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性癖の煮凝り。

No.31, No.30, No.29, No.28, No.27, No.26, No.257件]

あなたの理由になりたかった/ホンイサ
K社と壇香梅

 開け放たれた障子から射し込む陽光へとこの身を晒す。耳に蝟集(いしゅう)するのは、姦しいばかりの都市の喧騒であればすぐに掻き消されてしまいそうな木々のささめき、小鳥の囀り、そして志を同じくする同朋達の語らい。
 緩やかに流れゆく時間に身を委ね、羽を伸ばすのは果たしていつぶりだろうか。大義の下、これまでに多くの屍を積み重ねてきた。これまでに流した、そして流された血で彩られた異常と呼ぶべき――けれど、もはや麗しさすら見出していたその道をひた進む我々には分不相応なほど、酷く穏やかで静謐なひととき。
 幽けき音に耳を傾けながら、陽射しの眩さに思わず細めた目をゆるりと伏せる。たまには、こうして午睡に耽るのも悪くないのかも知れない。
「イサンさん、質問したいことがあるんですけど~」
 ――すぐ傍らで呑気な音が落とされたかと思えば、次いで胡座を組んだ膝へとのしかかる重みに閉ざしかけていた瞼を堪らず開いた。眼前には、瞬く星夜を梳かしたような豊かな黒髪。そして、(へい)として此方を見つめる翡翠と黒曜石。仮に乗せるとして、それが愛くるしい小動物であればどれほど良かったことか。
「重し。離れたまえ、疾く」
「え~?」
 まるでそれが当然の権利であるかのように、さも自然に膝を枕にして寛いでいる男を扇で押し返そうとするも、微動だにしないどころか当の本人は形の良い唇を尖らせるばかりで一向に動こうとする気配はない。鍛え上げられた恵体を強固なボディースーツで鎧った男が、あたかも愛猫の如き振る舞いでじゃれついてくる様は――とはいえ、実のところ髪の触り心地は絹糸めいて存外に悪くない。悪くないが、決して彼の前で口にしてやるものか――悪夢以外の何物でもないだろうに。いや、まずそれよりもこの男が当たり前のように敵勢力の本拠地へと容易く足を踏み入れている時点で度し難い異常事態なのだが。
「僕の話し相手になってくれるだけで良いんです~。だって、こんなに心地好い日和でしょう? 何か話してないとこのままうっかり眠っちゃいそうで~」
「ふん、おのがままに眠るべからむ」
「それが出来たらどんなに良いか~……研究員さんの話だと、夢見ひとつで崩壊に繋がるらしいので、僕達摘出職職員に睡眠はご法度なんですよね」
「…………」
 男の口調は同情を誘うような哀しげなそれでも、自身の身の上を呪うような恨めしげなそれでもない。ただいつものように人好きのする微笑を浮かべながら、あっけらかんと告げるその様子に、自ずと視線は下がっていった。
 再び訪れた沈黙を同意であると判断したのだろう。床に転がる花弁を指先で弄びながら、眼前の男は笑みを深めるその唇を開いた。
「イサンさん達は、この世からあらゆる技術を消し去るために行動してるんですよね?」
「……さりとし、何なりや?」
 いかなる技術の存在しなかった、全てが一層輝いて見えた過去に戻る――自身の理念とは多少の相違はあるといえど、概ね間違ってはいない。
「僕、少し気になったんです。『技術の解放』が大義だとして、そうだとしたらその解放すべき『技術』というものも、その自由を望んでいるのかな――って」
 まるで技術が意思を持つかのような口ぶりで、あどけない好奇心に塗れた言の葉が、眼差しが、一心に己へと向けられる。
「あ、おかしなことを言う奴だと思ったでしょう? AIだって、もしかすると人間よりも人間らしい思考を持っているとも知れないじゃないですか。同じく人間によって見出された技術が、彼らなりの意思を持っていたって何ら不思議ないと思いますけど~」
 よほど――それこそ狐にでもつままれたような顔をしていたのだろうか。くつくつと喉を鳴らした男は伸びをするように、膝の上で身を捩る。しゃらり、しゃらと、長い髪が音を立てて床へと零れ落ちた。
「――それで、イサンさんはどう思います?」
 色の異なる双眸が覗き込むように見上げてくる。思いつきのように、突として齎された問いかけに対して自分が応えてやる義理などないし、そのことは彼も織り込み済みであることを疑う余地はない。
