末に視線を落としていたダンテが、唐突に何かを思い出したかのように顔を上げ、ダンテは続けた。
〈イサンに傷を見せてもらおうと思ったら、断られたんだ――これは二人だけの秘密だからって〉
 思いも寄らぬ発言。一体自分は今、どのような顔をしているのだろう。
 不意に、圧迫止血の際に用いたハンカチのことが脳裡を過る。イサンの血で黒く変色してしまったため、やむを得ず破棄したそれを、いずれは弁償させて欲しいとイサン本人が話していたことを何故、今思い出したのだろう。
「イサンさんがそう言ったのでしょう?」
 ロージャ。露店。まさかとは思うが。
「……ならば、秘密です」

 ――本当に。彼のことになると調子を狂わされてしまう。
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#LCB0102

LimbusCompany,

親愛なる嫩緑に捧ぐ/ホンイサ
囚人とセブン協会

 一切の無駄が排除された、流れるような動作で間合いを詰めた、刹那。鋭い銀閃を描きながら穿たれたサーベルが、敵の防御をいとも容易く突き崩す。
「――ホンル君」
「承りました~」
 よく知る同僚の、いつもよりも凛とした響きを持った声に応じるようにしてホンルは踏み込むと――自分から連携を図る必要はない。彼がさも当然のように息を合わせてくれるのだから――間髪入れず、体勢を崩したK社検問所要員の顔面へと振り上げた偃月刀を渾身の力で叩きつけた。破壊されたヘルメットの割れ目から惜しげなくぶち撒けられる、脳漿雑じりの赤い血。ここまで徹底的にやってしまえば、たとえHP弾を用いたとことで再起するのは難しいだろう。頬にまでかかった血飛沫を外套の袖で拭い、肺臓に溜まった空気を吐き出す。未だ倒さなければならない敵を全て片付けたわけではなく、痙攣の止まらぬそれから次の標的へと視線を移そうとして、
「……あ」
 目の当たりにした光景にぎょっと目を見開いた。死角から振り翳された警棒が、もう一人の攻撃をいなしたばかりのイサンに向けられていたからだ。
 まずい。声を出すよりも先に、伸ばした手が深緑色の袖を引いていた。胸の中へと引き寄せた身を庇うように前へ出るや否や、痺れるような一撃を凌いだ右腕の骨が軋んで悲鳴を上げる。眉を顰めながらも、受け流した勢いを乗せたまましっかと握り締めた得物の鋒を敵に向け、動きを止めることなくパワードスーツごと敵の首元を掻き切る。湿りけのある音を立てて頽れた、物言わぬ肉塊――その様子に動揺した隙を突くようにして、自身のものではない、すらりと伸びた足によって足蹴にされた肢体が血溜まりのぬめりに足を取られた。思いも寄らぬ援護によって無機質な床に沈んだそれが立ち上がる猶予すら与えず、無防備になった心臓を目がけて偃月刀を突き立てる。ずぶぶずと肉に刃が食い込んでいく生々しい感触、蛙が潰れたようなくぐもった断末魔。跳ねるように痙攣した身体が活動を止めたその後には、もはや静寂しか残らない。
「かたじけなし」
「いえ、僕の方こそ助かりました~」
 僅かに弾んだ呼吸を整えていると、すぐ下方から声が聞こえた。そういえば、咄嗟の判断で彼を匿う形になってしまったことを今更になって思い出す。先ほどの援護と口ぶりを見るに、どうやら無事ではあるらしい。
「……さても、そろそろ移ろうべしと思えども」
 怪我をしていないか尋ねるより一歩先に、淡々とした口調でイサンは続ける。
「いつまでかくようにすべしや?」
 矢庭に告げられた簡潔な言葉。瞬き一つ、向き合うように振り返ったところで、これまでの思考が全て吹き飛んだ。
「……あ」
 疑問がぐるぐると堂々巡りを繰り返す。これは一体、どういう状況だ。いや、寧ろ――自分がこれほどまでに身体を密着させて、彼の細腰を掻き抱いていることについて、何故今の今まで気付かなかったのだろう。
「……あ~……」
 充満する鉄錆の臭気に混じって鼻孔を微かに擽る、香しいコーヒーの匂い。衣服越しに伝わってくる、自分より低めの心地好い体温。
「あは、いきなりすみません。息苦しくありませんでしたか~?」
