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性癖の煮凝り。

No.25, No.24, No.23, No.22, No.21, No.20, No.197件]

残香/ホンイサ
K社と壇香梅

 これは、一体どのような状況なのだろうか。
「隣、良いですか?」
 そう言って、今まさに――己の返答すら待つ素振りも見せず――隣の座席に腰掛けようとしている男が纏っているボディースーツを、忘れるはずがない。多くの同胞を殺め、数多の血を吸い上げてなお、忌々しいエメラルド色の輝きを損なうことのないそれは、K社に属する三級摘出職職員の装いだった。
 男は人懐こい快活な――「摘出」などと称する殺し合いの時と何ら変わらぬ笑みを湛えたまま、異なる彩りを持つ双眸が覗き込んできたかと思いきや。
「あははっ、そんなに睨まないでくださいよ~」まるで鈴でも転がすような声で呑気に笑い、続ける。「今は共闘関係にあるわけですし、わざわざ敵対する必要なんてないじゃないですか」
「戯言を……」
「まあまあそう言わずに~」
 笑顔を崩さぬ男の言い分とて、決して間違えているわけではない。今の我々はリンバスカンパニー――その一部署で、管理人を務めるダンテの指示を受けて動く身に過ぎない。仮に周囲の制止を振り切ってでも目の前にいる男と「死闘」を繰り広げ、いずれかの時間が止まったところで、管理人が時針を巻き戻してしまえば、まるで何事もなかったかのように息を吹き返して再び正常に時を刻み始めるのだろう。
 これまでの犠牲に一矢を報いることさえ出来ない、何の意味もない、不毛な行為。
 それゆえの、不干渉。
「それに僕、前々からあなたとは話してみたいと思ってたんです」
 その花枝、身体から直接生えてるんですか?
 花で隠れている目はちゃんと見えてるんですか?
 花が萎れたり枯れたりすることはあるんですか?
 普段はどんな食事をしてるんですか?
 ――等々。ああ、いつになったらそのお喋りな舌が乾ききって、(おし)のように黙ってくれるのか。やはり舌の一つくらい切り落としておくべきだったか。若干の後悔に苛まれながらも、矢継ぎ早に投げかけられる彼の問いに対しては溜息で応えを返しながら、視線を向けた盆上に用意されていたのは、なだらかなフォルムを描く白磁の茶壷と茶杯が二つ。他の囚人の影響か、どうやらこの世界線の「イサン」は、最近好んで茶を口にしているらしい――状況からの憶測になるが、何者かをもてなそうと茶を淹れてから間もなくして招集がかかったようだ。
 時が過ぎ、すっかり冷めきってしまった茶杯の片割れを持ち上げる。眼前で揺らぐ淡黄色の水面。鼻を近付けてみると、甘やかな花の香りがした。
「それ、もしかして菊花茶です?」
「……そなた、分かるや?」
「あなたの纏う香りの方が強いので、少し自信がなかったんですけどね~。多分そうだと思います……あ、やっぱりそうだ」
 同じようにして茶杯を手に取り、香りを楽しみながら――正答に安堵したのか、見目麗しく咲き誇る百花もかくやとばかりの鮮やかな微笑を深める男は、頼んでもいないのに淀みない口調でさらに言葉を紡ぎあげていく。
「懐かしいなぁ。これでも僕、昔はゆったりとお茶をして過ごしてたんですよ~。色んな茶葉を集めて、嗜んできたので、お茶には多少自信があるんです」
「……斯様なやんごとなき趣味を持ちしそなたが、何故K社の摘出職なぞにつきけりや?」
「ふふ、やっと僕に興味を持ってくれました?」
 口を衝いて出た疑問に、翡翠めいた瞳が一層の煌きをもって瞬いた。失言だったと舌を打ったところでもう遅い。
 しかし、塵ほども興味がないかと問われたならば、それはそれで嘘になる。
 口ぶりからも、彼が明らかな嘘を吐いているようには見えない。何より、ほんの僅かな交流でも分かる美しい所作、整った身なりからも鑑みるに、元は相当裕福な家の出だったのだろうと想像に難くなかった。
 安穏としたひとときを好んでいたであろうこの男が、どのような経緯を経てK社に入社し、自らの身を血で染め上げるに至ったのか。
 ――けれど、同時に知ってはならないと頭のどこかで警鐘が鳴り響いている。
 視線を、話題を一方的に打ち切るべく、些か大仰な所作で扇子を開いた途端に鼻孔へと広がるえ辛い花の香。僅かに覚えた頭痛を誤魔化すようにして、杯に注がれた茶を一息に呷った。
「……話は終わりき。その茶を飲まば疾く私の前より失せたまえ」
 幸い「イサン」が淹れた茶だ。毒の類いが入っているはずもない。それでも、いくら待てども彼は水面を見下ろすばかりで、一向に口をつけようとはしなかった。
「う~ん……お茶のお誘いは嬉しいんですけど~……」しばらくして、心なしか名残惜しげに手の中にあった杯を卓上に戻しながら、男は笑う。「人らしい食事を摂らなくなってから久しくて。もしかすると吐いちゃうかも知れないので、遠慮しておきます」
 こともなげに吐露された言葉の意味を、噛み砕くまでにはしばしの時間を要した。
 そうして、茶杯を見つめていたはずの眼差しがこちらを捉えたかと思えば、彼は何も言わずに、やがて困ったように目を細める。
 待ち望んだものとは程遠い、痛いほどの静寂。
 唖のように黙り込んでしまったのは、他でもない自分自身だった。