 しかし、その心とは裏腹に、意識は思惟に沈んでいく。
 まず過ぎるのは、さる翼の「鑑賞室」。人々へ癒しを与える星の子のためだけに上映される悲劇的視聴覚飼料。
 次いで過ぎったのは、さる巣に構える屋敷。嵐の吹き荒ぶその地下で繰り広げられるおぞましい人体実験。
 どちらも自分自身が目の当たりにしたわけではない。いつか鏡越しに見た、幾つもの可能性のいずれかで起きたやも知れぬ、もしもでしかない光景。――しかし、もしも唾棄すべきそれらに用いられた「技術」自身が、喜んでその身を差し出しているのだとしたら――
 花枝を手折るかの如き、乾いた音が響いた。
「あちゃぁ……」
 嘆息にも似た声を漏らした男が、壊れ物でも扱うかのように恭しい手つきで取られた右手。逸る心臓から送り込まれる、滾るような血潮。どっと噴き出す汗が気持ち悪い。乱れかけた思考を律し、遅々とした動作で動かした視線の先で、ようやく親骨の折れた扇に気付いた。
「派手にやりましたね~。怪我、痛くありませんか?」
 折れた拍子に、木片が指に食い込んだのだろう。破れた皮膚から珠のような血が滲んでいく様を、茫洋と眺めながら。
「……私は、そなたが憎し」
 突拍子もなく口を衝いて出た言葉に――おそらく、傷を診ようとしたのだろう。自身に伸ばされた男の手が止まった。見開かれた瞳が酷く揺らいでいる――至極当然だと言い聞かせる。彼等摘出職職員によって、今までどれほどの同胞が手にかけられたことか。己を気遣うような真似をするこの男とて、戦場に投入されれば息をするように得物を振るい、唇に変わらぬ笑みを湛えたまま、つい先刻まで親しげに語りかけていたであろう者達をいとも容易く崩壊させていく。
「……はい。勿論、知ってます」
 この男がどういった経緯でK社へと入職するに至ったのかは概ね把握している――とはいえ、彼が聞きもしないのに話したからだが――故にこそ、理解出来なかった。
 仲間を守ることさえ出来ず、呪いの言葉を吐き散らすことしか出来ぬ取るに足らぬ存在など、嗤って一蹴すれば良いだろうのに。
 何故、彼は彼自身に課せられた理不尽に対して怒りを顕わにしないのか。
 何故――彼は、こんなにも哀しげに微笑むだけなのか。
「そして――そなたをさに変えにけるK社もまた、さなり」
 先とは異なる色を宿して瞠目した二つの宝珠が、己を凝視していることなど気にも留めず、続ける。
「うち出でしばかりの技術は純粋で……かくて、無知なり」
 まるで、その技術を使用する当人を映し出す鏡のように。
 かの翼の特異点によって齎されるのが慈雨の如き癒しであったとして、その癒しを得るために――硝子管の中でしか生きられぬ兵士を作り出すために、そして汚らわしい私利私欲のために、この世に生まれ出でた尊き技術が凌辱されるというならば。
「私は、技術の全てを灰燼に帰さん」
 技術の意思など関係なく。
 それが技術の生まれる瞬間を見届けた時に感じた、打ち震えるような純粋な喜びを知る者としての、自分に出来る責務だ。
「これで満足せりや?」
「……あはっ。ちょっと身勝手が過ぎる回答じゃないですか~、それ?」鈴を転がすような、玲瓏な笑声を上げながら続ける男の目には、一片の揶揄も嘲笑も孕んでいない。「でも、ありがとうございます。イサンさんが僕の代わりに気を揉んでくれるだなんて、少し意外だったかも」
「自惚れも大概にしたまえ」
「え~っ。明らかにそういった意味を含んでましたよね、あの言葉!」
 不意に起き上がったかと思えば、遠慮のない膂力でこの身を抱き竦めてくるのだから息苦しくて仕方がない。このまま己を抱き潰して息の根を止める心算なのだろうか、この男は。
「……でも、僕だってこの職に就いて嫌なことばかりじゃないんですよ? だって――」
 僕が摘出職職員じゃなかったら、イサンさんに会えることなんて、一生なかったでしょうから。
 睦言(むつごと)を紡ぐかのように、耳元で囁かれた密やかな声。寸秒の沈黙の後、その頭を折れた扇で(はた)いてやった手に、不自然に汗が滲んでいたのは暑苦しかったせいだと自分に言い聞かせた。
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#LCB61 #技術解放連合 #K社