 命のやりとりをする場で、不謹慎にももう少しだけこうしていたい、だなんて。気を抜けば霧散しかねない理性をどうにか踏み留め、滲んだ手汗を誤魔化すようぱっと開いた両手をひらつかせながら、口元にはいつもと寸分変わらぬ笑みを模ってみせる。
「ふむ」
 イサン――正確には「南部セブン協会に所属するフィクサー」としての人格を上書きしたイサンは、思考に耽るように顎に手を添えていた。ほとんど零距離に近い位置から見つめてくる黒い眼差しは、そこに湛えられた好奇の輝きを隠そうともしない。
「い、イサンさん?」
 居た堪れずに思わず一歩後退すると、あろうことかその一歩を詰められた上、不意打ちで胸に押しつけられた手の感触で、心臓が飛び出してしまいそうな心地だった。
「鼓動がいと速し」
「いきなり触られたら、誰だってびっくりしますよ~」
「目をだに見合わせ話したまえ」
 溜息と共に指摘されてしまっては反論も出来ない。事実、不可抗力とはいえ自分がしでかした行動に対する気恥ずかしさばかりが先行してしまい、目の前にいる彼と視線を合わせることすら出来ずにいるのは確かなのだから。
「はは……兎も角、今は早くダンテさん達と合流しないと、でしょう?」
 とはいえ、このまま気まずい空気を長引かせるわけにもいかない。もはや日課と呼んでも差し支えない鏡ダンジョンの攻略に赴いたまでは良いものの、ダンジョン自体に何らかの不具合が生じたのか、現在ホンルとイサンは他の囚人とはぐれる形で行動を共にしている。幸い序盤ということもあり、現れる敵は二人だけで十分に対処可能ではあったけれど、可能な限り速やかに管理人達と合流するに越したことはなかった。
「というわけでそろそろ出発しましょうか……あっ。足元、滑りやすくなっていますから、転ばないように気をつけてくださいね~」
「心配には及ばず」
 粛々と得物を鞘に納めながら応えを返すと、しっかりとした足取りで前を向いたまま歩を進める。通り過ぎていく横顔を、自ずと視線が追っていた。烏を連想させる艶やかな漆黒の髪も、伏せがちな双眸も、深いくまを拵えた愁いを帯びた顔立ちも、ホンルの知るイサンと何ら変わらない。彼もまた、数多に存在している世界線のいずれかに属する「イサン」なのだから、それも当然のことだ。
 しかし、今ここにいるイサンは自身の知る「彼」と比べて、冷静沈着で成熟していた――それは剣契の「彼」とて同じなのだけれど、あちらが冴え冴えとした月光を体現したような冷たさを帯びているとしたら、こちらの「彼」は澄み渡った水を湛える清流を連想させるそれに近い。
 情報収集を生業とするがゆえか観察眼に優れ、先達として助言を惜しまず、怜悧とした面持ちを損なうことなく、常に泰然自若であり続ける。鏡のようにありのままを映し込む瞳の前ではいくら平静を装おうと、秘すべき胸中の全てを見透かされてしまうのではないかと心の粟立ちを感じると同時に、不意の心細さに襲われる。
 ここにいる青年は、自分の知る「彼」ではない。無論、彼も「イサン」であることに違いはないのだけれど――ホンル自身が懸想の情を抱いたのは、誰よりも心優しく純粋で、危なっかしいほど繊細な囚人の「彼」だ。それだけは、たとえ人格を除いた全てが、彼と同一の存在であったとしてもそれは変わらない。
 ちくり、胸に針が刺さるような感覚に襲われる。彼に会いたいと思ってしまった。
 我がことながら滑稽だ。今更恋に恋焦がれるような齢でもなかろうに。
「……やれ」
 数歩前を歩いていた彼が、小さく零す。
「そなたら、あまりに心若し」
「へっ……、わ」
 言葉の真意を咀嚼しようとして、意表を突かれてしまった。振り向き様の指先がネクタイを捉え、やや強引に引き寄せられる。額がかち合ってしまいそうな――ほんの少しだけ顎を前に突き出してしまえば、互いの口唇が触れてしまいそうな距離で見つめられていた。
「私はかくせらるれど」
 感情を読み取ることの難しい、端正なポーカーフェイス。逸らすことも、瞬きすらも許されない眼差しが己を捉える。早鐘のように打ち鳴らされる心音が五月蝿い。顔の皮膚が熱を帯びていく感覚がまざまざと分かった。
「いずこぞの馬の骨に取らるるとも知らず」
 ぱっとネクタイから手を離し、珍しく緩やかな弧を描くような笑みを湛えて。
「――精進したまえ」
 そう結ぶと、まるで何事もなかったかのように身を翻した。