 ――果たして、自分は一体、どのような顔をしていたのだろうか。
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#LCB61 #技術解放連合 #K社

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地獄を描く/良ロジャ
リウ協会

 彼女の纏う炎は、普段の彼女のように、皆を包み込むような優しく生ぬるいものではない。頬を撫ぜるだけで皮膚を焼き、骨肉を灰燼に帰すような、より鮮烈で、煌々としていて、苛烈なそれ。猛る火の粉を撒き散らす戦場は、まさに彼女の独壇場だ。その中心で、熱風に踊る髪が焦がれることすら気に留めることなく――まあ、どうせ後ほど高い声でキイキイ喚くのだろうけれど――身を躍らせていた。
 肺腑を満たした煙を深く吐き出す。ふいと持ち上げた指先、紫煙をくゆらせていた煙草で彼女の輪郭をなぞっていく。決して短くはない時間、まるで眼前の光景を網膜に焼きつけるかのごとく――刹那の瞬きすら、あまりに惜しい。
 自ずと口角が歪む。
「――芸術だな」
 独り言ちた呟きは、猛火によってかき消されていった。
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#LCB49 #リウ協会

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血風、咲き誇れ/イサファウ
壇香梅と剣契

 風に揺れる濡羽色の髪。
 陽光に映る白皙。
 伏せた目元に深々と刻まれたくま。
 知っている男と瓜二つの――当然だ、彼もまた「イサン」なのだから――けれど、知らない男の持つ扇が空を切ると共に、一等鮮烈な黄色が視界を覆い尽くす。まるで演舞でも披露するかの如く、花色と同じそれが振るわれるたび、一層の鮮やかさを増して花々は咲き乱れ、血の臭いすら掩蔽されてしまうほどに、ぴりっとした蘞辛い香りで鼻孔は満たされていった。
 噴き上がる赤が黄色にかかっては、花弁のひとひら、またひとひらを染め上げていく。
 息を吸うように刀を振り上げ、吐くようにして斬り伏せる。それが「剣契」と呼ばれる集団だ――しかし、いつしか刀を持つ右手を下ろしたまま、やがて晴れた視界に名残惜しささえ覚えながら、自分はその光景にただただ魅入っていた。

 ――あんな風に、美しい花を咲かせることが出来たならば。

 物言わぬ死屍累々。夥しい血河。
 訪れた静謐の中、先ほどと同じ場所に佇む男に何かしらの変わった様子もなく――その身を一切の血を浴びることなく、涼しげな面持ちを崩すことなく、扇で自身の顔をあおいでいる。
「そなた……魂抜けきめりかし?」
 不意に、心の臓が高鳴る。
 扇で口元を隠したまま、こちらへと向けられた眼差しがあった。まるで自ら爛々と煌めくような金色の眼を、自分は知らない。
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#LCB0102 #技術解放連合 #剣契