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雨の檻から連れ出して/ホンイサ
囚人と囚人

 しとど降り注ぐ雨に紛れるよう、見慣れた人影があった。露に湿ったところで、うねることなく一層の艶を放つ夜色の豊かな髪。曇天を見つめたまま、まるで精緻な彫刻のごとく、ぴたりとも動かない彼の表情は見えなかったけれど。
「……イサンさん?」
 泥濘を踏み締めた足音で、自分以外の存在に気付いたのだろう――はたまた、彼のことだからそれよりも先に己の気配に勘付いてたとして何ら不思議に思わなかった。
「ふふっ、凄い雨ですね~。外に出てまだそれほど経ってないのに、もうびしょ濡れになっちゃいました」
 まるで何気ない言葉を口にでもしながら、流れるような所作で振り返った彼の整った白皙は常と変わらぬ笑みを湛えていたけれど、心なしか蒼白を帯びた口唇を視界に捉える。
「……ホンル君。そろそろバスに戻らん」
 手の施しようのない致命傷を負ったところで、不治の大病を患ったところで、管理人の時計が巻き戻りさえすれば全てがなかったように肉体は正常を取り戻し、何事もなかったように再び時が巡り出す。
 とはいえ、不要な苦痛を友たる彼にかけるべきではない。
 ――風病に蝕まれ、苦しむ目の前の彼とて、見たいものではない。
「ふふっ、すみません」彼は、変わらず目を細めていた。「時々、ふと雨に打たれたくなる時があるんです。耳を打つ雨音が、肌を叩く雨が、どうしようもなく心地好くて……」
 ふいと空を仰いだ眼差しは、遠い。
 酷く不安定で、曖昧としていて。
「……」
「イサンさん? どうし――わっ」
 泥濘む土を一歩、一歩と近付く自分へと傾げられた頭を、自身の外套で覆い隠した。
「えっ、……え、あの、これ……」
 想定の範疇から逸脱していたからだろう。ワンオクターブ上がった声色からは、隠しきれぬ動揺が滲んでいた。外套を掴もうとした手を、離さぬようしっかと搦めとる。
「……あの」
「泥濘に足を取らるまじく、心留めたまえ」
 外套によって隠された顔を、決して見ぬようにして。
 発せられる音は、一層激しさを増す雨によって掻き消されるままにして。
 そうして、バスに向けて一歩を踏み出した。
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#LCB61