 そのようなやりとりが行われてからしばらくして、特筆すべきトラブルも発生することなく、特にドラマティックな物語が紡がれるようなこともなく、二人は無事に管理人達と合流を果たした。これまで囚人達が分断されるような事態に前例がなかったからだろうか。原因を検証、排除すべく、人格が戻ったばかりのファウストにいくつか質問を投げかけられた以外には、これといって何事もなかった――いや、そういえば合流してすぐにウーティスから声をかけられたことを思い出す。
「私の部下に、何か粗相がなかったか?」
 何の許しもなく管理人から離れたことに対して小言が飛んでくるかと思いきや、思いがけない言葉に不覚にも面食らってしまったものの、彼女が現在纏っていたのがイサンと同じ深緑色のスーツだったことでようやく合点がいった。自身に向けられている橙色の視線に対して、どこ吹く風と言わんばかりの態度を崩そうとしない部下の様子に、上司はやれやれと頭を抱えながら嘆息を漏らす――人格が塗り替わるだけでこうも変わるのか。目の前で繰り広げられた光景に、ほんの少しだけ感動してしまった。
「ホンル君」
 呼び留められ、ふと我に返る。軽やかな音を立てて歩み寄ってきたのが、囚人としての装いへと戻ったばかりのイサンだったことに内心安堵の胸を撫で下ろした――この身を案じてくれたのだろうか。ホンルの無事を認めたことで心なしか和らいだ表情に、たとえ思い上がりだとしても舞い上がりそうになる――ことを悟られぬよう、振り向きながら歓迎の意を示すように相好を崩した。
「そなた、息災なりや?」
「はい、この通り。イサンさんのお陰で助かりました~」
「礼ならば、セブンの私に言うべし。……私自身は何もしたらねば」
 そう言って、伏せがちになった視線を逸らす姿の愛らしいことといったら。
 今すぐにでも強く抱き締めたい衝動を抑える代わり、他の囚人から隠れるようにして後ろ手にそっと彼の手を引き、ほのかに冷たい指へと己のそれを絡める。やや長めの前髪の下、隠しきれないはにかみに目を細めた。
 ――いずこぞの馬の骨に取らるるとも知らず。
 不意に「イサン」から言われた忠言が脳裡を過る。
 仮に何かを失ったところで、後悔などという情は湧いてこない。
 しかし、彼のことになれば話は別だ。自分以外に頬を赤らめて恥らう様子も、よく笑顔で綻ぶようになった口唇を誰かに奪われる姿も見たくない。
 それだけは、いやだ。
「……今日、僕の部屋にお茶でも飲みに来ませんか?」
 そうして零れ落ちた言葉は、緊張で酷く震えていなかっただろうか。

   * * *

「――ダンテ」
〈どうかした、イサン?〉
 LCB‐PDA越しに顔を合わせたセブン協会のイサンに、ダンテは首を傾げてみせる。冷静な態度は崩していなかったものの、随分と物憂げな表情で沈思黙考に耽っていたようだが、まさかのっぴきならない状況にでも追い詰められているのだろうか。
〈大丈夫? 私で良ければ相談に乗るけど〉
「うむ」
 自分には話を聞く程度しか出来ないとはいえ、言語化することで多少気が紛れるかも知れない。顎に手を置いていたイサンの眼差しが向けられる。重々しく閉ざされていたその口唇が、言葉を紡ぐべくゆっくりと開いた。
「……心許なき我が朋の片恋を成就さすために、いかがすべしと思う?」
 囚人達を統括する管理人として、一言一句聞き逃さぬよう注意深く耳を傾けていた時計頭がデスクに勢い良く突っ伏すまでに、そう時間はかからなかった。
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#LCB61 #セブン協会