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Trick or Treat?/イサファウ
囚人と囚人

「トリックオアトリート」
 不寝の晩、夜気のように凛と澄み渡った響きをもって、最もこういった行事に興味を示すことはないと思っていた人物から発せられた魔法の呪文に、イサンは読みかけていた本を危うく手から転げ落としそうになりながら、隣で己を見つめる双眸を凝視してしまった。
「……ファウスト嬢?」
「先程、あなたが囚人に菓子を与えている姿を偶然目撃しましたので」
 先程――頁を手繰っていた指先を顎に当て、彼女の言葉を租借する。全ての発端は鏡ダンジョン攻略の合間、殺し合いの最中でありながら、比較的自由に動ける時間、憩いの場におけるロジオンの行動だった。
「ねえおちびちゃん達、今日は何の日か覚えてる?」
「今日、ですか? ええっと……確か、今日は一〇月三一日ですね」
「一〇月三一日というとハロウィンでありまするな! 人々が思い思いに仮装し、『トリックオアトリート』と唱えるだけで菓子がもらえるという! あの!」
「ふふっ、ご名答~」
 華やぐような、どこか悪戯めいた満面の笑みを湛えたロジオンがポケットより取り出したのは、色とりどりの包装に包まれた飴玉だ。それ等を二つずつ、手を差し出すようなジェスチャーを取る彼女に倣った二人の手のひらへと乗せていく。
「へ、ろ、ロージャさん?」
「ヴェル達には内緒だからね?」
 目を輝かせながら手の上に落ちてきた星めいたそれを眺めるドンキホーテの傍ら、目を瞬かせながら顔を上げたシンクレアに――本人はウィンクをしているつもりなのであろう――両目をぎゅっと瞑りながら、艶やかに粧した己の口元に指を添えた。
「へぇ、ハロウィンっていうんですか。下々ではそういう催しがあるんですね~」
 そのような一部始終を観察していたホンルにとって、ハロウィンという行事は多少なりとも新鮮に映ったのだろうか。じゃあ僕も、等とまるで先達の行動を真似るようにして差し出された月餅は明らかに一般人では簡単に手が届かぬほど高級品で、慄く二人と私も欲しいと黄色い声を上げる大きな後ろ姿を遠巻きから眺めながら、ふと、自身の纏う外套のポケットへと手を伸ばす。
 謙遜ではなく、本当に大したものではかった。糖分補給用にと用意していた一口サイズのチョコだというのに、渡した途端にぱっと綻ぶあどけない面持ちに、ささやかで尊い日常の一幕に、木漏れ日の中にいるかのようなぬくもりがゆるゆると胸に染み入っていく――そう、ちょうど鏡ダンジョン攻略のメンバーとして、彼女はあの場に居合わせていた。
 常と変わらぬ、感情を悟らせぬポーカーフェイスで、まさか彼女が自分に菓子を所望してくるとは夢にも思うまい。
「……イサンさん?」
 小首を傾げながら、ファウストはこちらを見つめている。さて、どうしたものか。年少者の二人だけではなく、ホンルとロジオンにもチョコを渡してしまった。ポケットを探る指は何も掴めず、ただただ布地に触れるばかりだ。
「ファウストは知っています。菓子をもらえないのなら悪戯して構わないと」
 沈黙と視線ばかりが突き刺さる。
「もらえないのでしたら……いたずら以外の選択はありませんが」
「……待ちたまえ。しばし、待ちたまえ」
「ファウストはもう十分待ちました」
 どうやら、これ以上猶予を与えるつもりはないらしい。手のひらに汗が滲む。もう片方のポケットへと手を伸ばす――指先に触れる、固いもの。縋るようにして細長い箇所を摘まみ、引き上げたそれはいつぞや手に入れた――少なくとも自ら購入したものではない。囚人の誰かから譲り受けた品だろう――棒付きのキャンディだった。おそらく葡萄味なのだろうその艶やかな飴先を彼女に向けながら、様子を窺う。
「…………」
「…………」
 再び訪れる沈黙。
 もしや気に入らなかったのだろうか。
「……致し方ありませんね」血の気が引くような心地など露知らず、差し出されたそれを受け取ろうとする彼女は心なしか不服そうに、白皙の頬を膨らませながら。
「頂きましょう」
 そう、小さく溜息を吐いたのだった。