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透明な傷をなぞって/ホンイサ
囚人と囚人

 硝子窓から降り注ぐ陽光は目を焼くには柔らかく、心地の好いぬくもりが皮膚に滲みいっていくようだった。朝寝に耽るにはこの上ない気候だというのに、今日は不思議と目が冴えていて、夜着から制服に着替えては、誰よりも一足早く廊下へと足を踏み出す。一つ扉をくぐると、目を焼くような鮮やかな深紅の内装。もはやすっかり馴染みのある光景となったバス構内を染める仄青い陽射しに目を細めながら、ふと視線の先に認めた人影まで歩を進める。自身の座席よりも一歩、前。二人掛けの座席――得物を抱きかかえたまま、自身の指定席に腰かける友を見下ろす。朝の挨拶をしようと開きかけた口は、白皙に影を落とす長い睫毛に慌てて噤んだ。
 ――眠っている、のだろうか。
 不躾な行為だと百も承知で、抗えぬ好奇心のままに覗き込む。あえかに上下する胸元と、ほとんど空気を震わせぬ呼吸。時折うと、うと、と船を漕ぐ顔は普段と比べても、幾分かあどけない。
 相当、昨日の業務で疲れが溜まっていたのだろうか。
 それとも――薄明の持つ魔力が彼をこうさせたのだろうか。
 幸い、自分達以外には誰もいない。管理人や他の囚人がここに来るまでには、もう暫くの猶予が残されているはずだ。未だ夜気の残るバスの空気に体を冷やしてしまわぬよう、身に付けていた外套を、夢の中にある友の肩へと掛けようとした――色彩の異なる双眸が開かれたのは、それとほぼ同時。

 瞬きすら許されぬほど、ほんの刹那の出来事だった。骨が軋む力で肩が押され、世界が反転する。強かに打ちつけられた身体の痛みとか、首筋に走った鋭い熱――確実に、急所を狙った斬撃だった。しかし、彼自身によって咄嗟に鋒をずらされた――とか、今ばかりはどうでも良かった。
「……っ、」
 それよりも、何よりも。
 誰よりも朗らかに笑う整い過ぎた美貌を酷く強ばらせて。
 誰よりも美しい宝珠のような瞳を酷く揺らして。
 己を見下ろす彼の痛々しさに、心を囚われていた。
「イサン、さん……僕……」
「……ゆっくり、息を吸いたまえ」
 ――だから、今の私に出来るのは。
 震える嗚咽ばかりを零す、呼吸の仕方を忘れた彼を、やおら抱き締めてやることだけだ。
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#LCB61

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つたない二人のつくりかた/ホンイサ
囚人と囚人

 二人きりの逢瀬、向かい合う薄い唇に触れると、ふるりと震える艶やかな睫毛。次いで、あえかな熱が灯りゆく白皙の頬が眼前に映り込む。イサンと「相思相愛」の関係になってから幾許かの時が経つが、肝心の彼はというと、未だに口吸いという行為に慣れる気配はない――とはいえ、細りとした身を硬直させるばかりだった以前までとは違い、おずおずながらも彼からすすんで唇を寄せてくれるようになった。背に回した腕へと力を籠め、耳まで鮮やかな朱に染めながら離さぬとばかりに己を掻き抱いた彼のいじらしさに、愛おしさばかりが膨れ上がっていったあの瞬間を今でも覚えている。
 イサンから求められている――愛されている。もはや疑いようのない確信に至ったからこそ、踏み越えるべきでないラインを見誤ったのかも知れない。僅かに開かれた口唇の隙間から舌を滑り込ませようとして――大袈裟に跳ねた肩。自身のものとは異なるぬくもりに対して、相当気が動転したのだろう。
 舌先に触れた硬質な物質が、ぷつりと音を立てて薄い皮膚を食い破る。灼熱めいた痛みを訴える傷口から止め処なく広がる鉄の味に、真っ先に反応したのはイサンだった。
「す、すまない……私は、そなたに怪我を……」
 先ほどまで果実のように熟れた色を晒していたはずの顔がたちまち痛々しいほど青褪めていく。先ほどまで甘く蕩けていたはずの双眸が動揺によって酷く揺らいでいた。
「うん? ……あ~」
 無論、決して痛みがないわけではない。しかし、過去の鍛錬や日頃の血腥い業務を思えば、この程度の傷であれば問題なく無視出来る。だからこそ、軽い調子で「大丈夫ですよ~」といつも通りの笑顔を浮かべさえするだけで、強張ってしまったその顔を綻ばせてくれるはずだった。
 そうであるはずなのに、そうしなかったのは――己の中でどうしようもない悪戯心が芽生えてしまったから。
「そう言われると、確かにちょおっとばかり痛いかも~」
 声に出すや否や、一層血の気の引いた白皙に一種の罪悪感を覚えながらも、それを表に出さぬよう目を細め、見せつけるようにして笑みを模る唇を開きながら。
「……ここ、イサンさんが舐めてくれたら、痛みが治るかも知れません」
 腫れて赤みを増した舌先を覗かせるようにして、彼に見せつけた。
 訪れた沈黙。瞬きを忘れた黒曜石が、まるで人形のように固まったまま、自分を見つめている。彼お得意の思考の海に沈んでいるのか、はたまた思考が停止してしまっているのか。突飛に齎された提案を前にして、彼は最初にどのような表情を見せるだろう。顔を真っ赤にして慌てふためくだろうか。それとも機嫌を損ねてしまうだろうか――覆水盆にかえらずとは言うが、彼に嫌われてしまうのだけは嫌かも知れない。
 今ならば、未だ引き返せる。冗談であると告げようとした言葉が、しかし音になることはなかった。
 眼前に映り込んだのは、ふるりと震える艶やかな睫毛。次いで、あえかな熱が灯りゆく白皙の頬。
「……ん、」
 ――そして、薄く開かれた唇から現れた、彼の舌。躊躇いがちに差し出された粘膜が、己の舌先へと刻まれた傷をなぞり、健気にも、懸命に唾液を擦り合わせる様を瞬きも忘れて見入る。
 初めて目の当たりにするイサンの舌は想像していた以上に赤かったとか、熱かったとか。
 鼓膜に触れる、鼻を抜けるような吐息が酷く扇情的だったとか。
 かわいいとか、好きだとか。
 とりとめのない感想が、頭に浮かんでは弾け飛んでいく。自分は夢でも見ているのだろうか――けれど、まざまざと感じ取れる生々しいぬくもりこそが、これが夢でないことの証左となった。
 誰よりも聡い彼が、何故このような奇行に走ったのか。もはや何かを考えるだけの余裕など、自分にはなかった。
 ――そしてそれは、きっと彼も同じこと。
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#LCB61