LimbusCompany,

その睫毛に幸いばかりが降り積もりますように/ホンイサ
囚人と囚人

 太陽がちょうど真南に到達する頃、メフィストフェレスが停車したのは、喧騒から一歩離れた雑木林の小路だった。道なりにもうしばらく進めば、最寄りの裏路地で適当な店に入って昼食と相成っただろうが、肝心の運転手の言によると「カロンはおなかが空いた。だから、これから休憩時間」とのことで、ここから梃子でも動くつもりはないらしい。こうなってしまっては、実質的な決定権が案内人ではなく彼女にある以上、その決定を覆すことで躍起になるよりも大人しく食料の調達に赴いた方がずっと楽だ。幸い、今回の当番がホンルとグレゴールだったおかげで、口論へと発展する前にどうにか場を収めることが出来た。
 全員から確認したリクエストを紙に書き留め、与えられた資金の範囲内で買い出しを行う。他の囚人にとっては退屈で面倒この上ない作業であったとして、まるで「おつかい」のようなそれが、ホンルにとっては新鮮で楽しく思えた。ささやかな冒険に充足した満足感を得たまま、何事もなくバスへの帰路に就く。思い思いに休憩時間を過ごしていた囚人達に対して、自分の手元にある食料を滞りなく配り終えたところで、
「おーい、ホンルさん」
 同じく自身の作業を終えたばかりであろうグレゴールの声がして、顔を上げる――いや、終えたにしては些か困惑の色を滲ませ、無精髭の生えた顎を何度も擦りながらバスに乗り込んでくる同僚の様子に、首を傾げながら近くに寄ると、彼が浮かべていた表情の原因が何なのか、図らずも見えてきた。
 グレゴールが抱える紙袋に残っていたのは、サンドイッチとコーヒー。自分の記憶が正しければ、これはどちらもイサンが頼んだはずのものだ。
「一応、バスの周辺はくまなく見て回ったんだが、どうにも見当たらなくてな……」
 その調子じゃ、あんたも見かけてなさそうだな。丸くした両の目を瞬かせているホンルの様子に察しがついたのだろう。煙草を咥えた唇の隙間から、紫煙混じりの溜息を器用に吐き出すグレゴールとは対照的に、すでに見当がついているのか、あっけらかんとした口調を崩さずにホンルは続けた。
「あ~……ひょっとしたら、林の中に入っちゃったのかも?」
 彼は皆の輪に入り、賑やかな語らいを楽しむタイプではあったけれど、それ以上に草花や星を愛でながら、自然の織りなす静寂に身を委ねることを好むような人物だった。そういえばつい先日、申請の受理された書物が一冊支給されたのだと話していたことを思い出す。いつもはバスの定位置で本の世界に入り浸っている彼だけれど、窓辺から射し込む木漏れ日の麗らかさに、惹き寄せられるものがあったのかも知れない。
「ほら、今日は陽射しも心地好くて、読書にも日光浴にももってこいですし~」
「そんなじいさんじゃあるまいし……」
 一拍の沈黙。
「……いやまぁ、でもイサンさんだからな」
 思わず言い淀んでしまったグレゴールの反応も無理はなかった。癖の強い囚人の中では比較的良識があり、模範的で扱いやすい部類に入る彼だが、時折その天性と呼ぶべきマイペースぶりを遺憾なく発揮し、想像だにしない行動力を披露することで周囲に豆鉄砲でも浴びた鳩のような顔をさせる――それが己の知るイサンという男である。
「あは、よければ僕の方で渡しておきますよ~」
「あてはあるのか?」
「まあ大体の、ですけど~」
 ついと視線を彼の座席――その後ろにある窓、さらにその先に広がる青々とした緑へと向ける。彼ならば万が一でも自身が探される身になった場合を想定して、皆の声がすぐ聞こえるように、そして皆がすぐ自分を見つけられるように、それほど奥まった場所までは足を運んでいないはずだ。
 足を踏み入れた雑木林は心地好い静謐を湛えていて、耳を澄ませずとも、楽しげな小鳥の囀りや風に揺れて擦れ合う木々のささめきで満たされていた。