「……彼女は、よりよき品を欲したりけむや?」
「う~ん……ファウも大概だけど、イサンさんはもう少し乙女心を学んだ方がいいかもねぇ?」
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#LCB0102

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名称未設定の感情/ホンイサ
囚人と囚人

「今、何を考えてるんです?」
 茫洋と、バスと外界を隔てる硝子窓の先を眺めていた眼差しがおもむろに此方へと向けられる。月のない夜空をそのまま嵌め込んだかのような昏い双眸は、確かに自分の姿だけを映しているはずなのに、どこか遠くを――自分ではない「誰か」を見ているのではないかと錯覚してしまうほど、酷く虚ろだった。
 唐突で不躾な問いかけに対して、彼が眉を顰めることも、微笑を湛えることもしない。人よりも幾許か長い沈思黙考を重ね、淡々とした落ち着いた低音に言の葉を乗せる。
「――何も」
 ごくごく短い、最低限の応えを紡ぎ終えると、告げるべきことは告げたと言わんばかりに黒い視線は再び虚空へと注がれる。「白紙」と呼ぶには不自然な、まるで紙いっぱいに描いた絵を全て白い塗料で塗り潰してしまったような違和感を覚えるそれだったけれど、前のめりになってまで回答を追求したいと思えるほど、この青年に対して特段の興味や関心があったわけでもない。
「ふぅん……そうですか」
 だから、いつものように笑みを浮かべて、回答への謝辞を伝えてからその場を後にした。

 イサン。自分と同じく「リンバスカンパニー」に所属する囚人の一人。口数が少なく、感情の起伏に乏しい彼を冷静沈着な才物だと讃える者もいれば、陰気臭い根暗だと捉える者もいるだろう――とはいえ、最終的には「捉えどころのない不思議な人」という結論に帰結するのだが。
 時間の大半を思索に暮れ、思考の処理に費やすイサンが一体何を考え、何を思っているのか――奥まで見通せない霧めいたそれに手を伸ばしたところで、虚空を掠めるばかりで確信を掴めた試しは一度たりともなかった。彼について、さして深くを知りたいとすら思っていなかったのだから、至極当然なことだ。

 ――イサン。今何を考えてるんだ?
 ――知るらん。……何も。

 あの時と変わらない質問。変わらない回答。
 それでもあの瞬間、自分――正確には自分の演ずる「ヨンジ兄」に対してなのだろうけれども――に向けられた微笑は、これまでそう短くもない期間、共に業務をこなしてきた中でさえ初めて目の当たりにするほど、酷く穏やかだったことをほんの少し前のことのように鮮明に覚えている。
 イサンの自我心道で与えられた自身の「役柄」が、彼の為人を知るきっかけとなったことは言うまでもない。
 だからといって、イサンの心情を慮った末に導き出した推量も、彼を放っておけないと――彼のことをもっと知りたいのだと願ったこの望みの全てが、演じた役柄に感化された結果によるものだと思いたくはなかった。