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涙は希釈された祈りであること/ホンイサ
囚人と囚人

 どうして僕に、このE.G.Oが抽出されたんでしょうね。
 もはや慟哭と呼んで差し支えない――常であれば軽やかな音律を乗せるように、玉を転がすかの如き笑声を紡ぎ出す声帯から発せられているとは到底思えないあれは、本当に己の知る「彼」の声なのだろうか――耳を劈くような悲鳴を上げ、爆ぜて散り散りになり果てた蒼黒の肉塊を視界に映す。
 酷く、酷く陰鬱な心地だった。心の柔らかな部分を真綿で包むようにしてぎりぎりと締めあげられるような、名状し難い窒息感。つい先刻、突として落とされた彼の問いかけは、未だに頭の中で反響し続けている。
 青い涙を流して泣くばかりの幻想体が一体何を考え、そのような行動を取ったのか。その真意までを推し量ることは出来ても、それが必ずしも正解であるとは限らない。しかし、精神の悉くを擦り減らし、発狂へと至らしめるその響きを――それでも否が応でも泣き止ませる行為に対して、僅かばかりの罪悪感を抱いてしまった事実をただの気の迷いであると、自分には断定出来なかった。
 ――もしやすると。
 かの幻想体は自身の感情に、自我に感化させることによって、彼の気が済むまで「泣ききらせよう」としているのではないか。
 突飛な思考が脳裏を過るも、不思議と溜飲の下がるような心地だった。
 ホンルという囚人が、自身の感情を発露させることはほとんどない。常に笑顔で、朗らかで、何も考えていないようでいて、他者を慮る言葉を欠かさない青年――そんな彼が時折、ふとした瞬間に酷く達観とした表情を覗かせることがあった。
 どこか諦観にも似たような、神妙なそれを目の当たりにするたび、その作り物めいた美しい笑顔の下にはどれほどの感情をひた隠しにしているのかと思索を巡らせることがある。木漏れ日のように優しい微笑が自分に向けられるたび、ふつふつと込み上げる多幸感に顔が綻ぶと同時に、この笑顔がただの作り物でないことを心から願った。
 果たしてどれほどの言葉を尽くせば、本当の彼を見つけられるのだろう。
 いくら伸ばせど、この手は未だ届かぬというのに。蛙は彼のために滂沱の涙を流してやれる事実に。
 不意に、狡いと思ってしまった。
 ――最も狡いのは、この胸に息衝く醜い感情だというのに。