 都市の真只中であれば、まっさきに掻き消されかねないくらい幽けき音――ホンルはそこに、知らず知らずのうちに口遊んでいた自身の鼻歌を添えながら、ほとんど人の手が加えられていない道なき道へと歩みを進めていく。捜索と呼ぶにはあまりに短い時間だったけれど、さほど歩かずして休憩するにはちょうど良い開けた場所も――
「……あらら」
 ――あどけない寝顔を無防備に晒している尋ね人の姿も、無事に見つけることが出来た。肩にかけていた外套が汚れることも厭わず、草花の生い茂る地面に寝転がったまま――神経質そうに見せかけて、割とすぼらなところがある――閉じた本を抱いた胸元を穏やかに上下させるイサンの隣に腰かける。もしかすると、ここから見える空でも仰ぎ見ていたのだろうか。そんなことを考えながら、膝を抱えるようにして晴れ渡る蒼穹を気ままに流れゆく雲をしばらく眺めた。
 不意に、雲とは異なる影が視界を横切る。落ち葉でも飛んできたのだろうかと思いきや、それにしては風に飛ばされたというよりも舞っているに近いそれを視線でゆるりと追ってみると、その影の正体が一羽の蝶であるとようやく気付く。小さな翅を羽ばたかせる白いそれは伸びやかに降下を続け、そして。
 まるでそれは羽休めでもするかのように、イサンの顔――閉じていた眼瞼を縁取る睫毛に舞い降り、そして留まった。
 幻想物語でも見せられているかのような光景に、ぱちぱちと瞬きを繰り返したまま見つめていた双眸を、蝶が飛んでいかぬよう細心の注意を払いながらそろりと彼の顔へと近付けてみる。こうして間近で観察すると、目元に刻まれていたくまが以前に比べて心なしか薄くなってきたような気がすることだったり、上向いた睫毛が存外に長いことだったり、新たな発見がいくつかあった。何よりも、彼が健やかにある事実を喜ばしく感じるのは、以前演じたことのある「男」の影響によるものか。否、少なくともそれだけではないことを、今のホンルは理解している。
 こうも幸せそうな姿を晒されてしまっては、今すぐ起こしてしまうというのもどうにも気が引ける。幸い、昼食を摂る時間を加味しても、休憩が終わるまでにはもうしばらくの猶予が残されている。しかし、ここで待つことにするとして、イサンが目を覚ます――もしくは目を覚まさなければならない時間になるまでの間、どうやって暇を潰したものか。このままのんびり日向ぼっこと洒落込むか、イサンの抱いている本をちょっとだけ拝借するか、それとも――落とした視線、膝上に置いた紙袋から自身の昼食を取り出そうとして止める。
 囚人になって初めて体験した「空腹」という感覚には未だに慣れないものの、空になった臓腑が満たされるあの瞬間の、得も言われぬ多幸感を知ってしまった。
 家にいた――家族と食卓を囲っていた頃には感じられなかった、共にありたいと思える誰かと食事をする幸福感を、覚えてしまった。
 だから、もう少しだけ我慢していよう。
 不意に、彼の顔に降りかかろうとした落ち葉を慌てて手で遮る。起こしてしまわなかったろうかと恐る恐る覗き込むも、目を開けるどころか睫毛を陣取っている蝶すら飛び去る素振りを見せないことに、ほっと胸を撫で下ろした。
 指先に摘まんだ一枚の葉をいっとき弄んだ後、手放したそれが風に流れていく様を見送って――好奇心の赴くまま、彼を真似るように柔らかな緑の絨毯へと身を委ねてみた。噎せ返るような土と新緑の匂いに包まれる中、再び午睡に耽るイサンの顔を眺める。寝息を立てる口元がほんの僅かにだけ緩んでいる様子に相好を崩しながら。
 彼が見ているであろう夢の世界が、せめて優しいものでありますように。
 ささやかな祈りを、白皙の頬に触れた指先へと乗せた。
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#LCB61