 黄金の枝を回収し、K社の巣を後にしてからどれほどの月日が流れたのか、疾うの前に忘れてしまった。気ままな雑談に花を咲かせる囚人達を乗せ、メフィストフェレスは今日も今日とて時折激しくなる振動に揺られながら、今のところ穏やかな旅路を進む。しかし、こうもバスでの移動ばかりを続けていると身体も鈍るし、どうも退屈で仕方がない。管理人であるダンテに進言すれば、今日の鏡ダンジョン攻略に優先して同行させてもらえないだろうか。
 そんなことを考えながら手持無沙汰に髪先を弄ぶ傍ら、ふと視線は目の前の座席に腰かけているイサンへと向けていた。また小難しい書物でも読み解いているらしい彼の横顔は表情こそ普段と変わらないように見えて、心なしか眉間が寄っているような――
「イサンさ~ん」
「! ……ああ。そなた、私に何か用向きなりや?」
 弾かれたように見開かれた夜色の瞳が此方を捉えるや否や、安堵でもしたかのようにその目元がふわりと綻ぶ様を見つめては、自ずと頬が緩んでしまいそうになる。自我心道での一件以来、どこかふっきれた様子のイサンを観察していると、何を考えているのか読み取ることさえ難渋したポーカーフェイスは、未だ硬いながらも以前と比べて幾分も柔らかくなり、そして豊かになったように思う。
「用ってほどじゃないんですけど~。何かお悩みのようだったので、少し気になったというか」
「う、うむ……」明らかに、歯切れの悪い応えだった。
 おそらく、表情が読み取りやすくなったのも要因の一つかも知れない。今、彼が何を考えているのか、推し量るのは存外に難しいことではなかった。
 そういえば、そろそろ昼時だったか。
「もしかして……今日の昼食、何を食べようか迷ってる――とか?」
 小首を傾げながら問いかけるも、返ってきたのは沈黙だった――が、落ち着きなくあちこちへ目線を泳がせている挙動を見るに、どうやら図星らしい。ああ、だから理由を言い淀んでいたのか。
「かほん。……ホンル君」
 一つ、咳払いをするイサンの頬がほのかに上気する。そんな姿が、どことなくあどけなくて、微笑ましい。
「あははっ、……いやぁ~、まさかこんなことで頭を抱えてるだなんて思わなくて~」
 みるみるうちに紅潮していく白皙を眺めては、笑いで震える肩をどうにかこうにか押さえ込む。
「そんなに悩むくらいなら、いっそこうしませんか?」
 こちらとしても、別に彼を笑い種にするつもりはない――まあ勘付かれたところで、イサンの人柄を鑑みるに誰も彼の悩みを笑い飛ばしはしないと思うが、彼にも彼の面子がある。それゆえ、あたかも内緒話でもするかのように顔を寄せ合いながら、声を潜める。
「イサンさんが食べたいものを教えてください。僕がそれを選んで、二人で分けるなんてどうです?」
「し、しかし……」
「寧ろ僕も何を食べようか迷ってたところですし願ったり叶ったりですよ~。だから、ここは人助けと思って……ね?」
 そう言って見つめた彼の双眸に、あの頃の伽藍洞じみた空虚は見出せなかった。
 実際、これといって食べたかったメニューがあるわけでもない。それよりも、何よりも――つい先ほどまで過去に思いを馳せていたからだろうか。今日は、他でもないイサンと共に昼食を摂りたいと思ってしまった。単なる口実に過ぎない言葉の真意に察しがついたのか、どこかばつの悪い表情を浮かべるも、やがてイサンはゆっくりと、その口元を緩やかに綻ばせる。
「……では、そなたの言の葉に甘えん」
「ふふ、こちらこそありがとうございます~」
 今この時、この胸が抱いている感情にどのような名称を付けるべきなのか、自分にも分からない。
 けれど――きっと「あの日」から。彼から向けられる控えめな笑顔が、ホンルは不思議と、この上なく好きだった。
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#LCB61

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綻びる/ホンイサ
W社整理要員 ※「芽吹く」の続き

 夕食を共にして以来、イサンの時間が合えば一緒に食事をすることが多くなった。彼自身、決して口数が多い方ではなかったけれど、想像していたよりもずっと相槌を打つのが上手くて、いつの間にか話し足りないと思えるほど会話が弾んでしまっていただなんて、食事をする前の自分は夢にも思わなかったろう。
 つい先日にはちょうどかぶった休日を利用して、二人で街に出かけないかと誘ってみた。最初は友人と外を出歩けるような私服を満足に持っていないからと渋っていたけれど、そんなイサンに似合う服を見繕う時間も退屈ではなかったし、がちがちに緊張していた彼の口元が最終的には柔らかく綻んでいく様を拝めただけでもお釣りがきてしまう。
 そういえばこの前はイサンから誘われ、初めて彼の社宅にお邪魔させてもらえたのだけれど、その日は生憎徹夜明けだったようで、持ち寄った映画を二人で鑑賞している途中、舟を漕ぎ始めた彼はそのまま肩へと凭れかかるようにして深い眠りに就いてしまった。ちょっとした気配でもすぐに覚醒する人が、こうも無防備な寝顔を晒してくれるとは思ってもいなくて、これほど自分に気を許してくれている事実に満更でもない気持ちではあったものの、当の本人はこの一件を相当気に病んでしまったらしい。たとえこちらが大丈夫だと言ったところで、何かお詫びをさせなければとても納得してもらえそうにない――ゆえにこそ、変なところで頑固な彼の人柄を利用して、新たな食事の約束を取りつけることが出来たのは僥倖と言うべきだろうか。少しだけ奮発して、良いお店を探してしまった。気に入ってもらえると良いのが。