「イサンさん」
 名前を呼ばれた気がして、おもむろに顔を上げる。ちょうど時計が巻き戻り終えたらしい。先程E.G.Oに侵食されたばかりとは思えぬあっけらかんとした面持ちで、彩の異なる珠のような眼差しを己に向けて、彼はいつものように笑っていた。
「そなた、安穏なりや?」
「ふふっ、体が吹き飛ぶくらい、今更なんともないですよ~」
 何とはなしに紡がれた言葉。気の抜けた笑顔。
 いつも通りの、緊張感のない見慣れた姿。
 ――そは、真なりや?
「……さりか」
 口をついて出かけた疑問が音を成す前に、あえかな苦笑で隠した。
「しかし、精神に並々ならぬ負荷を受けた身なれば、さほどな無理しそ」
「はい。それよりも~……」つ、と眦を撫ぜる心地好いぬくもりにほっとするにも、それはあまりに唐突だった。「イサンさん。目元が赤いですけど、大丈夫ですか~?」
 それが彼の指先であると気付くよりも先に、すぐ側にまで迫った端正すぎる顔を、瞬きも忘れて見つめる。
「何を……、」
「う~ん……目も少し潤んじゃってるし、もしかして泣いてました?」
「…………は?」
 しばらく、彼から齎された言葉の意味が理解出来なかった。泣いていた? 自分が?
 この戦闘中、一遍たりとも涙を流した記憶など自分にはなかった。しかし、気遣わしげに此方を窺う瞳に、明らかな嘘が紛れているようにも見えなくて余計に訳が分からなくなってしまう。おかげで頭の中は顔料で塗り潰したように真っ白だ。
 仮に彼の言うことが事実ならば、自分はいつから目を潤ませていたのだろう。
「あはぁ……その調子だと、イサンさん自身も気付いてなかったんですね~」
 目の前でころころと笑う彼の声に、現実に引き戻される。珠の双眸は楽しげに細められていたけれど。
「あ~あ。あなたが、僕のために泣いてくれたのなら良かったのに」
 気のせいだろうか。微笑を湛えたままの口唇から独り言ちた言葉が、一等柔らかくて優しい響きを帯びていたのは。
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#LCB61