LimbusCompany,

アイオライト/イサファウ
囚人と整理要員

 その異形は、辛うじて人の形を保っていた。隻腕に握られた短剣が文字通り虚空を捉えると、まるで紙を裂くようにして易々と暴かれた、妖しく光る空間へと誘われるかのように落ちていく。
 空間を裂く技術――それはある翼がかつて所持していた、現在はW社が特許を購入した特異点のひとつ。この技術を用いることによって、W社はいかに遠い場所であっても短時間で目的地に到達することが出来る列車を作り上げるに至った。
 だが、そのような「文明の利器」とも呼ぶべき発明には、身の毛もよだつような悍ましい実情が隠されていることを、ファウストは知っている。
 刹那、仰ぎ見た上空が音を立てて横一文字に裂けた。片翼めいた背の触手を広げ、血に塗れたコートをはためかせながら、軽やかに宙に身を翻した青年。彼の繰る刃は、剥き出しになった組織に侵食された瞳には一切の光が届かないであろうにもかかわらず、正確無比に敵の心臓を穿ち抜いた。
 血振りした短剣から纏っていたはずの茫洋とした光は徐々に失われ、夥しい赤色を滲ませた濃紺の装いは漆黒に、絡みついていた組織は千々に(ほつ)れて消えていく。ちぎれていたはずの左手も、それが当たり前であるように、綺麗に元通りになっていることにだってもはや今となっては驚かない。
 そこにはいつもと変わらない、囚人としてのイサンが短剣をホルスターに納めていた。
 ――W社の清掃要員としてのファウストにとっては、何も知らない「イサン」が。