 今日こそがその、心待ちにしていた約束の日。
 現在行われているのが、自分にとって本日最後の整理業務。今回のシフトには、どうやらイサンと良秀も参加しているらしい――小耳に挟んだ時は、一体どんな危険な業務に放り込まれるのだと内心冷や冷やしたけれど、今のところ滞りなく業務は進んでいる。
 鼻歌交じりで床に転がる「乗客」だったはずの肉塊を――暴れた時には無力化して――解体し、分解し、元々それが位置していた座席に並べ直す、単調な作業。いつもであれば退屈で仕方がない整理業務も、その後に待っている楽しみを思えば、さほど苦にはならなかった。入念に片付けをし終えた車両を一望した後、真っ赤に濡れた手をスラックスで拭い、一つ伸びをする。噎せ返るような血の臭いが充満する車両から外に出ると、吐きそうにしている新人を介抱している年長者、昨日見たバラエティ番組について雑談に興じている同僚、等々――ちらほらと戻ってきた整理要員を眺める限りでは、多少の怪我こそありはすれど、他の車両も順調に作業が完了したのだろう。
 期待にも似た眼差しで周囲を探ってみるが、どうやら良秀もイサンも、まだワープ列車から戻っていないようだ。担当車両での業務が思いのほか手間取っているのか、はたまた応援に駆り出されているだけか。
 込み上げてくる苦いものを何とか飲み下す。
 胸に重い澱が沈んでいく感覚。こうした予感は、往々にして的中するものだ。
「――ファウストさん」
「はい」
 プラットホームの傍ら、色素の薄い双眸が、手にあるクリップボードからこちらに向けられた――さりげなく覗き込んでみると、挟まれている書類には、現業務に関する仔細が取りまとめられているようだ。
「応援が必要そうな車両ってありますかね~?」