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残香/ホンイサ
K社と壇香梅

 これは、一体どのような状況なのだろうか。
「隣、良いですか?」
 そう言って、今まさに――己の返答すら待つ素振りも見せず――隣の座席に腰掛けようとしている男が纏っているボディースーツを、忘れるはずがない。多くの同胞を殺め、数多の血を吸い上げてなお、忌々しいエメラルド色の輝きを損なうことのないそれは、K社に属する三級摘出職職員の装いだった。
 男は人懐こい快活な――「摘出」などと称する殺し合いの時と何ら変わらぬ笑みを湛えたまま、異なる彩りを持つ双眸が覗き込んできたかと思いきや。
「あははっ、そんなに睨まないでくださいよ~」まるで鈴でも転がすような声で呑気に笑い、続ける。「今は共闘関係にあるわけですし、わざわざ敵対する必要なんてないじゃないですか」
「戯言を……」
「まあまあそう言わずに~」
 笑顔を崩さぬ男の言い分とて、決して間違えているわけではない。今の我々はリンバスカンパニー――その一部署で、管理人を務めるダンテの指示を受けて動く身に過ぎない。仮に周囲の制止を振り切ってでも目の前にいる男と「死闘」を繰り広げ、いずれかの時間が止まったところで、管理人が時針を巻き戻してしまえば、まるで何事もなかったかのように息を吹き返して再び正常に時を刻み始めるのだろう。
 これまでの犠牲に一矢を報いることさえ出来ない、何の意味もない、不毛な行為。
 それゆえの、不干渉。
「それに僕、前々からあなたとは話してみたいと思ってたんです」
 その花枝、身体から直接生えてるんですか?
 花で隠れている目はちゃんと見えてるんですか?
 花が萎れたり枯れたりすることはあるんですか?
 普段はどんな食事をしてるんですか?
 ――等々。ああ、いつになったらそのお喋りな舌が乾ききって、(おし)のように黙ってくれるのか。やはり舌の一つくらい切り落としておくべきだったか。若干の後悔に苛まれながらも、矢継ぎ早に投げかけられる彼の問いに対しては溜息で応えを返しながら、視線を向けた盆上に用意されていたのは、なだらかなフォルムを描く白磁の茶壷と茶杯が二つ。他の囚人の影響か、どうやらこの世界線の「イサン」は、最近好んで茶を口にしているらしい――状況からの憶測になるが、何者かをもてなそうと茶を淹れてから間もなくして招集がかかったようだ。
 時が過ぎ、すっかり冷めきってしまった茶杯の片割れを持ち上げる。眼前で揺らぐ淡黄色の水面。鼻を近付けてみると、甘やかな花の香りがした。
「それ、もしかして菊花茶です?」
「……そなた、分かるや?」
「あなたの纏う香りの方が強いので、少し自信がなかったんですけどね~。多分そうだと思います……あ、やっぱりそうだ」
 同じようにして茶杯を手に取り、香りを楽しみながら――正答に安堵したのか、見目麗しく咲き誇る百花もかくやとばかりの鮮やかな微笑を深める男は、頼んでもいないのに淀みない口調でさらに言葉を紡ぎあげていく。
「懐かしいなぁ。これでも僕、昔はゆったりとお茶をして過ごしてたんですよ~。色んな茶葉を集めて、嗜んできたので、お茶には多少自信があるんです」
「……斯様なやんごとなき趣味を持ちしそなたが、何故K社の摘出職なぞにつきけりや?」
「ふふ、やっと僕に興味を持ってくれました?」
 口を衝いて出た疑問に、翡翠めいた瞳が一層の煌きをもって瞬いた。失言だったと舌を打ったところでもう遅い。
 しかし、塵ほども興味がないかと問われたならば、それはそれで嘘になる。
 口ぶりからも、彼が明らかな嘘を吐いているようには見えない。何より、ほんの僅かな交流でも分かる美しい所作、整った身なりからも鑑みるに、元は相当裕福な家の出だったのだろうと想像に難くなかった。
 安穏としたひとときを好んでいたであろうこの男が、どのような経緯を経てK社に入社し、自らの身を血で染め上げるに至ったのか。
 ――けれど、同時に知ってはならないと頭のどこかで警鐘が鳴り響いている。
 視線を、話題を一方的に打ち切るべく、些か大仰な所作で扇子を開いた途端に鼻孔へと広がるえ辛い花の香。僅かに覚えた頭痛を誤魔化すようにして、杯に注がれた茶を一息に呷った。
「……話は終わりき。その茶を飲まば疾く私の前より失せたまえ」
 幸い「イサン」が淹れた茶だ。毒の類いが入っているはずもない。それでも、いくら待てども彼は水面を見下ろすばかりで、一向に口をつけようとはしなかった。
「う~ん……お茶のお誘いは嬉しいんですけど~……」しばらくして、心なしか名残惜しげに手の中にあった杯を卓上に戻しながら、男は笑う。「人らしい食事を摂らなくなってから久しくて。もしかすると吐いちゃうかも知れないので、遠慮しておきます」
 こともなげに吐露された言葉の意味を、噛み砕くまでにはしばしの時間を要した。
 そうして、茶杯を見つめていたはずの眼差しがこちらを捉えたかと思えば、彼は何も言わずに、やがて困ったように目を細める。
 待ち望んだものとは程遠い、痛いほどの静寂。
 唖のように黙り込んでしまったのは、他でもない自分自身だった。

 ――果たして、自分は一体、どのような顔をしていたのだろうか。
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#LCB61 #技術解放連合 #K社

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