〈よし。何とかみんな生き残れたね〉
 すでに動くことをやめた亡骸を避けるようにして、管理人は戦闘を終えたばかりの囚人達に歩み寄り、労いの言葉を掛けていく。
 鏡ダンジョンに足を踏み入れ、そろそろ第四階層を踏破しようとしていた。最下層へと近付くにつれ、現れる敵性固体の練度は高まり続け、もはやこれまでに集めた資源を頼りにE.G.Oの発動なしでは円滑な進行は儘ならずにいる。
「ダンテ。提案があります」
〈ファウスト?〉
 しかしE.G.Oの発動は、使用者に対して著しい精神の摩耗を伴う。幻想体の力は強大であるがゆえに受けた傷こそ最低限に収まってはいるものの、囚人達の疲労は着実に蓄積し、個々の自我を蝕み始めていた。
「この先に自動販売機が設置されているようです。体力および精神力の回復を推奨します」
〈そうだね。あの一帯は敵も出ないし……ついでに休憩も挟もうか〉
 何よりも――知らず知らず、鴉羽色の囚人に向けていた視線を管理人に戻す。管理人自身も同意見だったらしく、快く首肯すると、安堵と歓喜の声を上げて我先にと進み始める囚人に並ぶようにして足を踏み出した。
 並び歩く背中を見つめていたのは、何もファウストだけではない。数歩離れた場所で、自身と同じ方角を静かに見遣るイサンの白皙には、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。
 その顔色は、各囚人が思い思いの休憩時間を過ごし始めた後でも変わることはなかった。
「……イサンさん、大丈夫ですか?」
 無理もないことだと、ファウストは思う。
W社がひた隠しにする空間転移技術の正体。
 ワープ列車は、本当にワープをしているわけではない。T社の提供する技術によって、どれほどの年月を走ったところで、あたかも時間が経過していないように見せかけているだけに過ぎない。
 永遠とすら錯覚してしまいそうな時間、異空間を彷徨わなければならない乗客に待っているのは、たとえ正気を失い、時に自ら命を断ち、時に殺し合い、ただの物言わぬ肉塊になり果てようと、死ぬことは許されない無間地獄。
 事前に収集していたデータをもとに人体を復元するため、出来上がった地獄を仕分け、整理し、席に戻す――その工程こそ、我々清掃要員に課せられた「仕事」だった。
 だからこそ、次元裂きと銘打たれたE.G.Oを用いるたび、次元の狭間に落ちたイサンが、あの無限に続くとも知らぬ「地獄」を体験させられているであろうことは、容易に想像出来る。
 唯一、此方側に戻ってくる手立てがあることだけは、彼にとって幸いだろう。
 ――「彼」が戻ってこなかったことを思い出すたび、そう思ってしまう。
「どうぞ」
「……かたじけなし」
 差し入れられた缶を一瞥してようやく、イサンの注意は此方に向けられる。自動販売機から購入されたそれは回復効果があるようで、少しばかり落ち着きを取り戻したのか、小さく吐息を零した彼の隣へと何とはなしに腰を下ろした。
 耳を傾けると、鼓膜が拾ってくるのは囚人達の談笑。そして自動販売機から流れる微かな振動音。
 互いに口数は多い方ではない上、特に話したい事柄も見つからず、二人の間にはただただ沈黙が流れていたけれど。
「……イサンさん」
 単なる好奇心ゆえか。はたまた、缶を渡す際に皮膚に触れたイサンの指先が、あまりにも冷えていたがゆえか。
「あの空間は――あなたにとって、どのように映りましたか?」
 思わず口を衝いて出た問いかけに、イサンは黒曜石めいた目を丸く瞬かせ、ファウストを見る。
 自分らしからぬ失言だった。
 本来、ワープ列車の真実はW社にとって秘匿されなければならない極秘事項だ。万が一でも白日の下に晒されようものならば、会社の権威は失墜し、折れた翼が地に落ちることは免れない。そのような真相を一端とはいえ、少なくともW社とは無関係であるイサンが有しているという事実は、ファウストにとって――少なくとも、現在の人格を宿した「ファウスト」にとっては、だが――あまり好ましいことではない。
 だからこそ、わざわざ掘り返すべき話ではなかった。
 ――それでも、彼があの空間をどのように思い、どのように考えたのか。彼だけの所感を聞きたいのだと、心のどこかで思ってしまった。
「…………ふむ、」
 しばしの黙考の末。
「あえて言い現わさば……」イサンの指が、缶の縁をなぞる。「――色々が恍惚で、端からえ記憶させぬ道かな」
「あのような地獄に遭ってなお、辛くないと?」
「ファウスト嬢。我が身は万能にあらざれば、目に映れる物事全て、今めかしく思うべきなり」
 ゆえに、よき旅路なりき――そう結ぶと、再び両手に包み込んだ缶の中身を啜った。
 ファウストにとって、彼の言葉は簡単に信じられるものではなかった。如何に知的好奇心を掻き立てるような魅力に溢れていたとして、途方もない時間と絶望を前にしては、全てが色褪せていくだろうに。
 一人でいる時間を決して苦痛と思ったことはないけれど、永遠とも呼べる孤独を想像するだけで、気が狂いそうになる。
 仮に、この悪い夢から無事に醒めたとして――その時、果たして何人が自分のことを覚えていてくれるだろう。
「……ああ、されど」
 不意に、何かを思い出したように零された声色。ふいと視線を上げたファウストの肩へとかかった重みに、何が起きたか分からず真白になった頭で隣を見つめる。
「イサンさん?」
「この熱ばかりは、恋しきものなり」
 視界に入り込んだのは、睫毛の長い眼瞼を微睡ませながら、しなだれるようにして己に凭れかかるイサンの姿だった。もしや飲料に変なものでも入っていただろうか。覗き込むと、胸は微かに上下している。恐らく、単に睡魔が訪れただけなのだろう。
「……起こしてさしあげますから、仮眠を取られた方が良いかと」
 安堵を溜息に紛らせ、応える。緩慢な動作で頷いた青年は、同じく緩やかにその瞼を閉ざした。呑気に寝息を立てている傍らの顔を観察すると、倣うようにして彼の身体に寄りかかる。
 ファウスト自身、イサンの全てを知っているわけではなかった。
 ここにいる彼に関して言えば、別段親しいわけでもない。
 次元の狭間に落ちてしまった「彼」も、イサンと同じことを考えていたのだろうか。それは、分からない。
 彼は「彼」ではない。頭ではきちんと理解している。
 けれど――それでも。

 もし彼がこの先、不慮の事故に遭ったとして。
 彼がいた事実が公から抹消されたとしても。
 せめて、自分だけは記憶していよう。そう、心に刻んで。
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#LCB0102 #W社

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