   * * *

 まだ理性を保っていた乗客達は、パニックを起こしたり、凶暴化したりした乗客を車両の奥へ奥へと押し込めていったのだろう。中にはかなり距離の離れた客室に乗車しているはずの乗客まで含まれているようで、その全てを元の位置に戻すだけでもかなりの重労働になりそうだ。
「……まあ」
 溜息を零しながら、キャップを目深にかぶり直す。今はそんなことに頭を悩ませるよりも、目の前にある「面倒事」を処理する方が先決なのだが。
 目の前には一様に意識を失った整理要員が数名――手足が変な方向に曲がっている者もいれば、頭から血を流している者もいるが、幸い呼吸はしている。後ほど適切な治療を受けさえすれば、十分に助かるはずだ――さらに顔を上げた先で呻きを上げるのは、天井に頭が届きそうなほどの巨体。脈動する剥き出しの血管と筋肉質に包まれた、赤い怪物。数百、数千の時を過ごすことでこれほどグロテスクな異形になり得るのだと思うと、人間の進化に対して少しばかりの感動さえ覚える。
「、……っと」
 耳を劈く咆哮。同時に「乗客」が床を蹴り、距離を詰められた。瞬く間の突進は握り込んだ得物で辛くも受け止めたが、重い。歯を食いしばり、勢いに圧されて吹き飛びそうになる身体を支えるべく足裏でしっかと硬い床を踏み締め、堪える。がちがちと、得物越しに伝わる振動が一層の激しさを増す。重力を一身に受ける足は徐々に痺れ、感覚はほとんどない。このままでは押し返されるのも時間の問題だった。
 翼に入社する以前から、たゆまぬ鍛錬を重ねてきた身だ。多少の暴動であれば鎮圧は造作もないと自負しているが、理性の箍が外れた化け物を相手取らなければならないのは、流石に自分一人では手に余る――とはいえ、自ら志願して応援に駆けつけたからには、ここで無様に逃げ(おお)せるわけにもいかないのだが。
 それに――「手に余る」のは、飽くまで「一人だけ」で対処しなければならない状況下においての話だ。
 眇めた視界に、刹那に映る、一閃の煌き。赤い巨躯にではなく、次元そのものへと走る亀裂――恍惚とするような紫の光が零れ落ちる空間から現れ、装備どころか頬に飛び散る返り血を意に介しもせず、鋭い身のこなしで怪物を裂いたのは、黒い眼差しの男。
 身を翻す間もなく眼前に飛び込んできた肢体を抱き留めた反動でとうとう足は頽れ、床に尻餅をついてしまった。
「い……ったた……」
 神経を駆け抜けるような痛みに思わず呻きを漏らすも、自身よりも一回り華奢な腰に回したままの腕は離さなかった。
「ホンル君……? そなた、怪我は――」
 自分が探し求めていたその人は、自分が来ることなど予想だにしていなかったのかも知れない。丸みを帯び、忙しなく瞬かせながらこちらを見つめる視線が搗ち合う。普段ならばほとんど感情を映さぬ暗鬱とした双眸が幾許かの吃驚と――まっさきに気遣いに類する光を宿して揺れたことを、秘かに自惚れてしまったところで文句は言われまい。
「お尻が痛い以外は何とも~」
「さりか……さならば、良かりき」
 安堵の吐息交じりの微笑には、同じく笑顔で返した。
「それよりも、イサンさんの方こそ怪我はしてませんか~?」
 車内灯で青々と照らされた白皙の頬を汚す赤い飛沫を、手袋で皮膚を傷付けないように優しく拭ってやる。そうすると――当人が自覚しているのか、無自覚なのかは別として――心なしか気恥ずかしそうでいて、一方で心地好さそうに頬を擦り寄せてくる反応は、まるで愛玩動物のそれだ。
 彼が、こんなにかわいい仕草をすることだって、ただ自分だけが知っていれば良い。
 一人悦に入る中、重ねられた手の熱。不意打ちに瞠目する視界を占有するのは、不器用でありながら今まで出会った誰よりも柔らかくてあたたかい微笑。その息遣いが感ぜられるほど近々と感じられた彼の顔を、瞬きも忘れて見つめる。拒みはしなかった――否、拒もうとすら思わなかった、といった方が正しいのかも知れない。こういった行為の際は、目を瞑らなければ失礼に当たるだろうか。惚けたように回らぬ頭でぼんやり思考を巡らせる。待ち望んだ感触は一向に訪れず――ぽすり。左肩へとかかった重みに、ようやく我に返った。
「……イサンさん?」
 返事はない。そうっと、撓垂(しなだ)れる身体を揺り動かそうとした指先が捉えた、ぬるい滑り。てらてらとした赤に塗り潰された己の手のひらを目の当たりにして、息が出来なくなった。
 怪我をしている。
 はやく。
 早く、てあてをしなければ。
 ねえ、はやくおきてよ。
 なんで、こんなによんでもおきないのだろう。
 ――いやだ。
 がちがちと戦慄く口唇でどうにか酸素を取り込む。楽観視が出来るような出血量ではないことは明白で、早く治療を施さなければ手遅れになる。今すぐイサンをここから連れ出して――ああ、そうだ。後は気絶している整理要員の回収、整理業務の応援を要請しなければ――止まりかけた思考に、肉体に鞭を打ち、物言わぬイサンに肩を貸すようにして立ち上がって踏み出した一歩は、酷く重かった。まるで重石でも運んでいるような気分だ。そんなことを考えてしまったところで頭を振る。
 まだ、約束を果たしていない。
 まだ、死んで良いなどと自分は許していない。
 無我夢中で、重い身体を引きずるようにして歩く。そして、無我夢中だったからこそ気付くのが遅れてしまっただなんて、我ながら滑稽だった。
「……あ」
 ――背後で蠢いている、無力化しきれなかった肉塊の存在に。
 振りかざされた腕から庇うようにイサンに覆いかぶさる。衝撃はない。それどころか、痛みすら感じない。おそるおそる顔を上げると、動きを止めた肉塊の四肢が美しい断面図を覗かせながら、ごろりと、重圧のある音を立てて転がった。
「……はあ」
 不意に立ち込める煙草の匂いが誰のものか、自分は知っている。
「……良秀、さん?」
「ったく。完・無・気(完全に無力化するまで気を抜くな)……新人教育の際に教わらなかったのか?」
 おかげで素晴らしい芸術を自ら引き剥がす羽目になっちまった。不満げに独り言つ口元に紫煙を燻らせ、ひときわ大きく舌打ちした良秀の赫々とした鋭い眼差しがこちらを睨めつける――が。
「うん? そいつは……」
 すぐにその視線は腕の中にあるものへと向けられた。
「なんだ、無様にやられでもしたか?」
「わ、分からないんです。ただ、何度呼びかけても起きないし……背中からたくさん、血も出てて……」
「血?」
「早く、早く診てもらわないと――」
 ぐるぐると最悪の事態ばかりが脳裏を過る。暴れ回る鼓動が煩わしい。呼吸が上手く出来ない。もし、このまま目を覚まさなかったら――
 刹那、強い衝撃。続いて、頬へと走る熱いものに、しばらくしてようやく自分が殴られたのだと悟る。
「少しは落ち着いたか?」
 何故殴られたのだろう。何も考えられなくて、唖然と見上げた彼女の顔は、目に見えてうんざりとした様子で再び舌を打った。
「……おい、ひよっこ。よく聞け」煙を吐き出した良秀は続ける。「背中から血が出てると言ったが……こいつの装備にそれらしい破損はあるか?」
「破損……」
 彼女の言葉を反芻しながら、慎重にイサンの背に手を回す。
「……あれ?」
 隅々まで確認してみたが、傷らしい傷は見当たらなかった。そんなはずはない。だって、こんなに手が真っ赤に濡れるほど、血が流れているはずなのに――
「…………あ」
 次元そのものへと走る亀裂。飛び散る返り血を意に介しもせず、出来たばかりの次元の狭間から姿を現したイサン。
 頭を掠めた記憶に、思わず声を上げてしまった。
 いや、まさかとは思うが。
「これ……もしかして全部、返り血です?」
「そうでなきゃ、こんなだらしない顔して眠ってられないだろうが」
 もはや嘆息めいた溜息を零しながら、眉間に眉を寄せる良秀が指し示す先、胸に抱かれたイサンへと視線を落とす。青く照らされてこそいるけれど、顔色は決して悪くない。か細くも規則正しい寝息を立て、あの休日――初めて訪れた彼の社宅で、隣で見守っていた安穏とした寝顔が、そこにはあった。
 まさか、単なる取り越し苦労だったとは。これまでの緊張が全て解けたからか、どっと襲い来る疲労感で身体から力が抜けていく。まったく人騒がせだと言いたいところだが、第一騒いだのは自分自身であるため、心の奥底に沈めておく。
 しかし、何故イサンは急に眠りに就いたのだろう。いくら新人教育業務の準備に熱を入れ過ぎて徹夜や残業を重ねた後だったとして、こういったことは今までに一度もなかったはずだ。彼の緊張の糸が切れるきっかけは何か――そこまで考えて、思考を止める。これ以上はいけない。これ以上は、きっと自惚れてしまうから。
「良秀さ~ん……悪いんですけど、武器を預かってもらえません? 流石に持ったままイサンさんを抱えるのは難しくて~」
「やらんぞ。何で俺がそんなことを……」
「そこを何とか~。今度何か奢りますから~」
 緩みそうになる口元は、いつもの笑みの下にひた隠す。敏い彼女にはすぐに察せられてしまいそうだけれど、一人だけの秘密にしたかったから。

 ――一旦綻びてしまった感情は、後は花開く瞬間を待つのみ。
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#LCB61 #W社

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